□06-hitohada
ひとつの呼吸で鳴る心音が、いつもより二拍多い。
そのためか血流が全身に行きわたり、私の体は馬鹿みたいに火照っていた。太刀川くんはあからさまに緊張している私に対し「そこまで気負われるとやりづらいんだが」と呆れている。
「気負ってるわけじゃないけど、太刀川くんが急にデートとか言うから」
「急じゃないだろべつに。俺も最近知ったんだけど、デートってふつう訓練室ではしないらしいぜ」
冗談めかして笑う彼は、私に比べてずいぶんと余裕があるようだ。模擬戦において彼の焦った顔や慌てた姿はまだ見たことがないけれど、プライベートにおいても同じであるならばなんとなく癪だ。これは己のプライドをかけた決闘であると、私は自分に言い聞かせ、なんとか落ち着きを取り戻す。私の場合「恥じらい」を「負けず嫌い」が上回ればなんとかなるのだ。
「なんか目怖くないか」
「大丈夫。そんなことない」
そんなふうにして、おかしな戦闘モードにより幕を開けた私たちのデートだったけれど──結果として言えば、勝ち負けやプライドといったこだわりはものの数分で吹き飛んでしまった。太刀川くんとご飯を食べたり、買い物をしたり、ただとりとめのない話をしながら街を歩くことは想像以上に楽しかったからだ。気負いの抜けた私の中に、ほんのりと残された緊張すら、この時間を特別なものにしているようで心地よかった。
私たちは商店街の甘味どころで和菓子を食べ、駅ビルで防寒グッズと来年度のスケジュール帳を見繕い、郊外の神社まで三十分ほど歩き、お参りをしてからバスに乗った。その間、太刀川くんはボーダーの話をあれこれとしたし、ボーダー以外の話も案外した。手袋を買うといつも同じ部分に穴が空くとか、実家で育てているヒヤシンスが枯れそうだとか、最近美味しいと思った東南アジアの料理名が思い出せないとかそんな話だったけれど、彼の口から聞く彼の日常は、些細であるほど妙に味わい深く思えた。
バスがロータリーに停まり、私は駅ビルのショップバッグをゆらゆらと揺らしながら、歩道の端で太刀川くんを見上げた。真冬の日はあっという間に落ち、辺りは時刻以上に暗く見える。私の家はここから歩いて十分とかからないけれど、なんとなくそちらへ足を向けることがためらわれた。
「家まで送る」
「だ、大丈夫。すぐだし」
「いや、すぐでも暗いだろ」
私が遠慮していると思ったのか、彼はそう言って私の荷物を持つと、高架橋の下を抜け住宅街へと歩き出す。
私はしばらく黙ってその後を歩き、ここを曲がれば自分の家の屋根が見えるという角の手前で、太刀川くんの肘のあたりを掴んだ。
「……どうした?」
「ええと、その」
彼は訝しげに首を傾げ、気分でも悪いのかと問う。
「悪くないよ。ただ、今日はとても楽しかったから、もう少し」
息をするたびに脈拍が加速する。けれど不快とは言いがたく、圧倒的な高揚感と充足感と、それよりもさらに大きな寂しさのようなものがひたひたに混ざり合い胸を満たしていた。
「もう少し……」
明日もまた、あの四角い建物に行けば彼に会えるというのに、どうしてかそれで充分とは思えない。今さよならをすることが妙につらく、なぜこんな我儘を言ってしまうのか、自分の行動原理が理解できずにうつむいた。きっと太刀川くんも困っているにちがいない。見上げようとした私の頭に手を回し、彼は自分の胸に私の額を押し付けた。
「おまえ、そんなかわいい顔できるならもっと早く言えよ」
自分がどんな顔をしているのかはわからないけれど、訓練室の中でこの顔をするのは難しい気がする。私を引き寄せ、つむじの横に頬をつけている彼の体温はトリオン体のときよりも少し熱い。
「今言うのもなんだが……俺大学決まったから」
「え?」
「ボーダーから推薦状が出るらしい。簡単な面接で入れるんだと」
思わぬ報告をしながら、太刀川くんは少しだけ体の距離を離した。見上げればいつもより不敵さを増した笑みがあり、口ごもる。
「す、すごい……そんな手口が……」
「手口とか言うな」
「うそうそ、ごめん。おめでとう!」
彼が学業面でのストレスを負わず、今後もボーダーの活動に専念できるのならそれにこしたことはない。きっと本部の考えも同じなのだろう。
「どうなることかと心配してたからほっとしたよ」
「おまえは自力で頑張ってるから、言おうかどうか迷ったんだけど」
「私は好きでやってるから」
ボーダーへのパイプがある三門私立大学へ行かないことも、ボーダーの活動を軸にしたアピールを行わないことも、私自身が決めたことだ。これは負けず嫌いとは少し違い、フラットな状態で自分のレベルを自覚し、必要なものを補っていく作業は何においても私の性格に合っていた。
「まあ……大学はともかく。そういうわけで春からは一人暮らしだ」
彼はそう言って、私の横髪のあたりを指で撫でた。耳をかすめ、こそばゆい。私が肩をぶるりと震わせて同じ場所に触れると、太刀川くんは珍しく困ったように首を傾むけた。
「自活かあ。大変そうだけど、なんかわくわくするね。手伝えることあったら言ってね。引っ越しとか」
「おまえは、本当にいい子だよな」
「なに、急に……」
いつの間にか寂しさのようなものは引いている。胸の代わりに、お腹のあたりが少し熱い。
「本当は今すぐ、いや……焦ることないか」
「何の話?」
「一人暮らし始めるまで、待つかって話」
「何を?」
太刀川くんは主語と述語をぼやかしながら、満足げに、しかしどこか物足りなさそうに私の耳をもう一度擦った。
「明日はちょっと多めにやろうぜ」
「模擬戦? 望むところだよ」
夕方はとうに終わり、夜が街を包んでいる。本部を縁取る誘導灯が、宙を背にして鼓動のように瞬いている。
*
「引越し手伝おうか、太刀川さん」
額の上のゴーグルを首元に下ろしながら尋ねると、太刀川さんは隊服を翻しこちらを見た。
「迅おまえ、今日は防衛任務じゃないだろ」
警戒区域に三体同時に出現したバンダーを、一振りの旋空でスクラップにしたボーダーのトップランカーは、一瞬、思うところありげに目を細めた。太刀川隊の黒い隊服は、春の陽気の中では少し暑苦しく見える。屋根の上からおれを見下ろす太刀川さんの背後を、流星群のように飛び去っていくのは公平のハウンドだろう。太刀川隊の実力であれば、防衛任務においても単独での行動が可能だ。住宅の向こうからは京介のものらしきアサルトライフルの射撃音が聞こえてくる。
「大体のことは業者に頼んであるし、細かいことは名前とやるから大丈夫だ」
おれの立つパーキングエリアへ飛び降り、弧月を鞘にしまいながら太刀川さんはそう答えた。おれが風刃を手にしてからというもの、太刀川さんとの距離感はやや遠のいたように思う。個人戦ブースにて毎日のように顔をつき合わせていた頃と比べれば、互いにボーダー内での立場も変化してきている。
「太刀川さんが大学に行くイメージはなんとなく見えてたけど、一体どうやって……って疑問だったから、ぶじ進学できてほっとしたよ」
「ちょっとリアルなサイドエフェクトジョークやめろ」
けれどこうして話してしまえば、案外なんていうこともない。戦闘に対するあくなきハングリー精神をのぞけば、誰に対しても分け隔てなくフランクな人なのだ。
「日々の勉強をあえて切り捨て、ボーダーの活動にエネルギーを一本化することで推薦状を獲得したんだから、戦略的勝利と言える」
太刀川さんは学校の授業をさぼり続けたことを大胆に肯定し、うんうんと頷いている。
「名前さんとはどう?」
「どうって言われてもな。何に対してだ?」
「何って、そんないくつもあるの?」
「あるだろ。弧月のみの模擬戦なら10−0、縛りなしの個人戦なら14−1、出水と組んでの2対1なら10−5ってとこだ」
「いや、普通にお付き合いについて聞いたんだけど」
太刀川さんは「そっちか」という顔をして顎に指を当てる。その反応から、二人の関係が一般的な恋人同士のそれと若干異なることは充分にうかがえた。
「そっちはまずまずだな。いや、俺としてはかなり慎重な方だ」
「慎重?」
「なんていうか、最近は普通にむらむらしてるけど襲いかかって嫌われるのもなんだから、代わりに胴体ぶった斬ってる」
「そんな代わり聞いたことないや」
「というか、生身の女子に触るって意外とむずくないか? うっかり力加減間違えても再換装できないし」
「ボーダーの戦闘システムが生み出した悲しきモンスターみたいなこと言うのやめて」
若干、というのは訂正だ。どうやら相当、独自の交際を続けているようである。お互いにそれでいいのならおれが何かを言うことでもないけれど、様々な欲望を弧月の二振りに乗せられ、ぶつけられている名前さんには同情を禁じえない。
「ていうか太刀川さん、オレがS級になってからしばらくのあいだ、普通に同級の女の子たちと遊んでなかった?」
「あのときは腐ってたからな〜。あんまり深く考えてなかった」
「それ、名前さんの前で言わない方がいいよ」
奥手というわけでもないこの人が、本命に限って手を出しあぐねているのはなんだかおかしく思えた。ボーダーにおいて敵なしと謳われる太刀川慶にも勝てないものは当然あるのだ。もっともそれは本来、勝負ではないのだろうけれど。
「引っ越し頑張ってね」
「今の俺の未来は見るなよ」
おれは太刀川さんから前方の空へと目をそらし、はいはいと了解した。サイドエフェクトを使わなくとも、彼の思い描いているものはよくわかる。
*
引っ越し業者が家具と家電を運び込み、ダンボール箱を積み重ねたその横で、私たちは一息をつく。ベッドにシーツを敷き、冷蔵庫のコンセントを入れ、部屋の換気を行ったところでなんだか疲れてしまったのだ。
私は志望校に無事受かり、太刀川くんは今日のために荷造りをし、互いに新生活へ向けた準備を着々と進めていた。慣れないそれらは警戒区域でビルの高さほどある量産型ネイバーと戦うよりもよほど手間に思え、こうして一区切りがついたところで気が抜けてしまった。
「冷えてないけど茶飲むか」
「ペットボトル買っといてよかったね」
食器の入ったダンボール箱は一番下に入り込んでいる。冷蔵庫はまだ冷えておらず、とりいそぎ私たちのとれる休憩の手段は、ベッドの端に座り自動販売機で買った緑茶を飲むことくらいだった。
「いい部屋だね。学生にはもったいないくらい」
「補助金出るからな。他の一回生に知られたら溜まり場にされる」
ボーダーの資金繰りを一手に担う唐沢さんの手腕により、正隊員の一人暮らしには手当てがついた。優れた人材を本部の近くに住まわせることは組織の利益に直結するため、当然といえばそうなのだが、確かに一般の大学生と比べれば生活水準はだいぶ高いのだろう。
「荷解きしなきゃね」
「明日でいいだろ」
「明日は私、来られないよ。今日のうちにできるだけでも……」
深く腰かけていたベッドから、立ち上がろうと体勢を整えるも、太刀川くんの手のひらが私の手首にぐるりと回る。思わず横を見れば、彼はベッドに片膝を乗せたまま「明日でいい」ともう一度言った。
気付いたときにはキスをされていて、私は右手に持っていたペットボトルを床に落とす。蓋をしめておいてよかったと思いながら、その他のことはなにも考えられず、反射的に閉じたまぶたの裏に引っ越し屋さんのロゴマークばかりが浮かんだ。心の準備をしようにも彼に予備動作といったものはほとんどなかった。ただ一度触れ合った唇はすぐには離れず、私は自分がキスをしていることを長いキスの後半でようやく実感する。
とたんに息の温度が上がり、体内の熱を外へ逃がすために口を開けなければと思った。このままでは胸や腹のあたりからぐるぐると立ち昇った熱が頭にまで到達して、熱暴走を起こしそうだと思ったからだ。キスの最中に口を開けるということがどのようなことなのか、私にはわかっていなかった。
すぐにその意味を思い知らされ、太刀川くんの名前を呼ぼうとするも、声は上手に言葉にならず二人のあいだでくぐもるばかりだ。今まで一度だってこんな雰囲気にはならなかったというのに、生まれて初めてするキスにおいて、彼が私を甘やかす気配はまるでなかった。頭の後ろには手のひらがあり、背中には腕が回っている。退路などは一つもなく、指が耳を掠めるたびにどんどん力が抜けていく。
「半年我慢したんだ。いいよな」
どうやら、平衡感覚にも異常をきたしているようだった。三半規管が正常に働いていない。そうでなければ、彼の向こうに見えるのが天井であることに説明がつかない。敷いたばかりのボックスシーツが縒れるのではと、そればかりが気になって、私はシーツを握ることをためらった。そうして頭の端で反芻する。我慢。たしかに彼は我慢と言った。
「た……太刀川くんって、こういう欲求あったの」
「あるだろ。十八歳男子だぞ」
「欲求のぜんぶを戦いで発散してると思ってた」
「みんな俺のことなんだと思ってるんだ」
心外と言いたげな彼の質問に、私はなぜだかすんなりと返答できた。
「なにって……太刀川慶」
ボーダー隊員、太刀川慶は誰にとっても特別だ。最近はそれが少し、悔しい。
「なんだそれ」
太刀川くんは呆れたように、けれどどこか嬉しそうにため息をつき、私を覆う。そこから起こったすべてにおいて、私には少しの分もなかった。こんなものは負けしかない。まるで勝負になりはしない。勝ち負けでないとわかっていても、私はすべてに無条件降伏する気持ちでされるがままになっていた。
「あ、あ、ごめんなさい。こんなの」
「……なんで謝るんだよ」
「初めてなのに、こんなに気持ちよくて、恥ずかしい」
「……」
「信じて。ほんとに、初めてなのに」
太刀川くんの下で揺さぶられながら、わけもわからず曖昧な主張を繰り返す。何に対する言い訳かもわからないまま喘ぐ私に、太刀川くんは一言「それ以上かわいくなるのやめとけ」と呟いて私の頭に手をやった。間近で見るこの目つきを知っている。研ぎ澄まされた弧月の切っ先で、胸を貫かれるときにはいつも見ていた。
違うのは、彼もまた汗を浮かせていることだ。何度刃を合わせても、汗の一粒もかかず、息の一つも乱さなかった彼の顎から水滴が落ちることや、熱い息が零されることは、あるはずもない奇跡のように思えた。勝ち負けではないということがようやくすとんと胸に落ち、私は心地よさに身をまかせる。
手付かずのダンボール箱の隙間で、新しい何かが始まろうとしている。
誰にとっても特別である男の、それ以上を、どうやら私は知ってもいいようなのだ。