novel2

 雨音に思い出すもの。くすんだ視界と、ほどけた靴紐。
 濡れた木目の匂い。曇天。瞬く遠雷えんらい
 そして生ぬるい指先の温度。

「まいったな」
「降るとは聞いてたけど」
「先に言っておいてくれよ」
 定刻よりも大幅に押した任務がようやく終わり、山間のあぜ道を半日かけて抜けたところで、私たちは立ち往生を強いられていた。東の方角から聞こえてきた雨音は辺りをざわめかせながら波のように押し寄せて、あっという間に二人の頭上を覆つくす。はじめは霧のようだった雨粒がぼたぼたと重さを増し、樹々の傘も意味をなくしていた。
「走る?」
 簡潔に問われ、仕方なく頷く。国道に出れば雨を遮るものはなくなるが、かといってぬかるんだ土を踏み続けることも躊躇われる。藪の中に見つけた『落石注意』の看板が駄目押しとなり、私たちは無言で路上へと降りた。
 公共の施設を探しながら道なりに走ること数十分。進めど人家の一つすら見えず、大変なところへ来てしまったものだと今更ながら驚愕する。風が吹きつけ、田畑に雨粒がさんざめき、髪の先から足の裏まで、どっぷりと濡れていく。日が完全に落ちるまでに町につかなければさすがにまずいと思ったところで、前を行く夏油くんが風の音を遮って私の名前を呼んだ。彼の指し示す先には停留所と思しき小さな屋根が見えた。
「仕方がなかったとはいえ、山の反対側へ降りたのは迂闊だった」
「とりあえず補佐官に連絡しよう。夏油くんの携帯、まだ生きてる?」
「ああ。車を回してもらうには大分かかるかもしれないが」
 初めに下ろした帳から標的が大きく逸れたため、任務は人目を避けながらのやっかいなものとなった。山里の人口はそう多くなかったけれど、異質なものに敏感な住民らの目をかいくぐることは容易でなく、呪霊を中腹まで追い込むことに苦戦したのだ。
「まったく散々だね。悟がいれば後先考えず派手にやったのかもしれないけど」
「それはそれでまずいでしょう。夜蛾先生にどやされるよ」
 二人で任務へ赴くのは久しぶりのことだ。目的のために無茶をする五条くんや、規則の穴を大胆に突く硝子と違い、正攻法での攻略をよしとする私たちはある意味で相性が良く、またこのように思わぬ苦労をすることもあった。
 どうにか浸水をまぬがれた携帯電話を開きながら、彼は低い屋根の下で結わえていた髪をとく。
「夏油くんは私よりも髪が長いから、早く拭かないと風邪ひくよ」
 そう言って駄目元でポケットのハンドタオルを探るも、制服同様、しとどに濡れていて用を成さない。
「大丈夫。普段も乾かさないで寝ること多いし」
 そのわりには艶やかな黒髪をかき上げながら、彼はやんわりと眉を下げた。
「君こそ首元びしょびしょじゃないか」
 彼のように結んでいればまだ良かったのだろうが、あいにく切ったばかりの半端な毛先はぴたりと首筋に張り付いている。そこからしたたった水滴が、先ほどから詰襟の内側へ着々と染みていた。厚手の生地は外からの防水機能をそれなりに果たすが、中に入り込んでしまえばかえってひたひたと蒸れた。
 私は「失礼」と一言告げて学ランのボタンを外すと、水を含んで重くなったそれを脱ぎ、目の前に掲げる。どうしたものかと考えていると、隣から小さく「え」という声が聞こえてきた。
 横目でこちらを見ていた夏油くんは、ほんの一瞬だけ瞠目したかと思えば、またすぐにいつものアルカイックスマイルへと戻る。彼に限ってこの状況でおかしな感情を抱くとは思えないが、何に対する、どのような反応であったのか気になった私はそろそろと首を傾げた。うかがうような私の視線を受け、夏油くんは「ごめん」と一つ間をおいて言う。
「そういう感じなんだ、と思って」
「え? ああ……人によると思うけど」
 彼が言っているのは、おそらく制服の着こなしについてだろう。私が学ランの下に着ているものは、黒のキャミソール一枚だ。
「シャツを着る子もいるけど、夏場は暑くて」
「まあ確かに」
「私はキャミか下着だけ。学ランは裏返してドライで洗濯。これが一番楽」
「へえ」
 知りたくもないだろう私の肌着事情を聞いた夏油くんは、曖昧に相槌をうち前を向いた。私は言ったあとでなんだか恥ずかしくなったため、皺になるのも構わずに濡れたそれを力任せにしぼる。
 デリカシーのない女だと思われただろうか。けれどキャミソールといったって大きく胸元の空いたものではないし、ぴったりと体のラインを浮かせるものでもない。黒なので下着も透けていないだろうし、そもそも夏油くんは私の見立てによるところ齢十七にして二十代半ば相当のメンタルを持ち合わせていると思われるため、隣で私がどのような格好をしていたところで意識などしないはずだ。
 思った通り、彼は大して気にする素振りもなく、自らも学ランから腕を抜きばさばさと水滴を払っている。私はほっとして、バス停のベンチへ座り込む。けれど目の前の背中を見て、大きいなあ、などぼんやりとしていられたのもそこまでだった。彼は学ランを椅子に掛けると、そのまま下に着ていたTシャツまでもを勢いよく脱ぎ去った。その躊躇のなさに動揺し、思わずおかしな声を上げてしまう。
「え、駄目だった?」
「いや、だって」
「……私から言わせてもられば、君の格好の方がよほどだけど」
「う、うそ」
 そう思っていたのなら、愛想笑いで流したりせずに初めからわかりやすい反応をしてほしい。突如襲った羞恥心に耐えかねた私は、しおれた詰襟を肩にはおり直し、下を向いた。
「すまない。変な空気にしないように、私も淡々と振舞おうと思ったんだけど」
「淡々と裸になられても困る」
「男の裸なんて大したものじゃないだろう」
「大したものだよ! 近づかないで、妊娠する!」
「心外すぎるな……」
 自分でも何を口走っているのかわからないまま、ニスの剥げた木目の上を端へ端へと移動する。先ほどから雨脚は増しているが、幸い風は弱まってきたようで軒下に水が漏ることはなかった。うつむいたまま、ほどけて汚れてぐずぐずになった靴紐を見つめていると、夏油くんはどうにも不本意だといったふうにため息をつき、Tシャツを着直した。
「これでいいだろう。もうお互いに変な反応はなしだ」
「……わかった。じゃあ冷たいからスカートだけ脱いでいい?」
「正気か?」
 今度は取り繕うことなく怪訝な目を向けられ、私はしょぼくれと逆ギレを秤にかけた結果、後者を選択しスカートのホックに手をかけた。
「前から思ってたけど、水着もパンツも表面積は変わらないんだから問題ないでしょう」
「こんな山奥のバス停で水着になる人間はいないと思うけど」
「そこの用水路、もう川になりかけてるからキャンプみたいなものだよ」
「無茶言うね」
 吹っ切れた私の怒涛の屁理屈に、反論するのも馬鹿らしくなったのか、夏油くんは脱力してどっかりとベンチに腰を下ろした。私はとっさに外しかけていたホックを留め直し、おずおずと膝の上に手を置く。自分の情緒がもうどこへ向かっているのかもわからなくなり、いっそ火照った心身に纏わりつくすべてのものを取り去ってしまいたくなる。夏油くんはふつふつと上気している私を再度ちらりと見て、低い声でごちた。
「だいたい私に対しては過剰に反応するのに、自分のことは気にしないって、普通逆じゃないか」
「私は夏油くんを意識してるけど、夏油くんは私を意識してないんだから当然だと思う」
「さっきから随分、勝手なことを言ってくれるね」
 笑っているときには優しく見える彼の薄い目尻が、バス停の白熱灯の下でいささか不穏な色を帯びた気がして、息を飲む。味方であるのならどこまでも頼もしい男だ。そう、彼は味方で、慣れ親しんだ同級生で、優秀な呪術師で、人格者だ。なのでこの状況において、私に他意を抱くことなどあるはずがないのだ。
 そう開き直って彼の目を見る。伸びてきた大きな手のひらが私の前髪をかき分け、ぽたりとまぶたに雨が落ちた。
「……いいよ。そういうことにしておこう」
 彼は諦めとも呆れともつかない口調で言ったあと「でもスカートを脱ぐのはやめてくれ」と付け足した。
「わかった。じゃあタイツだけ脱がせて」
 互いの精神衛生と健康維持のための譲歩ラインを取り決めた私たちは、そこでようやく息をつく。途端に疲労感が増し、二人同時に肩を落とした。ただでさえ任務自体も持久力の求められる長丁場のものであった。幸いどちらも怪我はないが、終えたところで見舞われたのがこの豪雨なのだから、判断力を欠くのも仕方がないことなのかもしれない。
「ちなみに覚えておいてほしいけど」
「はい」
「私は君が思うほど完璧じゃない。溜め込んだものがいつか反動で噴出するかもしれないから、覚悟しておくように」
 私が張りついたタイツを足首へと下ろす横で、彼はまた穏やかならぬことを言ってプレッシャーをかけた。
「いつかって……」
「ああ、安心して。この場で手を出すほど馬鹿じゃないさ。任務は任務、予期せぬ事態は付き物だ。そんなときに盛るほど猿じゃない」
 そうして自己コントロールをできる時点で優秀なのだとは思うが、覚悟をしろと言われたところで「わかりました」とは言えない。けれど一応、覚えておこうと思った。その言葉は私の知る夏油傑という人物から少し外れたところにあり、それゆえ唐突に、私の胸を揺さぶった。優等生への憧れとは別の何かが、立ち込めた雨と夏の匂いの中でじわじわと心に染みていく。私は脱いだタイツをくるくると丸め、素足にスニーカーを引っかけると、制服の前併せを強く握った。肌を見せることが急に恥ずかしくなったのだ。
「補佐官から、返事あった?」
「向かってるけど時間がかかるって。素泊まりも覚悟しておくように、とのこと」
 事務的な回答に「了解」と呟き、前を向く。
 正面に見える山並みの奥で、厚い雲が雷鳴を帯びている。音はわずかしか届かないのに、光だけは大げさに瞬いていて不思議だ。
「少し休もう」
 彼は小さく呟くと、さりげなく座る位置をずらし、私が寄りかかりやすいように腕を組んだ。その優しさに甘え、肩に頭をもたれさせる。強い睡魔が押し寄せて、私はこっくりと目を閉じた。水滴がトタン屋根を打つ音が秒針のように響いている。雨音は轟々と絶え間なく鳴り続けている。
「ねえ夏油くん。こういうことって、多分いつまでも忘れないね」
「そうかもしれない」
 思いのほか素直に頷いて、夏油くんもまた私の方へ少しだけ、体重を寄せた。彼は私が思うほど完璧ではない。そのことも長いあいだ覚えていられるといい。
 先の見えない私たちは、忘れられない今を蓄えて前へ進む。
 思い出はきっと、いつか私たちの胸をえぐる。それでも、持たないよりはずっと良いのだ。



再編 2023.08.31
呪術夢アンソロジー『いのり、ちぎり、きざむ愛にて』寄稿 2022.01.08

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