novel2

□09-sonoiro



 あいつの気持ちについては、よくわからないというのが本音だ。好かれる要素がそう思い当たらないのに、いつでも名前は俺のことが好きだった。自惚れというより、これについては驚きの方が大きい。努力家で優秀で慎重な彼女が俺と付き合っていることに驚く隊員は多いが、俺にしても同じ気持ちだ。
 意外であり謎ではあるが、好かれている以上、心変わりをさせるつもりはない。名前に好かれていると実感する瞬間はとても気持ちがよく、それ以上に、自分が名前をかわいく思うときに放出されるアドレナリンは異常なほどだった。これを失う手はないと思う。
 俺のように普段から手を抜いて生きている人間と違い、真面目な彼女はつねに自分を律している。なのでふとしたきっかけでそれが緩んだときには、反動が大きい印象だ。その原因が俺にあるときもあれば、そうでないときもある。俺は思い当たるような当たらないような気持ちで顎に指をあて、考えた。何にせよ心配ではある。
 彼女が実家に住んでいたころと比べれば、家同士は近くなった。とはいっても、本部を中心に警戒区域から南と西に位置しているため、生身での移動はやや手間だ。明日の朝食を買っておこうと、寝る前に街へ出ていたことは幸いだった。
 結局、アパートの前に着くまでのあいだ電話は通じず、俺はいろいろな可能性を想像しながら、あれはなし、これはありと頭の中を整理する。酒に弱いことはないはずだが、あんな風にふやけた声を出していたところをみると相当酔っているようだ。途切れた上に、何度かけても通じない電話、そして一緒にいる誰かの存在を思えばあまりいい状況とは言えない。自分の許容範囲というものは意外とわからず、とりあえず名前が無事か否かの危険度を基準にするしかなかった。具体的な展開を思い描いたところで今さら背中に汗がにじみ、走ってくればよかったと思う。
「大丈夫かー?」
 チャイムを鳴らしても反応がないため、ドアをどんどんと叩きながら呼びかける。明かりがついているため、室内にいることは確かだろう。無事に誰かに送り届けられ、中で寝ているならまだいいが、返事ができないほど体調が悪いのなら弧月でドアをぶった斬ってでも救出した方がいい。ドアの前でしばらく腕を組み、鍵だけならさっくり斬れるな、と構造を確かめていると内側から物音がした。
「起きてるか、名前、無事か?」
 再びドアを叩きながら聞けば、物音がずんずんと近づいてきたためトリガーホルダーを引っ込めた。すぐそこに人がいるのなら軽はずみにドアを破壊するわけにはいかない。しかし明らかに彼女のものではないこの高圧的な足音は、一体誰の──。
「うるさい」
 ガチャリと内からドアが開き、ひとことそう言ったのはよく知る同期の男だった。
「……どういう状況?」
 この場所にいるにはあまりにそぐわない男の登場に、俺はやけに凶暴な気持ちと、拍子抜けした気持ちの両方を抱いた。
「どういう? 全部お前のせいだろうが」
 口の悪い同期は見るからに苛立った様子でドアノブに手をかけている。玄関口を陣取る二宮の肩の向こうに視線をやり、名前の安否を確認する。玄関の角度から見えるのは彼女のベッドの足側だけで、そこに素足の爪が見えたため、溜息をついた。
「送ってくれたのはありがたい。できれば俺に連絡くれればもっとありがたかったんだが」
「お前の連絡先なんか知らん」
「名前の携帯に入ってるだろ」
 二宮は一度部屋へ戻ると、床に置かれたジャケットを拾い上げ俺の横を素通りする。
「一応聞くけど、何もしてないよな?」
「……本人に聞いてみろ」
 否定も肯定もしないこの男は、相変わらずいい性格をしている。淡々と靴を履き、最低限のコミュニケーションをもって去っていく二宮と入れ替わりで部屋へ入る。力なくベッドに横たわっている名前の横に座りながら、ジャケットの置かれていた位置からして、先ほどまで二宮もここに座っていたのだろうと思った。

「太刀川くん……?」
 枕に頬をつけたまま、名前は目を開けてこちらを見た。普段は丸く開かれている目に瞼をとろんとかぶせ、黒目を酒で潤ませている。焦点をさまよわせながら、うっすらと唇を開いている様は無防備を絵に描いたような表情だ。この状態の彼女が、自分以外の男と二人きりで部屋にいたというのはなかなかに想像したくない事実である。軽率なことをしなさそうな二宮ですら、何かしら起こってしまっても仕方ないと思わせる破壊力がある。
「……お前は性善説を採用してるのかもしれんが、こういう状態で部屋に男を招き入れるのはあまりお勧めしないぞ」
  顔に一束ながれている髪をどけながら言うと、名前はゆっくりと起き上がり二回、大きく息を吐いた。仮眠をとったことで酔いはましになったようで、ベッドに座りながら目をこすっている。
「……二宮くんは、私が倒れそうだっだから介抱してくれたんだよ。そんなふうに言わないで」
「それはわかってる。礼も言っておいた。けど感情としてはけっこうざわざわしてる」
「ざわざわ?」
「喧嘩ふっかけなかったの、褒めてくれよ」
 挑発ともとれる言葉を残され、出かけたガラの悪い声を引っ込めたのは自制心からだ。そう言って名前の隣に座ると、彼女は酒のためかいつもより幼い表情を浮かべながら「知らない」と言った。



 恋人でもない男にさんざん世話を焼かせ、この落とし前、どうつければいいものかと目を開ければ、そこには恋人が座っていた。私はしばらくのあいだ緩慢に思考をめぐらせ、いくつかの可能性を探る。シラフで考えれば「太刀川くんが来たから二宮くんが帰った」というだけの話なのだが、眠気とアルコールにふやかされた脳みそでは事実関係がはっきりとしない。ひとまず体勢を立て直そうと背を起こし、深呼吸をすればいくらか意識が冴えた。いったいどれくらい寝ていたのだろう。
 太刀川くんはそんな私の様子を見て、珍しく苦言を呈した。彼が戦闘時の判断ミス以外において、私の行動を否定することはめったにない。「感情がざわついている」と率直に告げてきた太刀川くんに対し、謝るべきか考えた結果、私は投げやりな返答をした。そもそもの話、ざわついているのは私の方だ。それもここ数日ずっとだ。原因である張本人に諌められる筋合いはない。
「離して」
「全然力入ってないな。二宮じゃなかったら危なかったぞ、本当に」
 私の体を引き寄せて、太刀川くんがこちらを覗き込んだため、私は両手で肩を押し返した。けれど彼の言う通り、それは拒んでいるのか縋っているのかわからない力加減となってしまう。
「頼むよ」
「なにが」
「もう少し危機意識持ってくれ」
「危機意識?」
 どうして私が叱られているのだろう。ぜんぶぜんぶ、私の方が言いたかったことだ。酔っているせいか感情の昂ぶりをコントロールできず、不満や嫉妬が気持ち悪いくらい胸にせり上がっている。
「……太刀川くんは一度浮気してるから、私が太刀川くん以外と寝たって文句言う資格ない」
「……」
 彼は私の発言にぴくりと眉を動かし、けれどすぐに声を荒げたりはせず、ただ不穏な角度で顔を傾けた。
「確かにそうかもしれないが、おまえは俺以外とやりたいのか?」
「やりたいって言ったらどうするの」
「なんだ、喧嘩したいのか? それならもっと別の方法で俺を怒らせろよ」
 怒らせろというが、太刀川くんはもうすでに怒っている。私は普段怒らない彼の怒気を感じながら、少しだけ満足し、そしてすぐに悲しくなった。
「喧嘩なんてしたくない」
 溜息をついた太刀川くんの顔がすぐそこに迫る。私はとっさに自分の唇を手の甲で覆い、目を背けた。キスを妨げられた彼が、私の反応を悪い方向に捉えていることは明らかだった。
「なにかあったのか?」
「なにかって」
「なにかさせたのか?」
 一言「なにもない」と言えば済むはずなのに、私の口は動かない。もっと疑えばいい、もっと怒ればいいと思っている。誰も得をしない選択をしながら、私は普段よりも強く私の腕をつかむ恋人の顔を見た。いつのまにか私の上に乗りあげている彼の表情は、逆光でよく見えない。
「否定してくれ、嘘でもいいから」
 肩口に顔を寄せながら、彼は「酷くしそうだ」と呟いた。温度を感じさせない声色と、熱い息がちぐはぐで怖い。手のひらが顎に周り、今度は逃がさないとばかりに噛み付かれる。私は恐怖と劣情と反抗心と、少しの罪悪感に苛まれながらそれを受け止めた。怖いし、気持ちいいし、むかつくし、好きだ。混乱をお酒のせいにしようとしても、もうとっくに酔いは醒めてしまっている。それなのに力がうまく入らない。私が震える指先で太刀川くんの服を掴むと、彼はぴたりと動きを止め、先ほどよりも長く息を吐き、ベッドから降りた。
「どこいくの」
「風呂。離せ、名前」
「やめなくていい。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ。泣かれてたらできない」
 私はまた、自分が泣いていることに気づいていなかった。頬に触れればじんわりどころかびっしょりと濡れており、これはさすがにお酒のせいだろうと思う。けれどもうずっと、彼の前で泣きたかったのだとも思う。
「……太刀川くん、妬いた?」
 引き止めるために掴んでいた服の端を離し、私は上目で彼を見た。涙の膜が蛍光灯をぼやかして妙に眩しい。
 その問いかけ一つで私への疑いは晴れたらしく、彼は脱力し、ベッドの上に座り直す。
「めちゃくちゃ妬いた。勘弁してくれ」
「太刀川くん、大学に彼女いるの?」
 私は私で、勢い任せに尋ねていた。私の中ではさんざん煮詰められた疑問だけれど、彼からすればまったく脈絡がなく思えたらしく、太刀川くんは驚いたのか呆れたのかわからない感嘆符を「は」ともらし、静止した。
「俺の彼女はおまえなんだから、大学に彼女いるわけないだろ」
 頭をかきながら「それに俺は次がないしな〜」とぼやく姿から、後ろ暗さのようなものは感じられない。けれどそんな飄々とした態度すら今の私にとっては不安要素だ。
「たしかに次、浮気したら別れるって言った。でもそれは……私が振る立場であることが前提でしょ。太刀川くんが別の人を好きになったなら、私が何を言っても……」
「待て待て、待ってくれ。どうしてそういう話になる? 誰から何を聞いたんだ」
「いろんな人からだよ。三門大の人はみんな、太刀川くんは都市研の後輩と付き合ってるって言ってた」
 決死の覚悟で口にした私に対し、太刀川くんは呆気にとられながらもどこか小ざっぱりとした様子である。
「都市研の後輩……ミサキか? まあ確かに、あいつは俺に気があるっぽいけど、ボーダーで活動してればミーハーな奴は男女問わず一定数集まってくるからな。気にしてたらきりがない」
 こうして彼の口から聞いてみれば、それは半ば予想していた通りの無頓着さであり、無神経さだった。しかし大事なのは内心でなく、行動だろう。彼はいまいちその部分をわかっていないのだ。
「じゃあ、事実無根なのに周りが勘違いしてただけ?」
「まあ、よく腕にまとわりついてきたり、ついてくるから一緒に帰ったり、飲み会のとき家まで送ったりしてたからかな」
「それ……ほとんど付き合ってるようなものじゃん」
 自ら口にした状況証拠の数々に、ようやく自分でも無実の証明が難しいと気づいたのか、太刀川くんは顎に指を添えたまま彼にしては長いあいだ黙った。
「……信じられないかもしれないが、俺はおまえしか好きじゃないし、浮気もしてない」
 根拠も証拠もない、ただの言葉だ。けれど一体、それ以上の何が要るというのだろう。
「付き合ってないの?」
「付き合ってない」
「好きでもない?」
「好きじゃない」
 短いやりとりを経て脱力した私は、ほっとした勢いでもたれかかるように彼の首に腕を回す。胸から息を絞りだし「よかった」と呟けば、太刀川くんはまた、彼にしては歯切れの悪い口調で聞いた。
「俺が聞くのもなんだけど、もう疑わないのか?」
「疑わないよ。太刀川くんは、私に嘘をつかないから」
 それだけは信じられる確かなことだ。彼の言葉に嘘はない。私にとっては当たり前のことだけれど、本人にとってはなかなか信じ難い感覚であったらしく、太刀川くんは「そういう考え方があるのか」と複雑そうな顔をした。一定の推移で落ち着いている彼の情緒が、今日はいつになく揺れているようだ。暑くもないのに、彼はじんわりと汗をかいている。
「不安があるなら、俺に直接聞いてくれよ」
「嘘をつかない人に、本音を聞くのは怖いよ」
「なんでそんなに自信ないんだ?」
「自信がないんじゃなくて、客観的に考えてる。太刀川くんは、三門市民からしたら芸能人みたいなものだよ」
「芸能人たって、嵐山みたいにキャーキャー言われてるわけじゃないし、名前知られてるから興味本位で近づく奴も多いってだけで」
「……太刀川くんはすぐそうやって言うけど、相手の女の子にも失礼だよ、それ」
 私はまだ湿っているだろう目尻の水気を拭うように、太刀川くんの肩に顔を押し付ける。
「有名とか関係なく、太刀川くんは優しいしかっこいいし、内面知ったら好きになる子たくさんいるよ。その子だって、きっと本気で好きだったんだよ。なんでそれがわからないの」
「いやいや……おまえには俺がどう見えてるんだ」
「太刀川くんはかっこいいよ」
 なんでそれがわからないの。私はもう一度心の中で念を押して、彼の背中に腕を回した。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけども」
 彼もまた、私の背中を抱きしめる。ここのところ空いていた胸の隙間に、熱いものが流れ込んで満たされる。誤解と、和解と、アルコールのなごりが混ざり合って嘘のような高揚感が生まれている。それは確実に中毒症状を引き起こす類の快楽物質であり、つまるところどうしようもなく、恋そのものだった。それでも許せてしまうのは、彼の態度に嘘がないからだ。およそ人並みはずれた感覚を持ちながら、いつでも己の基準に沿い、またそれに則り他人を慮る。ゆるいようでぶれがなく、怖いほど正直だ。こんな人は他にいない。誰にもとられたくないし、できれば触れてほしくない。この男は、私のものだ。
 胸に燻る所有欲や執着心を、なんとか言葉にせず押し留めたため私の喉は詰まり、息は上がっていた。体内に渦巻く柄にもない激情が、行き場を失くして熱暴走寸前にまで膨れ上がっている。
「どうした……?」
 こちらの必死さを知ってか知らずか、よりにもよって、太刀川くんは以前両刀で真っ二つにした私の胸を撫でた。私は慌ててそこを庇う。気を抜けば漏れてしまう。宇宙のような暗色でなく、赤く爛れた恋愛感情が胸の裂け目から溢れてしまう。
「……誰かのものにならないで。太刀川くんは私のものでしょう」 
 言っていて自己嫌悪におちいるような言葉だ。彼は物じゃないし、恋人は所有物じゃない。誰も、誰かを所有することなんてできやしない。独占欲は醜いものだ。
「いいな。それ」
 それなのに、太刀川くんは軽い調子で私の欲を肯定した。
「おまえもそういうこと思うんだな。意外だけど、そんな顔するほど悪いことじゃないと思うぜ」
「自分の俗悪さに失望してる」
「ふーん、よくわからないけど俺は興奮してる」
 不敵に笑う彼の口が耳元すれすれにまで近づいて、けれど触れずに、すぐそこで止まる。意外と彼は言ったけれど、先ほどまで私も同じことを思っていた。
「太刀川くんも嫉妬とかするんだね。意外だった。太刀川くんにはそういうの、ないと思ってたから」
「自分でも意外だ。けどまあ……一生味わいたくないな、自分が何するかわからんような感覚は」
「でもちゃんと、途中でやめてくれた」
「あれは優しさとかじゃなくて……おまえと二宮に何かあったら、マジで立ち直れないと思ったから、日和った」
「本気で疑ってたの?」
「疑ってたってより、まあ、怖かったんだろうな」
 彼にも怖いことがあるのだ。それもどうやら、私の関わることにおいて。
 当然のようでいてやはり信じられないことだ。けれど信じなければいけないのだと思う。彼の口から発せられる率直な言葉と同じく、彼の根底にある私への絶対的な愛情を。
「私だって怖かった」
「そうか。ごめんな」
 肩越しに見る部屋の壁は白い。
 白はいくつかの思い出に染まり、移ろい、闇に溶ける。灯りの消えた室内で、熱い体温に身をまかせながら、私は消えない色をまぶたの裏に映しつづけた。
 滲み、混ざり、沈着する。すべての色が重なって、宇宙のように体を満たす。


2022_09_18

  

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