novel2









「これは夢だ」
 その言葉を聞いて、私はようやく自分が眠っていることに気づく。
 ただ心地よい感覚をぼやりと享受しながら、薄く目を開けていたのだ。これが夢ならば目を覚まさなければならないだろう。わずかに熱く、重くなっている吐息が、柔らかな風に流されていくのを感じながら私は強くそう思った。そうして背を起こし、声の主を見たところでその理由に気づく。脳内を駆け巡る思考はすべて後手後手だ。夢の中なのだから仕方がないのかもしれない。
「マーリン……ここはあなたがいつも私を呼んでいる場所?」
「覚えてるんだ。忘れるようにしているんだけど」
「うっすらと。でも、それならなぜ今日は声をかけたの」
 どうせ忘れさせるのなら、景色も会話も認識させない方が都合がいいはずだ。私はこの夢のような光景を忘れることができるのだろうか。一面の花畑は遠く彼方で滲むように空に溶け、地平線をぼかしている。地球の丸さを感じさせないこの場所はきっと私の知る世界ではない。
「夢魔の能力を知っているかい。相手に夢であることを悟られれば、私の力は半減する」
「半減?」
「そう。君の自我を操ったり、封じ込めたり、抹消したりとか、そういう力が」
 これは私を安心させるための言葉なのだろうか。聞けば聞くほど背筋が冷える彼の説明に眉を下げていると、マーリンもまた困ったような顔をしてこちらを見た。私たちはしばらくのあいだ楽園のそよ風を頬に受け、互いを見た。
「やっぱり、それではフェアじゃない気がしてね」
 不意にため息のようにそうこぼし、彼は足元の花弁をもてあそぶ。
「あなたにも公正たらんとする心があったんですね」
「酷いなあ、私は常に公正だ。嫌になるほどね。君たちのように、感情を由来に行動できるほどの熱をもう持っていない」
「もう?」
「もう」
 彼が言っているのは、彼の起源となるアーサー王伝説における活躍のことだろうか。それとも──。
「人理の焼却をすんでのところで食い止めたあなたは、自らの意志で駆け回っていたように見えたけれど」
「確かに、あれは例外だった。あのときほど彼を、彼女らを終わらせてなるものかと躍起になったことはない。舞台上に飛び上がり、大立ち回りをしたあの一幕は私自身、驚きの経験だった」
 マーリンはそこで一つ息継ぎをして、花畑の先を見た。やはりそこに地平はなく、境界はただ淡くぼやけるのみである。
「僕は我がマスターが愛おしいんだ。それを支える、野草のように可憐で根強い彼女のこともね。いつか大輪の花を咲かせ、実を結び種を残すまで、どうか枯れぬようにと願っている。もちろん、これは勝手な理想だ。何も残せなくともいい。実を結ばずとも、種を落とさずとも、あの子たちの生き方が無駄になることはない」
 彼の声は穏やかな慈愛に満ちている。けれどきっと、私の言いたいことを彼は否定するのだろう。それがわかったので私は相討ちをうつだけにとどめ、言葉の続きを待った。
「だからあの大戦のあと、再びカルデアに喚ばれたときは嬉しかったよ。かの古代都市ほどではないにしろ、私も彼らとともに、自ら戦いに身を投じ続ける覚悟はある。けれど──それはやはり、観測者としての立場あってこそだ。それが私の持つ唯一のアドバンテージで、それを捨てれば残るものは何もない。矛盾しているようだけどね。彼らのために、私は常に切り札でなければならない。切らずに済むに越したことはない、最後の一枚だ」
「でもそれは私たちが、あなたの特性を都合よく使い捨てるということでは」
「それでいいんだよ。切った後のジョーカーを心配する人間なんていないだろう。トリッキーで、無敵で、異分子であるからこそ場を乱す力を持つ。それが私の持つたった一つの能力だ」
 彼は自分を過大評価しているわけでも、過小評価しているわけでもないのだと思う。誰よりも広い視野を持つがゆえに見えるものを、ただ粛々と受け止めているのだ。
「人ならざることが、人を守る方法だと」
「そう言えば聞こえはいいね。冠位をもらっているだけの格好はつく」
「ええと」
 私たちは一体何の話をしていたのだったか。その発端を思い出そうと首を捻れば、マーリンも同時にこちらを覗き込んだ。
「ごめんごめん。こうしてここで、君と話している理由だったね」
「そう、です。私から少しずつ生気を吸っているのは知っていますが、なぜ今日は……」
「うん。本人の知らないところで致すのは姑息だろうと思って」
「致す……」
「何より、忘れられるのもつまらないと思い始めてね。競合他社に対する焦りっていうのかな」
「でもどうして、私なんですか?」
 疑問はずっとそこだった。彼がカルデアに限界して以来、私たちは医療スタッフとサーヴァントとして定期的かつ、それなりに密なコミュニケーションをとってきた。他のサーヴァントと比べ彼の診察時間が長くなるのは、彼がこうして私の知らない、知るべきであろう物事を世間話のようにこぼすからだ。
 冠位魔術師との雑談は、カルデアの演算装置と数年睨み合ったところで得られない知見を湯水の湧く勢いで与えてくれる。
「単純に、おいしそうだと思ったんだよ。可愛らしいし、触りたい。できれば傷つけずに手に入れたい。夢魔の本能を軽蔑するかい?」
 心して答えを待った私に向けて、彼は悪びれなく明快な回答をよこした。
「……軽蔑は、しません。でも私にも、貞操観念とか、羞恥心とか、いろいろ、その」
 私は私で用意していた言葉があったのに、想定以上の軽やかさで問い返されてしまったため、しどろもどろと言いよどむ。その様子がおかしかったのか、マーリンはそうするのが当然といった仕草で私の頬に触れ、髪を撫で、顔を傾けた。
「ま……」
 名前を呼ぼうとしたのか、制止しようとしたのか、自分でもわからないうちに飲み込まれてしまう。彼は果物の皮を上手に剥くようにして、私の中に入ってくる。温かな舌がじんわりと染みて、互いの境界が溶けていくようだ。何かを吸い取られているのはわかる。けれどそれがたまらなく気持ちよく、私は深い口づけの中で己の理性を手繰った。
 彼はこれを夢だと言った。けれどそれは、本当だろうか。湿った息も手のひらの温度も、五感に抱くすべての情報があまりにもリアルで混乱する。夢であると気づいているうちは、彼の力は弱まるのだそうだ。けれど今の私には、夢も現もわからない。弱点を開示されたところでこうなってしまえば彼の手の内から逃れる術はない。
 閉じかけたまぶたの先に花の色が滲んでいる。これはもう何度も見たものだ。薄紅色の余韻。花の感触。額が汗ばみ、息はどんどん熱くなる。どうにでもなれという気持ちと、どうにかしなければという焦りとが混じり合い怖くなる。いつの間にかさらされた素肌の胸元を吸われ、自分の嬌声が水中のように、耳にくぐもる。
「ん、君の気持ちを尊重したつもりだったんだけど……なんていうかこれは……より、歯止めが効かなくなるな。声とか表情とか、女の子を彩るのってやっぱりそういうものだよねえ」
 彼の声はやはり軽快だ。一方の私は重く沈んでいく。手も足も動かず、快楽を拾う感覚機能だけがぽっかりと宙にさらけ出されていて、気がおかしくなりそうだ。指はだんだんと下へ降り、腹をなぞり、膝に触れる。どこまでされるのだろう。どこまでされたのだろう? 何もかもがわからなくなり、私は必死にシーツを探した。自分の部屋のベッドへ戻りたいのに、掻いても掻いても指の先が掴むものは花弁だけだ。気持ちがいい。恐ろしい。止めてほしい。止めないでほしい。ここにいたい。もっと欲しい。囚われたい。逃げ出したい。
「だれか」
 この楽園から、強制的に放り出してくれたのは誰だったか。正反対の暗闇に突き落とし、隣で嗤っていたのは──。
「妬けるね」
 小さく聞こえたマーリンの声に、その名前を思い出す。彼は今も顔を顰め、どこかの夢からこちらの様子をうかがっているのだろうか。
「君がうっかり他の男の名を呼ぶ前に、やめておこうか」
 マーリンはいまだに動けない私の横でそう言って、やわらかく耳を噛んだ。
「それに考えてみれば、犯さないと言ったのは私だ。このまま貞操を奪うわけにはいかない。安心して、今日はもうお眠り」
 夢の中だというのにそんなことを言って、彼は私のまぶたを覆う。やはり私にはわからない。貞操も何も、所詮これは夢の中のできごとではないのだろうか。
「君にとってはね。しかし私にとっては本領だ。一人の女性を吸い尽くして、後悔したことは何度かある。これ以上はやめておくよ」
 私の心が読めるのか、マーリンは最後にそう言ってパチリと電気を消すように、楽園を閉じた。

 目の端に映るのはベッドサイドのパイロットランプだ。時計は明け方の五時を指し、私は全身に汗をかいていた。周りには誰もおらず、花もなく、風もなく、私は一人で寝返りをうつ。
 仕事の時間までにもう少し眠れるだろうか。


2021_09_20

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