novel2






夏 / 燕 / 英雄王


 空気が湿り温度が上がり、初夏の虫が鳴き始める。
 それをついばむようにして、燕は低く低く飛ぶ。
 久しぶりの休日だというのに雨雲の気配がたちこめて、どうにも頭の調子が冴えない。私は日がな一日、窓際の安楽椅子に腰かけて軒の燕たちを見ていた。親鳥はせわしなく飛び交い、雛は大きな口を開け小刻みに羽毛をふるわせている。
 一方の私は陽が暮れるまで昼食も食べず、朝に挽いたコーヒーをちびりちびりと漉しながらたまに時計の長針を確認していた。あと半周したら動き出そう。そんな決意を繰り返すうちに短針が大きく傾いている。
「燕はいいな」
 とくべつ意識もせずつぶやいたその言葉に、大層長く、重く、ねちっこく相槌をうったのは視線の先で書物を読みふけっていた我がサーヴァントだった。
「貴様……あまり腑抜けたことばかり言っているとあの分厚い雲の真上まで吹き飛ばし、宇宙の塵に返すぞ」
「ば、ばかりって、まだ一言しか発してないじゃないですか」
「貴様のくだらぬ思考など顔を見ていればわかる。大方、口を開け餌を待つだけの鳥を見て横着なことを考えていたのだろうが、あれが許されるのは雛鳥のみだ。巣立てば人などよりよほど過酷な生存競争が待っているのだからな。いい歳をして己の世話もできぬ女が何を甘えたことを抜かしておる」
「べつに本気で言っているわけではないですよ……」
「ならば疾くその怠惰を改めぬか」
 叱られてなお、動く気になれないのはこの重苦しい気圧のせいだ。小さな羽で屋根の下に滑り込んだ燕を見て、その身軽さをやはり羨ましく思う。
「そういえば、王様は人間に対しては逐一厳しく裁定しますが、鳥や獣に駄目出しをすることはないですね」
「この我が、なにゆえケダモノを推し量る必要がある。そも、あれらには良いも悪いもない。神性を帯びたかつての自然と違い、今あるそれは牽制が要るほどの力を持たぬ。人は神、ひいては自然から自立するため文明を築いたのだ。人は自然の一部であるが、動物を名乗る資格をなくしている。それゆえに別の基準が必要となる。人は人となった瞬間から、人であるための責務を負っているのだ。それを見定めるのが我だ」
「そうは言っても……杉の森の神を殺し、自然から神性を剥奪したのはあなた自身じゃないですか」
 その責任を、私たちが取り続けなければならないのだとしたらずいぶんな重荷である。けれどこうして、少なからず恩恵を受けている以上一概に否定もできないのだろう。
「なんだ、貴様は反文明主義者か? ならばそのようなものを持つな」
 彼は私の手元のスマートフォンを見て嘲るように笑った。
「人との繋がりは大切です。でもそれ以上に、退屈しのぎは必要ですから。甘んじて罪を受け入れているわけです」
「フン、太々しい女よ」
 こうして五千の歳月を超え、この男と同じ罪を背負う必然を不思議に思う。私が人でいる限り、私と彼は共犯だ。ならばどこまでも強かでいようではないか。
「だが確かに……今日は些か退屈だな」
 赤い目が正面を向き、私を捉える。彼が本を閉じたのを見て、私もカップを机へ置いた。この狭い部屋でできる退屈しのぎには限りがある。窓の外には雨が降り出している。







冬 / コマドリ / SHERLOCK


 都会の渓谷にビル風の激流が巻き起こり、黒いコートは次々にエントランスへと吸い込まれていく。中でも一際長身の男が足を踏み入れたのは重厚なガラスドアの建物であった。床の大理石を踏みしめて、賑わう人ごみに眉をひそめながら、探偵は事件を探すでもなく辺りを見回している。
「新年に買い物だなんて、珍しいですね」
「珍しくはない。遅れたくらいだ」
 彼は何かを思い出すように碧い瞳孔を大きく開き、そしてまたぱたりと閉じる。
「奴は正しいことを言わないが間違えもしない。とくに日付けに関しては腹立たしいほどだ」
「奴? 日付け?」
「年明けに遭遇した大使館連続爆破予告事件が楽しすぎてすっかり忘れていたが、僕は毎年、新年の二日にシャツを新調するんだ」
 そうして浮かんだのは昨夜のワンシーンだ。事件の後処理に現れた彼の実兄が、弟の襟元を見て「三日遅れたな」と微笑んでいた。それは例のごとくいたって紳士的な笑みであったが、弟からすればこの上なく嫌なものであったらしい。たしかに、新年に親戚からこぼされる小言などは誰にとっても心休まらないものだろう。英国一、意固地な兄弟であれば尚のことだ。
「けれど、一年でそうくたびれたとも思えませんが」
 兄ほどの観察眼を持たない私には、彼のシャツの襟は相変わらずぴんと張って見える。
「素材がいいから傷むことはない。けれど人の体格は歳とともに変わる」
「太ったようにも見えませんが」
「肉付きだけじゃない。姿勢も骨格も日々変わる。シャツの袖がぴったりジャケットの内から二センチ、覗かないことには落ち着かない」
「なるほど」
 彼のようなこだわりを持つ人間が多ければロンドンの仕立て屋は安泰だろう。この男は特別な贅沢を求める性格でなく、また財力もミスターガバメント──つまりは忠告をした張本人と比べれば大変つましい。けれどささやかとは言えないこだわりをこうして多数持っており、己の身辺を己の望むままにカスタマイズしているのだ。そのカスタマイズには人間関係も含まれるようで、助手のワトソン先生、家主のハドソンさん、レストレード警部にモリー検死官と、周囲には探偵業を中心に据えた無駄のない人材配置が行われていた。まるで探偵に茶飲み友達はいらぬと言わんばかりのミニマルな布陣である。
「君は」
「はい?」
 着丈と袖丈を測り終え、コンシェルジュがコートを持ってくるまでのあいだ、ソファーで脚を組んでいたホームズさんはおもむろに私の方を見た。
「君は?」
 再度問われ考える。私は彼にとっての何だろう。こうして買い物につきあってはいるが、探偵業の役に立っているかと聞かれれば、否だ。
「私は、近所のお友達……?」
「何の話をしているんだ君は」
 首を傾げた探偵の訝しげな表情に我に返るも、冷えた耳が暖気にあてられてしんしんと鳴るばかりで、上手くごまかすような言葉も出てこない。
「君は、何か要るものはないかと聞いているんだ。用がないならもう帰る。急ごうか? 近所の友人と茶を飲む約束でも?」
「そ、そうじゃなくてですね」
 コートとカードを受け取ったホームズさんは長い足でエレベーターホールを横切って、再び重厚なドアをくぐる。真冬のビル風が途端に吹き込んで私たちの耳を冷やし直した。
「用はありませんが、少しだけ遠回りをしませんか」
「この寒い日に?」
「公園の中を通りましょう。まんまるのコマドリが見られますよ、きっと」
 私の言葉に、彼はわずかに首をすくめマフラーの結び目を整える。きっとこれは承諾の合図だ。
 冬の羽毛に体を丸めるコマドリの愛くるしさを想像し、私は私の生活を思った。探偵小説には描かれない私の存在と、事件の起こらない冬の一日。彼は途中で退屈だと暴れだすかもしれないが、それはそれで愉快だろう。どうかコマドリが逃げないと良い。リージェントパークの並木はすっかり葉を落としている。







晩秋 / 烏 / 夏油傑


 カラスが巣へ帰るように、彼も家へ帰ったのだろうか。

 最少工数で任務を終わらせ、最短距離で指定の場所へ向かうと、落ち合うはずだった同級生が見知らぬ女子に囲まれていた。中学生だろうか。ややあどけない年恰好の彼女らは、その内の一人が彼に何かを差し出すのを見て高い歓声を上げている。
「……恋文ですか」
 一通りの事態を見守ったのち、近づいて問えば「今どき古風だよね」と言って夏油傑は涼やかに笑んだ。大した動揺もしておらず、慣れた風だ。
「夏油くんってしっかりしてるし、年下にモテそう」
「しっかりしてるかはさておき、そう見えるのは光栄だよ」
 封を開けるでもなく、かといって邪険に扱うでもなく手紙を詰襟の内側にしまうと、彼は代わりに携帯電話を取り出して時間を見る。
「でも声をかけられるのは、圧倒的に年上が多いかな」
 ついでとばかりにさらりとこぼし、彼は誰かにメールを飛ばしている。何の気なしに横を向いているが、同級生の男の子が日常的に年上の女性からナンパされているという事実を、私の脳みそは上手く受け止められなかった。それをてらいなく口にする、彼のメンタルもだ。
「げ」
「どうしたの」
「いや、悟にやられた。あいつこのグラドルにはまってるんだよ」
「ああ……」
 五条には近しい者の待受画面を勝手に変える悪癖があり、私も同様の被害に遭っていた。画面を開いたとたん、目に飛び込んできたヘラクレスオオカブトのつややかな黒に、携帯を落としそうになったのは最近のことだ。
「あいつとは趣味が違うのに」
「同感。私はどちらかといえばクワガタ派」
「私は年上のお姉さんより、同級生派だよ」
 大人びた笑顔のグラドルをプリインストールの待ち受け画像に戻すと、夏油くんはそう言ってにっこりと笑う。
 私はふうん、と曖昧な相槌をうち前を向いた。彼の意図するところがよくわからず、それ以上の言葉を返せない。今日は頭の働きが鈍いようだ。
「夏油くんと一緒にいるとIQが下がるみたい」
「それは良い意味で?」
「良い意味で下がることってある?」
「どうだろう」
 首を傾げた夏油くんが意味深に私の前髪に触れたものだから、私の頭はついに馬鹿になった。
「葉っぱついてる」
「……近道してきたから」
「おてんばだね」
 乾いた木っ端を指から落とし、彼はやはり何の気なしに、ちかちかと光る携帯電話を耳に当てる。その表情から見るに、相手は手癖の悪い友人らしかった。
「え? 終わったよ。いま合流したとこ。というかお前さ、人の待受画面を勝手に──」
 定時連絡と雑談を始めた夏油くんから数歩離れ、私は路上の柵に腰かける。数メートル離れたところから見ると、彼は余計に目立って見えた。体格の良さも黒い詰襟も、几帳面に結われた髪も、切り抜いたようなまぶたの繊細なふちどりも、一度見れば放っておけない気持ちはわかる。しかし一体、年上の女性とやらがどのような言葉で彼を引き止めるというのだろうか。
「このあたりの子? 駅の西側って詳しい?」
 悶々と思考を巡らせていた私の頭上に突如声が降り、顔を上げれば有名なカジュアルブランドのロゴが目に入った。お洒落な衣服に身を包んだ大学生らしき男たちが二人、和やかな顔でこちらを見下ろしている。
「に、西側ですか。私はあまりこの駅には来ないので」
「そうなんだ、俺らと同じだね。一人なら一緒に散歩しない?」
「散歩ですか?」
「ぶらっとさ、良いお店探しに行こうよ」
 良いお店とはなんだろう。ブランドショップなどとうに知りつくしていそうな男たちが、東京の郊外に住まう私に何を期待しているというのか。鈍さを増した思考回路で言葉を探していると、視界を塞ぐように立っていた青年の肩に、大きな手のひらが乗ったのが見えた。
「一人じゃないんで」
 よく知った私ですら、息を呑むような声だった。悪相を作っているわけではない。ただ細められただけのその目から、只事ならぬ圧力が漏れ出ている。
「お散歩なら向こうでどうぞ」
 生き物としての本能により即時退避を選んだ男たちは、指差された方角へと足早に向かっていく。まるで呪霊操術をかけられた呪いのようで哀れだ。
「大丈夫? 目を離して悪かったね」
「べつに、夏油くんは悪くないけど。今のって、もしかしてナンパ?」
「……判断が遅いよ。一秒で気づいて二秒で拒否するべきだ」
 そんなことを言われても、私は夏油くんのように慣れてはいない。差しのべられた手のひらをとり立ち上がると、彼はぞっとするほど優しい顔で私を見た。
「帰ろう」
 夕暮れの中を横切って、カラスも山へ帰っていく。
 きっと私たちと同じ場所だ。同じ場所へ帰るのに、帰り道というものはいつも少し淋しい。







春 / 海猫 / 妖精王


「海の向こうのことを考えることはある?」
 島国という故郷を持ち、浜や港を身近に感じてきた私たちに同じ感傷はあるのだろうか。
「ないね。浜辺に打ち上げられる漂流物は、君も知るように世界にとっての異物のみだ。つまり海とは、妖精國ブリテンに住まうものにとって異世界の象徴だった」
 オベロンはそう言って防波堤から水平線を眺めている。細められた目の横で真っ白な髪が揺れ、モンシロチョウのマントが風を含む。堤防の先には、日に焼けて色の失せた灯台が大きな生き物の化石のようにしんと立ちすくんでいた。空は薄く曇を張り、辺りにほんのりと太陽を透かし込んでいる。色味をなくした世界は不思議な塩梅で美しく調和していた。乾いたフジツボが足元で砂にまみれている。
「漂流物……それは私たちのマスターや、いくつかの物語や、妖精王という概念のような?」
「君らカルデアは確かにみっともなく流れ着きはしたが、あくまで進んで上陸したわけだろう。いわば外敵であり、侵略者だ」
「それはたしかにそうですが……」
「なに、かしこまることないよ。僕にとっては嬉しいイレギュラーだった。内部崩壊させるにも人材に限界を感じていたからね」
 にこやかに笑んだオベロンの向こうで、海鳥が数羽風を受けている。ウミネコだろうか。鳴き声は聞こえないが白い羽に少しの灰が見える。鳥たちはどこを目指すのか、雲の下を力強く羽ばたいていく。
「あんなのを見ると、ここは別世界だと思わされるよ」
「港は他国へのターミナルです。海を挟んで、世界は丸くつながっている」
「構造はわかるが、実感がわかないな。この大きな水たまりの向こうで、いくつもの国が同時並行的に発展しているなんて」
 閉じて煮詰まった「島」という一つの世界にとって、海は広がりでなく境界であったらしい。その先を見つめながら、この男は何を思うのか。
「もっとも、今はそれも消え失せました。島も海も大陸も、すべて等しく真っ白です」
「笑える」
 シミュレータールームが映し出す、いつかどこかにあったはずの海辺は私に笑えない感傷をもたらす。マスターの少女や、汎人類史のサーヴァントらにより生存競争に打ち勝ったこの世界が、いつか再び実体を持つことはあるのだろうか。ランダムに設定された仮想空間の情景に、慰められることもあれば、たまらなく追い詰められることもあった。それでもたびたび足を運んでしまうのは忘れたくないからだ。
「今日はどうしてここへ?」
「英霊どもの群れるカルデア内は息が詰まってね。ここは虚構だからこそ気が抜ける。とくに、僕のような存在にとっては」
 作り物の世界と嘘つきの王様。それらは確かによく馴染んでいるように見える。
「私は……この世界を愛していました」
「君の顔を見ればわかるよ。そして僕にはわからない気持ちだ」
 そう言ったオベロンの表情はしかし、私とそう変わらないものに思えた。かつて在ったものを思い出すとき、人は淋しい顔になる。たとえ憎んだものであったとしても。
「今はきっと春だろうな」
 妖精王はそう呟いて前を見た。ウミネコの姿はもう見えない。私は一つあくびをして、滲んだ世界を一度閉じる。春の海は眠くなるのだ。







秋 / ヒヨドリ / 及川徹


 ヒヨドリが長く鳴いて、二人のあいだに沈黙が走る。
「なんて言った?」
「だからしばらく、距離をおこうって」
「なんでさ!」
 徹の叫びは鳥よりもさらに天高く響き、秋の鱗雲の上へと消えた。
「私が徹のこと好きで好きで好きすぎるから、距離をおいたほうがいいと思ったんだよ」
「い、意味がわからない」
 頭を抱え、よろめく恋人を見て胸が痛む。それと同時に、申し訳ないが笑いそうになってしまった。想像していた反応より、少しだけ大げさだったからだ。
「徹しかない人間になりたくないんだよ」
 これは私のエゴだ。エゴを通すのだから、こちらにもそれなりの覚悟がある。例えば、彼を一生失う覚悟、などだ。そう思ったところで、胸に冷たい風が吹いた。今日は一段と冷え込んでいる。
「お前は充分……いろいろあるじゃん。友達多いし、ピアノも弾けるし、保健委員長だし、円周率五十桁言えるし」
「そういうことじゃなくて」
 自分には何もないと思っているわけではない。ただ自分の感情や感傷が、彼を中心に回っていることは確かだ。
「徹のことを考えてるとね、一日があっという間に終わるの。それですごく不安になる。徹はいつかどこかへ行っちゃって、私には時間だけが残されるんじゃないかって」
「そんなこと……」
 秋が深まり、冬の気配が漂い始めればもうすぐに春高の予選が開かれる。その結果がどうであれ、彼にとっては一つの区切りだ。そしてその区切りはきっと新たな始まりだ。及川徹という男の強さや恐ろしさはそんなところにあった。彼は終わらず、何度でも始まり、続いていく。行き着く先がここからどれだけ離れようとも。
「何があってもそばにいるとは、言えない」
 徹はまっすぐな声でそう言って空を見た。葉の赤らんだ柿の枝が青にくっきりと浮いている。私は眩しくて目を細めた。距離をおきたいと自分から言ったのは、おいていかれるのが嫌だったからだ。
「でもさ、物理的な距離なんて関係ある? お前は俺と距離をおいたって、俺がどこに行ったって、俺のことを考え続けると思う。だから諦めなよ」
 なぜ徹の方が呆れた顔をしているのだろう。呆れたいのはこちらの方だ。私はジャージ越しに彼の厚い胸を叩き、その存在を確かめる。
「なんで私に対してはそんなに自信家なわけ」
「絶対に失わないって、わかってるから」
 ヒヨドリが高く鳴いて、二人のあいだに沈黙が走る。エゴとエゴのぶつかり合いに、私は惜しくも敗北し下を向いた。冷たい風が止み、代わりにのんきな焼き芋屋の音声が聞こえてくる。
「覚悟してよ」
「こっちの台詞」
 試合はまだ続くようだ。彼は終わりを作らない。どこまでも行ったその先で、容易に私の腕を引き寄せる。そんなのはまるでワープだ。
 彼を中心に宇宙は回り、私はワームホールを駆け抜ける。
 古びた民家の軒先で、私はそのとき、たしかに未来を生きていた。

- ナノ -