novel2


TASS



 東京という街を舐めていたわけではない。
 世間は物騒な事件にあふれていたし、目にするものはどれも不安定にゆれていた。田舎の母に持たされた防犯ブザーを手放さず、災害時の生き埋め防止ホイッスルだっていつも鞄に入れていた。それでもこんなときに役立つのはやはり喉からしぼりだした肉声というもので、私の叫びはコンクリートの内側に鋭く響き、遠くの影を引きとめた。

「バカ、人いるかぐらい見ろ」
「わり、すぐ詰めちゃえばへーきっしょ」

 背後から回った手が私の口をふさぎ、車のドアが開く。
 拉致される、と体がこわばった瞬間に、聞こえてきたのは場違いなくらい晴れやかな声だった。

「なーにしてるの?」

 まるで遊んでいる友達に問いかけるような邪気のない声に、加害者も被害者も一度動きを止める。どちらの味方ともつかず、得体が知れなかったためだ。一瞬の間の後に、彼らは「あ?」と言い私は「あの!」と言った。

「たすけて」
「どっかいけ」

 緩んだ手のひらの隙間から、必死に助けを求める。全身黒づくめなのか、実態のつかめないその人物に向けわずかながら手も伸ばした。

「うーん、どっちのお願いを聞こうかなあ」
「あぁ?うせろ。埋めんぞ」
「助けてください!なんでもします!」
「よし決めた。埋められるのは嫌だから、なんでもしてくれる方の味方をしよう」

 相変わらず爽やかな声の主がそう言った瞬間、当然といえばそれはもう当然の流れで男のうちの一人が切れ、猛然と殴りかかった。しかし、暗がりのなか風を切った重たそうな拳は第二撃を繰りだす間もなくむなしく地面へと沈む。「がっ」とおかしな呻きが聞こえ、背後の男が息を呑んだ。掴んでいた私の腕を邪魔そうに振り払い、男はポケットに手を入れる。取り出した折りたたみナイフが完全に開かれるその前に、ゆらりと揺れた影はまたもや簡単に相手を地面に転がした。一瞬のことでよく見えなかったけれど、コートのすそが広がった後に鈍い音がしたので回し蹴りかなにかをしたのだと思う。影はそのままくるりと回り、立ち尽くす私に手を差し出した。

「特別大サービスだよ。今日は俺の誕生日だからね」



♂♀



 私の手を引いたままで、彼は東京の繁華街を闊歩する。

「さっき、なにしたんですか?」
「何って?」
「あっという間に、二人」
「一人目は普通にカウンター入れただけ。二人目は首に回し蹴り。あんな奴らエモノ使うまでもないよ」
「暗いなかで、すごいですね」
「夜目がきくんだ」

 そう言って少しだけ私を振り返った彼の目は不思議な色に光っていた。低い月のようにうっすらと赤みがかっている。ネオンを映しているせいだろうか。

「それで、君は俺に何か言うことはないの?」
「あ、ありがとうございます」
「の前に?」
「え、あ……おめでとうございます?」
「それ。今日、誕生日なんだよね」

 彼はもう一度楽しげにそう言い、ふんふんと鼻歌を口ずさんだ。どうやら私が助けてもらえたのは彼の誕生日フェアの一環らしい。偶然に感謝するべきなのだろうが、歳の頃そう私と変わらなく見える成人男性が誕生日にこうも浮かれるものだろうか。考えてみれば、第一声から今までに聞いた言葉の中にまともなものは一つもないような気がした。じわりと手に汗が滲む。

「無視しようかとも思ったんだけどね。気分が良かったから」
「本当に、助かりました」
「あはは、怖かった?今さら震えてるよ」
「はい……あの、酔ってるんですか?」
「シラフでこれですがなにか?」
「いえ……」

 悪びれず言う顔を見て、こんなにかっこいい彼が誕生日を一人で過ごしている理由がわかった気がした。どう生きるかは個人の自由だが、もったいない気もする。この顔とこのポテンシャルなら芸能人にでもなんでもなれただろうに。

「ところで、君はなにしてくれるの?」
「え?」
 
 通りの外れに着いた頃、ぱっと私の手を離し彼が聞いた。助かりたくて必死で言った自分の軽はずみな発言を思い出し冷や汗がでる。どう考えても危ない展開かいかがわしい展開しか思い浮かばず、なんとか一休さんのごとく抜け道を模索した私の頭は、ある提案を導きだす。

「お、お祝い」
「は?」
「お誕生日パーティー……しますか?」

 もはや自分でもなにを言っているのかわからなかったが、却下されたら他になにができるだろうかと慌てる前に、彼が気のいい蛇のような感じで笑ったため私も間抜けな顔で笑い返した。しかしその顔を見て、いかがわしい展開の方がまだ良かったかもしれないと思い直す。

「いいね。コンビニでケーキ買って屋上でも行こうか」
「屋上?」
「いいとこ知ってるんだ」

 いい屋上ってなんだろう。眺めのことだろうか。そうだといい。痛切に願いながらも今さら逆らうことはできず、ご機嫌な彼の後に続きコンビニに入る。彼はデザート棚に並ぶケーキと呼べる商品をすべて一つずつカゴに入れ、レジに向かった。この数じゃ胸焼けすると思いさりげなくお茶を渡してみる。「もう一本持ってきて」と言うので温かいものでいいかと聞くと、彼は少し迷ってから「そうだね、でも紅茶にして」と返した。なんだか年期の入ったカップルのようなやりとりに、いよいよ自分が今なにをしているのかわからなくなる。襲われそうになったところを助けてくれた恩人に、誕生日のケーキをごちそうしようとしているのだ。うん大丈夫。自然な流れだ。無理矢理そう言い聞かせ財布を取り出すと、彼が手で制しきらりとブラックカードを光らせたため何も言えなくなった。本当にこの人はどういう人なのだろう。覗き見たカードの名義にはNAKURAと書かれていた。



♂♀



「高いところ、好き?」
「あまり得意じゃないです」
「そう、俺は好き」

 そこは確かに、いい感じの屋上だった。しかしこの場合のいい感じとは廃墟萌えとか廃屋フェチとかそういった趣を好む人種にとってであり、けっして手放しに喜べるものではない。屋上の淵に柵と呼べるものはなく、申しわけ程度の段差がぐるりと縁どるだけだ。彼はあろうことかその段差に座り、コンビニの袋をひろげはじめた。

「取り壊すって話もあったんだけど、気に入ってたから押さえといたんだ」
「押さえ……」

 不動産屋なのだろうか?いやきっと違う。ただの金持ちだ。廃屋と化したビル一棟を趣味で買うのがどれほどの豪遊か想像もつかないけれど、桁の違うお金持ちならこう浮世離れしていることにも納得がいく。

「ナクラさんって、どういうお仕事されてるんですか」
「……ああ、名前見えたんだ。俺はね、うーん何してると思う?」
「ふ、不動産屋さんですか?」
「まさか。もっと楽しいことだよ。例えば……」

 彼は言いながら買ったばかりのショートケーキのふたを開ける。そして苺だけを指で摘むと、躊躇なく屋上の外へ落とした。唖然として、行方を追う気力も出なかった。音もなく潰れたのだろうそれを想像し、少し気分が悪くなる。真っ赤な苺が彼の口の中へ消えていく。かわいそうに、離ればなれだ。

「こういうことかな。ケーキは少し惜しいけど、俺は苺を食べられる」

 丁寧に説明してくれたところ悪いけれど、それがどんなことなのか全く想像がつかなかった。まさか人をここから落とすわけでもあるまい。だってもしそうだとしたら──。

「人殺しじゃないですか」
「穏やかならないね、俺は背中を押すだけだよ。どこへ落ちていくかは彼ら次第さ」
「じゃあ、自殺教唆?」
「例えだよ。死ぬか生きるかも本人次第」
「そんな無責任な……」
「どうして俺が人の人生の責任まで負わなきゃいけないの?」

 眉を下げ笑ったナクラさんの顔が暗闇の中で揺れる。映すネオンもないのに、やはりその目は不穏な赤色をしていた。苺の赤だろうか。この人は他人から一番美味しい部分だけを搾取して、栄養にしているのだ。私からも何か奪おうとしているのかもしれない。本能にまかせ引いた体を彼の腕が引き止める。

「お手伝いしてみる?そういう子なら、いつでも募集中だよ」

 道ばたで突然襲われた時のような、わかりやすい恐怖はそこにはない。腹の底からじわじわと沸き上がる不快感が身も心も腐らせていくようだった。目眩か、否定か、私はかろうじてゆっくりと首を振る。

「苺、嫌いなんです」
「他にもいろいろ用意してるよ」

 足元でケーキがぐにゃりと傾いている。後ずさることも飛び込むこともできずに、ただ彼の目を見つめた。やはり私は、東京という街を舐めていたのだ。



東京アトミックストーリーズ
2015.5.4 臨也お誕生日おめでとう

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