novel2







 空の先に宇宙があるように、あなたの先には明日がある。
 その青い青い目が開きつづける限り、世界には明日が訪れるのだ。誰のためかもわからないまま。

「五条悟が死ねば、この世界は終わりますか」
「少なくとも、今あなたが世界と思っているものは」
 歌姫先輩はそう言って、胸の前で指の先を合わせた。祈りとは異なるが静かな仕草だ。いつも背筋を真っ直ぐにし、前を見据える先輩が俯くように思案したため、私はその先を一緒に見るしかなかった。少しの草と、蟻の行列。私の知る世界がそこにある。
「もう直に、地獄の釜の蓋が開くわよ」
 渋谷のビル群は空をジグサグに切り抜いて、地平を不均一に覆っている。合間に茂るのは森だ。副都心は意外にも緑が多いのだ。
「そうは言っても、地上はとっくに地獄じゃないですか」
「それもそうね」
 頷いた先輩の「とっく」とは一体いつからだろう。おかしなルールが蔓延ってから? 最強の術師が封印されてから? それとも──。
「私が制服を着ていたころから、地獄なんてのはみんなで歩く下校路みたいなものだったわね」
 袴を正した彼女が黒い制服を着ていたころ、私はまだ田舎にいた。東京へ出て高専に入り、真面目な彼女や、最強の男や、強面の教師の下で呪術のいろはを学んでから、今こうして歪な街を見渡すまでのあいだ、人生を楽観できたことは一度もない。
 いつでも理不尽な別れと残酷な結末を、誰のせいでもないと言いながら、自ら背負う人たちの中で息をしてきた。最善を尽くした上での犠牲は、ときに不甲斐ない失態より人の心を重くする。それでも立っていられる人たちの横で、私も立って歩く真似事をした。うまく出来ていたかはわからないが、今思えばみんながそうだったのだろう。強い人はいなかった。ただ強くあろうとした。
「負けない」
 歌姫先輩はたったひとことそう言って、西の空を見た。負けない。主語をなくしたその言葉を、私も手のひらで握りしめる。


「眩しい」
 本来であれば、暗い箱に閉じ込められていた彼の言うべき台詞だろう。けれどどうにも臨戦体勢に入った男の姿は、うっすらと光をまとい、白と肌の内側にありもしない陰影を宿しているように見えた。
「眠れた?」
「寝てないよ」
「みんなそうか」
 それはそうだが、この目がくらんでいるのはきっと寝不足のせいではない。たいていが黒い長身の男が、白の装束などを纏うから目がちらちらとするのだ。
「まさか心配してる?」
「五条先輩が負けるなんて、思ったことないですよ。みんなそうだし、今日もそうです」
「まあそうだね。じゃあもうちょっと力抜きなよ。生徒たちに伝わるよ」
「わかってます。でもなんというか、これは心配じゃなくて……」
 声にはのせず、私はもう一度唇だけで「まぶしい」と言った。青い目の先にはいつだって明日がある。彼の見据えるその先が、世界にとっての明日なのだ。
「世界とあなたの境目が見えない」
「こんなに浮いてるのに?」
 彼は困ったように首をすくめ、ビルの屋上で手を広げた。
 五条悟の輪郭は世界に浮かぶまっさらな異物のように、あらゆるものを弾いている。それなのに立体感が曖昧で、私はうまく彼の形を認識できなかった。逆光のためだろうか。目を伏せて、万が一にでも泣かないように、私は自分の額を擦る。コンクリートには数匹の蟻がうろついている。
「始まりはさ、数人だったよ」
「え?」
「世界なんてどうでもよかった。ダチいて、先公いて、家のことはまあごちゃごちゃあったけど、そんくらい」
 五条先輩はなぜかふてくされた子供のように頭をかいて、髪を揺らすビル風の彼方を見た。
「でも、そう思わない奴もいたみたいでさ。世界背負ったみたいな顔で、俯くことが多くなった」
 一体誰の話をしているのだろう。
 それがわからないとき、彼はきまって一人の男の話をしている。
「でも結局、そいつにとっても世界なんてそう広いもんじゃなかったのかもな。失くしたくないものがいくつかあれば、そいつにとってそれが世界だろ。僕も一緒。ただまあ、大人になったからね。見えるものが多くなってそれなりに大変だわな」
「だからつまり?」
「だからつまり、お前にとって世界と俺が同じなのは、当然なんじゃねえの」
 大人になったと言いながら、彼は学生時代のように口の端を曲げて笑っている。
「……すごい自惚れだね」
「敬語使えよ」
 自分のことを棚に上げ、先輩は私の頭をわし掴む。
「雨降りそうだから一度入ろうぜ」
 うろつく蟻を避けながら、彼は大きな足を踏み出した。刈り上げた後ろ髪と耳の造形を見て、そういえばこの男は斜め後ろから見るとやや幼顔に見えることを思い出す。
 世界が誰のためかは知らない。けれど誰のおかげかは知っている。五条悟こそ世界そのものであると言ったが、それは間違いだ。少なくともごく一部、この世界の数人は、はっきりと覚えている。理不尽な別れが繋いできた嘘みたいな日常を。地獄を。立っていた人たちを。
 鮮烈なエネルギーの塊が、今日もここで明日を生む。
 彼はまだ人の形をしている。


2023.06.19

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