novel2






HALATION ACT

2016_4_10




※及川の進路が公式で決定する前に書いたお話です。


 及川徹の持つ鮮烈な輝きのようなものが、目の裏に焼きついて消えてくれない。
 それは思春期の織りなす一瞬のきらめきでなく、彼の持つ本来的な、恒常的な光であるため、こんなにも胸に迫るのだ。

「大変でしょ、あいつと付き合うの」
 そう言われたのは初めてではなかった。共通の知人は、さまざまな意味を含ませて私にねぎらいの言葉をかける。まったくそのとおりだと思うときもあれば、意外にそうでもないと思うときもある。彼から受ける印象は秒単位で移り変わるため、付き合いの長い私ですらその都度まどわされ、振り回されるのだ。一貫して言えることは、及川徹はつねに及川徹としての人生を、なんのてらいもなくまっすぐに生き抜いているということだった。
 今朝方、大学で言われた言葉を思い返しながらお湯を浴びる。若干のコツの要るシャワーノズルを右に捻り、髪の先をかたく絞った。曖昧に笑った私の反応をノロケととったのか、先輩は呆れながら話題を変えた。徹に対する愚痴や不満を聞けると踏んでいたらしいが、あいにくその時はそんな気分ではなかったのだからしょうがない。私には勿体ないような彼氏だと、基本的には思っている。
 体を拭き、シャツをかぶり、バスルームを出る。見慣れた室内に部屋主の姿がなく視線をさまよわせると、ベッドの向こうで体勢を低くして筋トレに励んでいる彼を見つけた。白いTシャツの裾が腕立て伏せの動きにあわせひらひらと揺れている。規則的に息をもらす徹を横目にキッチンへ行き、洗い残しの食器をすすぎながら、こんな生活にもずいぶん慣れてきたなと感慨深く思った。コンロの上には今朝作ったトマトソースが残っている。タッパーに入れて、明日の朝スープにでもしようか。
 東京に出てきて二年。互いに心もとない一人暮らしを続ける中で、自然と相手の家に泊まることが増えていった。同棲というほどではないけれど、衣食住の三割ほどを共有する生活を送っている。掃除や洗濯についてはわりとマメにこなす彼だけれど、食に関してはどうも面倒臭さが先にたつようで、いつまで経ってもまともな自炊をしようとしない。「ビタミンが必要だ」と言いながらキャベツを半たま茹で、ポン酢をふっている彼を見て私は料理を覚えようと決めた。アスリート向けのメニュー本を一冊買って、栄養管理の専門サイトなどを回ってみたりもしたけれど、結局のところ彼の好きなものを好きなだけ作るのが一番だろうという大まかな気持ちでキッチンに立っている。互いに完璧を求めないことが、きっと長続きの秘訣だ。
 当の本人に目を移せば、腕立て伏せのノルマを終えたらしく、いつの間にかV字腹筋耐久に移行していた。少しだけ震えながらじっと姿勢を維持する彼の顔に表情はない。集中しているのかリラックスしているのか、筋肉を鍛えているときの彼はどこまでも無心であり無言だ。ここまでいくと座禅の域である。
 暇さえあれば筋トレをしているこの大きな生き物を、キッチンの椅子から眺めているのが好きだった。水族館で一人遊びをくりかえす無邪気な白くまを見ているようで、自分とは違う生き物を観察する面白さのようなものがある。
「筋肉つけすぎてもダメなんでしょ、バレーは」
「……」
 自分の身体との対話に忙しいのか、話しかけても反応のない徹に呆れながら立ち上がる。背を向けて冷蔵庫の中を漁っていると、だいぶ遅れて返事が聞こえてきた。
「こんなん全然だよ。クリスティアーノ・ロナウドなんて一日千回腹筋してんだよ」
「あの人はサッカーでしょ」 
「とにかくこれは俺の趣味だからいいの。十代のころと比べたら代謝も落ちてるし、体動かす時間も減ってるからね」
 体育科専攻で大学に通い、放課後は部活だってあるというのに、趣味まで筋トレだなんてやはり彼は私とは違う生物のようだ。泳いでいないと死ぬサメのようなものだろうか。
「それに、お前のご飯おいしくてつい食べ過ぎちゃうし」
 ぼそりとそう付け足して、彼は床の上へ脱力した。体の内側から汗がにじみ出しているのか、いつもよりしっとりと髪の毛がボリュームをなくしている。ふうふうと這いつくばりながら、ちぎれた筋繊維をいたわるその姿はなんだかとても無防備だ。
「うれしいけど……もっとアスリート仕様の方がいい?」
「全然いーよ。大抵自分で作った意味のわかんないメシ食べてんだから、たまにはうまいもん食いたいし。あ、けど、飲み会ある週はさっぱりしたものがいいな」
 二十歳を超えるころから学生のたしなみとして習慣化する飲み会というイベントは、彼にとっても身近なものである。とくに体育会系の付き合いの中では重要なコミュニケーションの場であるようで、なんだかんだと月に数回ほど、飲んだくれている様子がうかがえた。そう強くもないくせに嫌いではないらしく、ほろ酔いを通り越してはむにゃむにゃと甘えた声で電話をしてきたり、予告なく部屋に来てクダを巻いたり、次の日のデートを二日酔いで寝過ごしたりしている。前者二つはかわいいものだけれど、最後についてはさすがに腹が立ったため、家におしかけて寝ている徹にわっせわっせとのしかかったことがあった。酒の抜けない寝ぼけ眼で「ごめんなさいごめんなさい」と謝罪を繰り返す彼を見て、この人は本当にコート上に燦然と輝く名セッター・及川徹と同一人物なのだろうかと不安になったりもするけれど、長所と短所が極端なことこそが彼のアイデンティティであるため、つい仕方ないと許してしまうのだ。
「怒んないで聞いて、お前とデートする夢見てた」
 そんなことを言われて怒れる人間がいるだろうか。

 このようにして、彼と付き合っていくことにはさまざまな感情がつきまとう。それを失望と感じ、彼から離れる者だっているだろう。光があまりに強すぎるため、ささいな影が目立つということはあるのかもしれない。けれど私にしてみれば、そんな影は彼の輝きのひとかけらで吹き消されてしまうものだ。
 休憩を終えたのか、寝そべっていた彼がのそのそと起き上がりこちらへ歩み寄る。私を覆いこむように上体を傾けて、背後の冷蔵庫を開けると、牛乳をとりだして一気に飲みきってしまった。眼の前で繰り広げられる及川徹の生命活動。そのすべてを愛おしく思う。
「明日、練習試合。勝ってくる」
 鳶のように目を光らせた彼が、私の網膜を焼いていく。焼きついたいくつもの光景は古いネガフィルムのように連なって心に残る。彼の持つ輝きが私の中に沁みついて消えやしない。きっと一生消えないことを、誇らしく、少しだけ怖く思う。彼と過ごしてきた時間は私の青春そのものだ。そして青春は今なお続いている。ある日奇跡のように始まったきり、終わる気配すら見せない。
 いつの日か彼は、オレンジのコートの上で、赤いユニフォームを着て、青い日々を思い出すのかもしれない。そしてきっと言うのだ。
「天才なんてくそくらえだよ」
 たしかにそうだ。この世に天才なんていうものは存在しないに違いない。

 私の腰に手をやった徹が、少しためらって下を向く。
「さき風呂入ってくる。汗かいた」
 そんなのいいよ、と言おうとしたけれど、逃げるものでもないため頷いて風呂場へ送りだした。二人でもう一度汗をかいたら、身を寄せて抱き合って、まるくなって眠ろう。幾度目か知れない最高の朝にそなえて。
 眩しいものを感じて目をさますとき、私はいつでも彼の夢を見ている。


HQ夢再録本『テクニカル・タイムアクト』収録

- ナノ -