「一分間あげよう」
アパートのドアの向こうで、情報屋が言った。
「あの日、俺に助けてもらえなかったらどうなってたか、考えてごらん」
何を言われたってこのドアを開けるつもりはない。そもそも状況的に不利なのは彼の方なのに、なぜそんなにも偉そうなのか。突如現れた訪問者に血の気が引いた私は、ドアスコープからその姿を確認するのみにとどまり、まだなにも言葉を発していなかった。居留守をつかおうと息を殺しているにも関わらず、彼はドアの向こうで喋り続けている。相変わらず常識はずれはなはだしいその言動から、あの日命からがら逃れてきたというのに再び邂逅してなるものか。そう思ってはいるものの、彼の言葉が頭にうずまいて邪魔をする。
確かにあの日彼に助けてもらえていなかったら、私は今以上に最悪な日々を送っていただろう。もしくは日々を送ることすら叶わなかったかもしれない。あったかもしれない無惨な結末に思いを馳せれば、背筋が寒くなり吐き気をもよおした。世の中は最悪な事柄に満ち満ちていて、それはいつも日常のすぐそばまで迫っているのだ。こと、東京という街においては。
「どう? 最悪な気持ちになれた?」
気付けばドアノブを回していた私はそう実感した。こんな結果は初めからわかっていたという顔のナクラさんが、アパートの狭い廊下に立っている。
「君が思ってる以上に、今この日常ってやつは大切なものなんだよ。俺は何もそれを壊そうとしてるわけじゃあない」
古くからの友人の家に上がり込むような気軽さで、彼は靴を脱ぎ私のつましいながら安らぎに満ちた1LDKへと足を進める。量販店で買った上下セットのルームウェアの裾をにぎりしめ、彼の顔を見上げた。目を見まいと、首のあたりにピントを合わせる。今日も黒だ。闇に馴染んでいた彼の黒は、私の部屋では場違いに浮いている。
「どうして、ここがわかったんですか」
「本職だよ? 舐めないで頂きたいね」
アポなしの侵入者まがいとはいえ客は客だ。私は仕方なしに冷蔵庫からつくりおきの麦茶をとりだしてコップに注ぐ。彼は口をつけずにありがとう、とだけ言った。
「他にもいろいろ調べさせてもらったよ。君のこと」
「し、しらべるって何をですか」
「まあなんていうか、ネタがなさすぎて十五分くらいで終わっちゃったんだけどね。君の履歴書くらいのものなら書けると思ってくれていい」
十五分で総ざらいできてしまうらしい私の人生に、興味を持たれたところで麦茶以上のものは出ない。それで結局何しに来たんだ、という顔で私が黙っていると、彼は電気屋の営業マンもびっくりするような人当たりのいい笑顔を浮かべ首を傾けた。
「ちょうど君みたいな何のとりえ……変哲もない女の子に、一役かってもらいたい案件があってねえ」
「案件……?」
「情報屋の案件だよ」
「そんなの無理です。何のとりえもないんで」
「とりえなんてなくていいのさ。むしろない方がいい」
「……私にだってとりえくらいあります」
「ピアノ? 原付の免許? 中学の頃に環境作文コンクールで表彰されたこと?」
彼の方が、私の履歴書をうまく書けるに違いない。ついこのあいだバイトの面接のため無駄にした三枚の履歴書用紙を思いながら涙をのむ。
「まあとにかく、君に手から日本刀をだしたり影を操ったり自動販売機をぶん投げたりする特技がなければいいってことさ」
「はあ……」
みょうに具体的に上がった例がなにかのレトリックなのかなんなのか、理解する間もなく彼は言葉を続ける。
「とある組の下についてる若いチームのリーダーが、すこーし邪魔なんだ。かといっていきなり叩くわけにもいかないから、君に捕まりに行ってほしいんだよね。そういうの得意だろ。俺が君の彼氏として助けに行くから、適当に怯えながら待っててくれないかな。少し強引な美人局みたいなものだと思ってくれればいい」
「……無理です」
簡単に要約された案件とやらは想像以上にろくでもなく、断ることを迷う隙もなかった。組というのはきっと三年五組とかそういう組じゃないし、チームだって草野球チームのことではないはずだ。「叩く」という言葉をどれほどの意味で使っているのかもわからない。とりえがないと言ったくせに物騒な輩に拉致されるのが得意だと言い放ったナクラさんの無神経さに殺意がわいた。つい最近怖い目にあったばかりの人間に頼む事柄としては、不相応もいいところだ。
「どうして? 俺がまた助けてあげるよ」
「そんなのうまくいくかわからないじゃないですか!」
「一応三つくらいは保険をかけとくから失敗することはないと思うけど」
「嫌です。怖いですもん。私の日常を壊すつもりはないって、言ったじゃないですか」
「壊すつもりなんてないさ。俺は君の日常を塗り替えてあげようとしてるんだよ。素敵な色で」
どう聞いたところで詐欺師の甘言だった。しかし断固拒否しながらも、断りきれることはないのだろうと頭のはしで思ってもいた。暴漢に感じる以上の恐怖を、あの日からずっと、彼に対して感じてしまっている。屋上でおそわれた胸の悪くなるような不快感が今もずっとここにあった。彼を敵に回すのか、彼に助けてもらうのか、どちらかを選べと言われたら後者の方がいいと思えてしまうほどだ。例え彼が味方なんかじゃないとしても。
「まあ、考えておいてよ」
「……」
「そう固くならずに。一緒に誕生日パーティーをした仲じゃないか」
「それはナクラさんが……」
「ああ、誕生日まで祝ってもらっておいて悪いんだけど、俺の名前は奈倉じゃない」
混乱しきった頭に最後の爆弾を落とし、彼はさっきよりも大分あくどい笑顔を私に見せた。
「折原臨也っていうんだ。よろしく」
東京アトミックストーリーズ
2015.10.30
2015.10.30