novel2

□08-shikkoku



「あら、浮気調査? いいわよ任せて」
 快く笑った望ちゃんに「そんな大層なものじゃないけど」と返したのは三日前のことだ。太刀川くんと同じ三門私立大学に通う彼女は、彼と同じくA級の上位隊長であり私たちの同期だ。二十歳を迎える私たちの世代はなかなかの個性派揃いであるためか、協調性にはやや欠けるが、かといって横のつながりが希薄ということもない。とくに女性陣は人数が少ないこともあり、彼女とはオペレーター時代から親交が続いていた。
 大人びた見た目とは裏腹に、天真爛漫な一面を持ち合わせる望ちゃんは入隊時から今に至るまで、自由奔放に、屈託なく、我が道を邁進している。
 そんな彼女がわずかに顔を曇らせながら「ストレートな意見と、オブラートに包んだ意見、どっちが聞きたい?」なんて言うものだから、私は聞く前から大体のことがわかってしまった。
「ストレートな方で……」
「まあそうよね。結論から言えば、私の聞いた三人の子たちはやっぱり誤解しているようだったわ」
 ストレートにと言いながらも「誤解」という表現を使ってくれる望ちゃんは優しい人だ。
「一人は都市研の二回生で、あなたが他の都市研部員から聞いたのとおそらく同じような反応ね。いつからかは知らないけど後輩と付き合ってるみたい、っていうやつ」
 私は心を落ち着けるために一口、出された紅茶を口に含む。近ごろは他隊の作戦室へ出向く機会が多いけれど、戦闘の経験を積むために生駒隊を訪れたときとはまったく異なる心境だ。体を斬られるのはいい。心を抉られるよりもずっと。
「あとの二人はゼミ生ではない一回生と、私の仲良くしてる四回生の先輩。一人は、詳しくは知らないけど一緒にいるのはよく見るって。もう一人は、付き合ってるって聞いたことがある気がする、って感じね」
「つまり、太刀川くんとその子は付き合ってないってはっきり否定する人は、誰もいなかったってことだね」
「火のないところにとは言うけれど……太刀川くんの存在は大学の中でも少し特殊だから、これだけで判断するのは早計かと思うわ」
 望ちゃんのする、出来うる限り最大限であろうフォローを聞きながら、私はこぼさないよう慎重に、カップをソーサーに置いた。
「本人に聞くのは無理なの?」
「聞かなきゃとは思ってるよ」
 太刀川くんは自分へ向けられた好意に対してあまり頓着しないため、熱烈なアプローチをされていてものらりくらりと躱しそうである。自分から恋人の話をするタイプでもないし、フリーだと思われていても不思議ではない。ふとした瞬間に見せる面倒見の良さのようなものが仇になっている可能性もある。周りが誤解しているだけなら、それでいいのだ。べつに太刀川くんの彼女として、他大学にまで自分の名前をとどろかせたいわけではない。
「おわっと」
 そんなことを考えながら、迷路のような本部の廊下を誤って二周半したところで、人とぶつかった。時刻表も読めなければ、歩き慣れた本部ですら道に迷うなんていくらなんでも動揺しすぎである。しっかりしろと、己を奮起しながら曲がり角で急に加速したのがよくなかった。目の前の青年はとっさに避けようと半身にかまえるも、反射神経がマイナス値に落ちていた私は頭突きをするような形で肩へ突っ込んでしまった。黒いネクタイが反動で裏返る。
「ごめん、犬飼くん……」
「いえいえ、おれもよそ見してたんで」
 相手がトリオン体であることにほっとしながらおでこをさする。二宮隊のガンナーはそう言うと背後を振り返り、自隊の隊長を見た。二宮くんは階段下の自動販売機で缶コーヒーを買いながら、犬飼くんへ向けて「何にするんだ」と催促している。
「えーと、じゃあおれはグレープジュースで……て、ウソ泣いてる? 名前さん。そんなに痛かった?」
 彼は焦ったときでもずいぶん柔らかい声を出すんだな、と他人事のように思いながら、自分が泣いていることに気づいていなかった私は「えっ」と驚き目元に触れた。たしかにじんわりと濡れている。通りで視界が悪いわけである。
「太刀川さんと喧嘩でもしました?」
「喧嘩はしてないよ、そもそも喧嘩にすらならないかも。ちゃんと付き合ってるのかもわからなくなってきた」
 事情も何も知らない相手に、ここ数日のあいだ溜め込んでいた不安をこぼしたところで、そもそも冗談まじりの問いであったことに気づく。思わぬ地雷を踏んだことに対し、犬飼くんは素直に「しまったな」という表情を作った。
「……おれと二宮さん、このあとご飯食べに行くけど、名前さんも一緒にきます?」
 ジュースの缶を受け取りながら、犬飼くんは首をすくめている。一方、手渡した二宮くんは「今日、飯行く約束なんかしてたか」と聞いていたけれど「まあまあ」といなされ、結果、無表情で缶コーヒーを開けた。そういえば、同い年の二宮くんとはかれこれ三年近く同じ組織に所属しているというのに、プライベートな付き合いをほとんどしたことがない。彼もまた三門大に通う二回生であるため、なにか情報を得られるかもしれない。
 そんな思いで犬飼くんに誘われるまま、私たちは警戒区域からほど近いダイニングバーでテーブルを囲んでいた。考えるだに不思議なメンバーではあるけれど、料理はおいしく雰囲気もいい。オーセンティックな味わいがあるわりに、テーブル席には家族連れもちらほらと見られる、なんとも気の利いたお店だ。こういった場所にさっと案内できるところは、いかにも交友範囲の広い犬飼くんらしいと思った。
「おれのことは気にせずお二人は飲んでくださいね。名前さんは少し気を緩めた方がいいですよ」
 そう気遣われても、さすがに未成年の前でやけ酒をするわけにもいかない。私がメニュー表を見て迷っていると、二宮くんが隣で「ビール一つ」と言った。意外に思いながら、一杯だけならとそれに乗る。頼んだ後で、もしかしたら彼も相当気を使ってくれているのかもしれないと気づいた。いろんな人に優しくされている。

「太刀川くんの考えてることがわからない……」
「ま〜、わかる人あんまりいないんじゃないですか? そもそも本人があんまり理解を求めてないタイプっぽいし」
「それでも一応、付き合ってるのに」
「付き合ってるから理解できるかっていうと、そんなこともないと思いますけど。むしろ恋人ほど見せる部分は減るでしょ」
「犬飼くんはそうかもしれないけど」
 結果として、私はビールをジョッキで三杯飲んで、後輩の前で堂々と管を巻いていた。このよくできた後輩は話を聞きだすことがやたらとうまく、そのうえ無難なあいづちをうつわけでもなく、こちらが聞き逃せないようなことばかり言うのだ。
「二宮さんはどうですか? 好きな人には全部知ってほしいタイプ?」
「好きだろうと嫌いだろうと、人間同士が理解し合うには限界があるだろ」
「……」
「嫌いでも似てる部分があれば、不本意だろうと理解はできる。逆に、どれだけ好きでも性格が違えば理解や同調は難しいだろうな」
「おれが包んだオブラート全部剥がすのやめてくださいよ」
 二宮くんの率直な物言いはランク戦の講評時とさほど変わらず、正しさゆえに頷くしかなかった。その場しのぎの慰めをしてほしいわけではないけれど、弱った心は着実に磨耗していく。ともなって、お酒が進んだ。
 犬飼くんが場を回しているためか、即席のメンバーでも会話が絶えることはなく、きっちりとデザートまで食べ終えた彼が「おれはこの辺りで失礼しますね」と立ち上がるころにはすっかりこの会食に愛着が芽生えていた。まだ解散したくないな、と思った私の心を汲むように、犬飼くんは店の奥を指差す。
「カウンターの方はもう少し落ち着いて飲めるみたいですよ。おれがいたらしづらい話は向こうでどうぞ」
 名前さん、けっこう言葉選んで話してたでしょ、と笑いながら彼は私よりよほど大人びた顔をした。
 たしかにお酒が入っていようとも、十八歳の青年がいる場所で出すべきでない単語は出していないつもりだ。本人に気付かれていたうえ、逆に気を遣われたのでは世話ないけれど、心身ともにふやけきった私はやんわりと笑い返すしかなかった。適切な時間で席を立つことで、私たちに監督上の迷惑をかけない計らいまでしっかりとこなし、犬飼くんは去っていく。
「よくできた隊員で」
「そうだな」
 二宮くんは椅子にかけていたジャケットを携えると「もう一杯飲んで帰るか」とカウンターに座った。私は自分がどれくらい酔っているのかいまいちわからず、確かめるためにもう一杯飲んでみようと思った。
「理解には限界があるって、二宮くんは言ったけど……」
 二宮くんの頼んだ聞き慣れないショートグラスがとても美味しそうに見えたため、私も同じものを注文し、ちびちびと嗜む。
「すべてを理解したいと思ってるわけじゃないよ。ただ感覚が違いすぎたら、そのうち自分が傷ついてるのかさえわからなくなって、今までわかってた部分まで揺らぎはじめる」
「だったら違うなりの落とし所を見つけるべきだな。それができないなら、おそらくどちらか一方が割りを食いつづけることになる」
 二宮くんはそう言って私を見た。カウンターのマーブル模様がゆらゆらと揺れている。それから一杯のお酒を飲み終わるまでのあいだ、私のこぼしたとりとめのない愚痴に対して、二宮くんは「慈善事業で付き合ってるのか?」とか「これを機に縁を切ったらどうだ」とか、わりと端的かつ極端な意見を口にしていた。
「あいつの一体どこが良いんだ」
「どこがって……悪いと思ってるところ以外ぜんぶ好きだよ」
「大部分が悪いだろう」
「そんなことないよ」
「そうか。重症だな」
 重症と言われた私は、そういえば先日の斬られ方はなんだか心に響いたな、と思いながら自分の胸を数度さすった。とたんに飲みすぎていることに気づき、カウンターにうつ伏せる。
「おい、椅子から転げ落ちるぞ」
「なんか、とうとつに、ねむい」
 隣から大きなため息が聞こえ、私もつられて息を吐いた。脳みそがぐるぐると回り始めて、私は雲の上を歩いているような心地でおそらくバーの長い階段を下りた。歩道を亀のような速度で歩き、どうにかこうにかタクシーへ乗り込む。その間、おそらく二宮くんの腕のあたりにしがみついていたけれど、身体感覚を失っていた私は自分がどれだけの体重を彼にかけているのかもよくわからなかった。手を添えていただけの気もするし、全体重をあずけていた気もする。
 車の走り出す音がして、繁華街の光が花火のように流れだし、背中がずるずるとシートの上を滑っていく。二宮くんの膝を勝手に枕にしながら、神をも恐れぬ行為をしている自分の度胸がおかしくなった。
 せめて意識は失うまいと思っていたけれど、次に目を開けたときそこは車内ですらなく、私の体は再び横から縦になっていた。寝た記憶も起きた記憶もないけれど、背後でタクシーのドアが閉まる音が聞こえたのだから、足の裏にあるのは地面のはずだ。
 体を縦にし続けることはずいぶん難しいな、と思っていると、さらに二本の足でバランスをとって前へ進むことを要求され、そんな無茶なと思う。人類は歩行の仕方を誤って進化した生き物である。そう確信しながら階段の手すりと二宮くんを頼りに、なんとか自室へたどり着く。
「さっきから鳴ってるぞ」
 二宮くんに言われ、私はポケットに入れていた携帯電話が光り続けていることに気づいた。ディスプレイに映し出された文字を眺めながら、私はこの男の名前が好きだな、と脈絡のないことを考えた。
「……はい」
『寝てたか? 起こして悪い。明日のことだけどな』
「あした?」
『家行くって言ってただろ。ちょっと本部に出向く用事ができたから、時間ずらしてほしいんだが』
「うん」
 太刀川慶の「慶」という字は、形も美しいし意味も良い。けれど本人は画数が多くて書くのが面倒だといつだか言っていた。会話の内容が頭に入らないため、私は一人でそんなことを考えた。
『というかおまえ、もしかして酔ってる?』
「もう、よってないとおもう」
『いや酔ってるだろ。大丈夫か』
「だいじょうぶだよ、おくってもらってるし」
『誰に? 今どこだ』
 私を心配しているらしい太刀川くんの反応に、なんだか無性に腹が立ち、とたんに受け答えをするのが億劫になったため、何も返さずに通話を切る。私が今どこで誰といようと太刀川くんには関係がない。太刀川くんが大学で誰と何をしていても、私に関係がないように。
 携帯電話をしまうとともにキーケースを取り出して、なんとか奇跡的に一発で鍵を回す。相変わらず目の前はぐるぐると回っているけれど、ここまでくれば一安心だ。
 そう思ったのもつかの間、私は玄関の段差につまづき盛大に転んだ。もはや突っ込むことすらしなくなった二宮くんが私の脇に手を入れて、犬や猫にするように持ち上げる。私は廊下に座り込み、二宮くんに「ありがとう」とお礼を言おうとして、代わりに「吐きそう」と言った。
「トイレで吐け。あと五歩で着く」
「五歩……五歩はむりだ」
「生き物としてのプライドがないのか」
 もはや人間としてのそれは求められていないらしく、私は有機生命体としての矜持を保つためになんとかトイレのドアを開けた。ポニーテールをお団子に直す動作だけはなぜか滑らかにできたため、髪を汚す心配はせずに済んだ。
 しかしここまでの悪酔いをした経験がないため、吐こうとしても全く吐けない。えづいても苦しいだけで、吐けずに涙ばかり出る。途方に暮れているうちに多少酔いが覚め、だんだんと吐き気がどこかへ引いたため、私は洗面所で顔を洗いよろよろと部屋へ戻った。
「白湯だ」
「ありがとう」
「飲んだら寝ろ」
「そうします」
 マグカップの温度が指先に触れ、白湯がお腹を温める。斜め左方、十時の方向にベッドを視認した私はそちらへ向かおうとするも、勢いよくふらついて二宮くんの肩のあたりにぶつかった。彼は私の体を支えながら、合気道の要領で手際よくベッドへ倒し込む。
 視界が大きく揺れたため私はまたわけがわからなくなって、すべてが情けなくなって、少し泣いた。
「ふられたらどうしよう」
 ずっと頭にあったけれど、怖くて口に出せなかった言葉を、シーツに向けてこぼす。二宮くんは何も言わずに私のことを見下ろして、そのあとベッドの横に座った。私は彼の肩を見ながら今はどういう状況なのだろうと考えた。よくわからずに、目を閉じる。
 今の私にできることはせいぜい生き物の形を保つことくらいだ。一生けんめい息を吸い、ゆっくりと吐く。


2022_09_18

  

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