novel2





不可逆の指先


 窓の外に見えた点が、月のように丸く膨らんでようやく、私はそれが門であると気付く。
 窓際に座っていた出水くんは空に目を向けながら、右手でペンをくるくると回した。彼はボーダーの隊員であり、あの門から現れるモノを排除し得る人間だ。指の先で回る蛍光マーカーを見る限り、私たちとそう異なる存在とも思えないが、きっとそれは間違いなのだと思う。不意にこちらへ向いた目が、わずかに細められたことで私はそう確信する。クラスの中でも気さくな方で、よく喋り、よく笑う彼の表情が、まるで大人のように張り詰めていたからだ。
 大人のようだ、と思った理由はわからない。彼は口角を上げていたし、ペンを回す手も止めていなかった。それなのに教壇に立つ教師や、自分の両親のように(或いは、よほど)落ち着いて見えたのは有事の緊張感と、それを日常とする余裕のようなものが彼の中に同居していたからかもしれない。同級生のこんな顔はもちろん見たことがなく、驚いた私は何と言うべきか迷った。
「今日どこだっけ」
「柿崎隊」
 けれど私が声を発するよりも先に、私の横から返事が聞こえた。出水くんの言葉は私の席を一つ挟んで向こう側にいる、米屋くんに向けられたものだった。米屋くんは短く返すと、出水くんと同じようにペンをくるりと回し、どこか手持ち無沙汰げに伸びをした。一瞬の穏やかならぬ空気はあっという間に消え去り、窓の外にはわずかな硝煙が上がっていた。
 両隣の男の子たちは眠たそうに午後の授業を聞き流している。空に現れた点が月のように膨らんでも、もう誰もそれを見なかった。私は一人速まった脈拍を整えながら、次の席替えはいつだろうと思った。



「名字さん、バイトで忙しそうなのにいつも成績いいよな。頭の出来が違うんかな」
 小テストの採点を終え、出水くんにプリントを返すと、彼はそう言って首をひねった。いつも思うけれどこの採点方式にはプライバシーというものがない。十個のマルがついた私のプリントと、五個のバツがついた彼のプリントを見比べて、私も首をひねる。
「私は……ヤマを張るのが得意だから。要領は良いかもしれないけど、べつに頭が良いわけじゃないよ」
 ローンで買ったらしいマイホームが大規模侵攻により破壊されて四年半。いくつかの些細な条件を満たすことができず、保険が降りず、保障もきかなかった我が家は財政難におちいっていた。そのため私は三つのバイトをかけ持ちし、元からつましい家計を支えている。
「謙遜のしかたがもう知的」
 彼はいたずらっぽく笑いながら、尚も私を褒めた。困ってしまった私は、出水くんのつけてくれた力強いマルを見ながらフォローの言葉を探す。
「バイトは忙しいけど、テスト前には休めるし。ボーダーの任務とは違うよ」
「いやいや、ボーダー云々の前におれのやる気がないのがいけない。わかってんだけどなー」
「ボ、ボーダーの任務は命がけなんだから、両立を求められる方が酷というか……個人のやる気の問題じゃないと思う」
「めちゃくちゃ庇ってくれるじゃん、名字さん」
 フォローといっても、これらは紛れもなく本音だ。あのときボーダーがいなければ、私は家でなく家族を失っていたかもしれない。出水くんだってきっと似たような経験をしている。四年半の時を経て、同い年である彼と私が、守る側と守られる側に明確に分かれ、それでもこうして何気ない日常を共にしていることは不思議に思える。
「感謝してるから」
 うかがうようにこちらを見ていた出水くんに対し、当然の、けれどこの街においては圧倒的に足りていないであろう言葉を伝えれば、彼は浮かべていた笑みを消して目を丸くした。
「今度のテスト、力になれることあったら言ってね」
「まじ……?」
 特別なことはできないが、ノートを貸すくらいはできる。チャイムが鳴り、がらがらと椅子を引く音が鳴り響き、右隣からはうーんと小さな呻きが聞こえた。
「なんかおまえら、いい話してなかった?」
「してないしてない。天気の話」
「嘘こけ」
 寝ていたらしい米屋くんは学ランのしわを伸ばしながら友人につっこみを入れている。彼らの笑い方はよく似ていて、けれど米屋くんの方が少し不敵なようだ。出水くんとは気軽に話せるけれど、彼と話すときはなぜだか少し緊張してしまう。
「米屋くんにも貸すよ、ノート」
「っしゃー、助かる名字さん」
「おまえ借りても見ないだろ」
「と思うじゃん? 今回はマジでやばいから真面目にやるんだな〜」
「なら寝るなよ」 
 こうしていれば、他の誰とも変わらない同級生だ。子どもっぽいとすら思う。私はスケジュール帳を開きバイトの時間を確認しながら、壊れたままの我が家のガレージを思った。元どおりになったものもあれば、ならなかったものもある。
 不可逆のこの世界で、彼らは何を見るのだろう。
 窓の外では黒く四角い防衛基地が、じっと黙してこちらを見ている。


2023.02,11


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