novel2

□03-wakakusa



 トイレに行きたくなって起き上がると、Tシャツ姿で布団の上に寝転んでいる太刀川くんの背中が目に入った。私は夢の内容を思い出すように数時間前のことを振り返り、少しだけカーテンをずらし、ベッドから降りる。
「体調は?」
 部屋へ戻れば、彼は目をこすりながら私を見上げた。
「もう平気。何か食べてもいい?」
「そこの袋にパンとかある」
 そう言って枕に顔を伏せた太刀川くんのもさもさとした後頭部を見ながら、私はソーセージパンを一つ電子レンジで温める。冷蔵庫のスポーツ飲料を半分ほど飲み、体の調子を確かめるように伸びをする。すぐさま冷房に当たり、水分補給をしたおかげか体調はすっかり回復し、思考も冴え、それがかえって私の心を苛んだ。時計は朝の六時を指している。昨日の出来事は一体なんだったのだろう。どう切り出し、何を聞けばいいのだろう。さっぱりわからないまま、再び寝息を立てはじめた恋人を見た。『太刀川くん、無事でした。』一文だけのメールを出水くんとチームメイトへ送り、そそくさと風呂場へ向かう。シャワーを浴び、その辺にほうられていた太刀川くんのTシャツを着て、リビングの椅子で悶々としているうちに目覚まし時計が鳴り響く。太刀川くんはのそのそと背を起こし、かすれた声を出した。
「今日、何曜日だっけ?」
「土曜だよ」
「……大学も防衛任務もないし、久しぶりに誰かつかまえるか」
 彼の言う「つかまえる」とは「個人戦ブースに引きずり込む」の意だ。久しぶりという言葉からここ数日の空白が浮き彫りになり、私は返答に迷った。太刀川くんが顔を洗い、朝食を食べ、筋トレを一セット終えるあいだ、私はぼんやりとローテーブルに腕を乗せていた。
「ほんとに大丈夫なのか?」
「なに、が」
「頭痛とか、めまいとか」
「ないよ。よく眠れたし、もう」
 平気、と言おうとして言葉に詰まる。体調を気遣ってくれることはありがたいけれど、聞くべきことは他にあるんじゃないだろうか。「ならいいんだけど」と言った太刀川くんは私の横に腰を下ろし、私の着ているシャツの裾を引っ張った。
「ちょっと目の毒だな」
 太刀川くんのTシャツは私が着れば太ももまで隠れるが、膝を立てれば下着が見えてしまう。ぼうっとしていた私はそんなことにも気づいていなかった。とっさに座り方を改め、話をそらす。
「か、課題ぶじ終わったんだってね」
「お〜。最後のやつとか三行くらいしか書いてないけど、全部揃えて出しに行っただけで学生課の先生泣いてたわ」
 それは何よりだが、どうしてすぐに教えてくれなかったのだろう。二日のあいだ、彼はどこで何をして、一緒にいた女の人は誰で、なぜこの部屋に呼ぼうとしていたのか。聞かなくとも答えは一つしかない気がしたが、悪びれない太刀川くんの態度を見ていると、熱に浮かされた私の見た幻覚だった気さえしてくる。
「おつかれさま。それで、ええと」
「まじでつかれたな。早く風間さんあたりにふっかけたい。でもその前に」
 太刀川くんは私の膝に手を乗せると、気だるげな瞼をわずかに細めた。
「おまえにふっかけていい?」
 答える前にキスをされ、膝から腿へ手が滑る。全部なかったことにして流されてしまいたいという欲望をなんとか堪え、私は唇の隙間で小さく「待って」と言った。
「何」
「何って……」
 私の指先はいつのまにか室温よりも冷えているというのに、彼の態度はいたっていつも通りである。
「太刀川くん、もしかしてだけど浮気した?」
 何を言えばいいかわからなくなった私は、かまをかけるでもなくストレートにそう聞いてしまった。イエスもノーも受け止める覚悟ができておらず、私はすぐに大声を出して耳を塞ぐか、すっとぼけて質問を取り下げたい気持ちになる。
「あー……」
 太刀川くんは私の肩に手を乗せたまま、斜め下へ視線をやりバツの悪そうな顔をした。
「課題出しに行ったら、よく知らんけど俺のことを知ってるっていう同級生に声かけられて、つい」
「つい?」
「なんていうかこう、開放感からテンションが上がってて、まあ」
 つい、まあ、の二文字で済ますつもりなのか、彼はその先を言わずに「悪い」と言った。慌てるか、ごまかすか、隠すかされれば私も感情的に追求できるというのに、彼はあっさりと浮気を認めてしまった。
「でも大丈夫だ。名前もよく知らんし、向こうもボーダーのファンってだけで俺が好きとかじゃないっぽい。一回限りのやつだと思う」
 目の前の男が何を言っているのか、意味はわかるが理解ができず、私は目をぐるぐると回したまま「そうなんだ」と頷きそうになる。
 もしかすると、もしかしなくとも、この男は貞操観念がものすごくゆるいのかもしれない。ようやくその事実に行き当たり、私は絶望的な気持ちになった。丸二日だ。名前も知らない同級生とやらに声をかけられてから二晩、香水がうつるほどのことをして、あげく自室にまで連れ込もうとしていたくせに、一体どのあたりが大丈夫だと言うのか。無言の私の感情を太刀川くんも理解できていないようで、彼は一度首を傾げたあと何事もなかったかのようにキスを続けた。これではだめだ。何がどうであるにせよ一度話をしなければいけない。
 私はなんとか理性を手繰りよせ、一旦、彼を制するために顔をそむける。立ち上がろうとベッドの端に手をかけるも動揺から力が入らず、かえって事態は悪化した。よろめいた私をシーツの上に押し倒し、太刀川くんはことを進める。
「待って」
「ん、あとで話す。でもその前に、一度やろうぜ」
 なんて酷いことを言うのだろう。そんな思いも、きっと彼には伝わっていない。太刀川くんはごく純粋に、ここ一週間の恋しさを埋め合わせるといった様子で私に触れ、首や胸にキスをした。私だって会いたかった。けれど今は少しだって触れてほしくない。
「やめて」
 短く言って、肩を押し返す。気恥ずかしさから身をよじるのとは全く異なる私の拒絶に、太刀川くんは動きを止めた。力を込めた手のひらが寒くもないのにぶるぶると震えている。泣いてしまいそうだと思ったときには目尻に涙が浮かんでいて、どうにかこぼさないように横を向いた。強く目を閉じて、唇を引き結び、頭から全身へ駆け巡っていく激情に耐える。この世で一番惨めな存在になった気がして、私は手の甲で顔を覆った。そんな私を見て、太刀川くんはようやく自分がまずいことをしていると気付いたようだった。
 下半身から重さが引いたため俯せになり、顔を隠す。声をあげて泣くのはどうしても嫌で、私はタオルケットに顔を埋め肩で大きく息をした。抑えようとしても、嗚咽はわずかにもれてしまう。涙はおかしいほどつぎつぎと溢れ、あんなに水分を取るんじゃなかったと思う。
 太刀川くんは私の名前を一度呼び、それから肩に触れた。私の体が大げさに震えたものだから、彼はそれ以上なにもできず、ただベッドの端に座っているしかないようだった。一人になりたいけれどここは彼の家だ。私は声を殺したままタオルケットがびしょびしょになるまで泣いて、それから緩慢に起き上がり、なんとか一言「かえる」と言った。声はばかみたいにかすれていた。
「帰るな」
 言っても無駄だとわかっているような声で、彼は一応そう言った。私はもう喋れそうになかったので、ただ首を横に振った。
「じゃあ、俺が出てくから。落ち着いてからタクシー呼んでくれ」
 彼の提案が妥当かどうかもわからなかったが、私はやっぱり声が出なかったので今度は首を縦に振る。太刀川くんはもう一度私に触れようとして、途中で諦め、スウェット姿のまま携帯だけを持って部屋を出た。
 私はようやく声を出して泣くことができ、十分ほど子どものように泣いてから顔を洗った。タオルケットを洗濯機に入れ、いつだか置いていった着替えを身につけて、彼の言った通りタクシーを呼ぶ。
 そうして三門市の中心部まで出ると、駅の付近で降りて街を歩いた。とても実家に帰る気分にはなれず、かといって泣きはらした顔を上げることもできず途方にくれる。携帯電話は入れただろうかと鞄の中を確認したところで、タイミングよく着信音が鳴り響いた。ティスプレイには頼れるシューターの名前が表示されていた。


「それで、そのまま解散したんですか?」
 三歳年下の高校生は、とがった目尻を呆れたように細めている。三歳年下の高校生にするべきでない相談をしながら、私も自分に呆れていた。
 出水くんは電話口で『太刀川さんのことですけど』と切り出したあと、私のあいづちが五秒以上なかった時点ですべてを悟ったというふうだった。天才肌の少年は日常においても勘がいい。『あー、いま駅前のコンビニいるんすけど、近くにいますよね』彼がそう言ったのは、私の背後で電気屋の呼び込み音声が鳴り響いていたためだと思う。
「解散というか、退散というか」
「なにそのまま帰らせてんだよ太刀川さん……」
 はばからず隊長に駄目出しをしながら、彼は私の奢ったファストフード店のシェイクを吸い上げた。出水くんのありがたい気遣いにより駅前で落ち合った私たちは、とりいそぎ座れる場所を確保して情報の共有をはかっていた。彼は「なんか嫌な予感したんですけど」と切り出してから、私の顔を確認し「予感じゃなかったみたいですね」と最短距離で話を着地させた。
「ごめんね。自分の隊長のこんな話、聞きたくないよね」
「まあ太刀川さんがプライベートで何しても、おれの心証はそんな変わらないんで」
 からりと言った出水くんの快活さに救われる。気を使っているのかもしれないし、本当にその通りなのかもしれない。一定以上の能力を持った人間同士の、一見ドライに見える強固な信頼関係が、本業以外の部分から崩されることはないという感覚はわからないでもない。
「で、浮気されたんですよね。というか相手の名前も知らずに二晩とか三晩って、なに考えてんすかね」
「……わからない。感覚もわからないし、太刀川くんの言ってることもよくわからない」
「なんか言い訳してたんですか?」
「言い訳はしてなかったよ。でも相手のことよく知らないし、好きじゃないから大丈夫だって」
 言葉にしてみれば改めて酷いもので、私が鼻をすする音と、出水くんがごくりとシェイクを飲み込む音が同時に響く。
「大丈夫ってなにが? 私は大丈夫じゃない」
「まあそれは……そうですよね」
 彼の貞操観念に照らせば、今回のことは隠すまでもないことらしい。私は手のひらを組み合わせ、彼の言動からその心情を読み解く。本気でなければ裏切りではないという考えならば、彼が私を好きなことと、その上で悪びれていないことは理屈としては矛盾しない。
「太刀川くんは、私がよく知らない人と寝ても大丈夫なのかな」
「いや、そういうことじゃないと思うけど」
 出水くんはくだけた口調で言いながらも、若干慌てているようだった。これ以上事態がややこしいことになればさすがに面倒だと思ったのか、それとも純粋に私を心配してか、困ったように手の中でカップを回している。
「……聞いてくれてありがとう。家に帰ってゆっくり考えることにするね」
「あんまり考えすぎない方がいいですよ。太刀川さん、たぶんあんまり考えてないんで」
「そうだね。あの人、自分の中の理屈がシンプルで安定してるから、言動に迷いがないんだよね」
 それは彼の美点であり、プライベートにおいては難点でもある。そう思ったらなんだか腑に落ちてしまい、私は呆れと愛しさと憎しみを同時に募らせた。人間性は尊敬しているし、能力にも惚れている。けれどそのだらしなさはいただけない。チームメイトであるならまだしも、恋人なのだから当然のことだ。
 後輩に手を振って、私は一つ息を吐く。電気屋から鳴り響く宣伝音声は普段であればうるさく感じるが、今日は内に向いた思考を散らしてくれるようでありがたかった。そうして、とあることに気づく。鬱屈とした人間が音の多い場所に行くのには、理由があるのだ。



 名前さんは目を赤くしたままやんわりと笑い「帰るね」と言った。心配でもあったし、同情もしていたし、これ以上こじれられては困るとも思っていた。うちの隊長が人間関係のトラブルで調子を崩す姿というのは想像がつかなかったけれど、うちの隊長も人間なのだからまったく影響がないこともないだろう。というよりも、そうであってほしいと思ったのだ。
 二人が付き合っていると知ったとき、おれはまだ中坊だったので純粋な羨望と、意外さからくる衝撃を受けた。太刀川さんにも特別に思う女の子がいて、その女の子とお付き合いをしていて、それだというのに彼は彼女の胴や腕をすぱすぱと嬉しそうに斬っていた。やっぱり太刀川さんの感覚は半端ねぇな、と笑ったことを覚えている。
 つまるところ、おれはこの二人の関係が好きだった。
『太刀川さん、今さっき名前さんと話しましたよ』
『振られるかもしれない』
『それはそうですよ』
 家路につきながら、おれは太刀川さんに電話をした。太刀川さんは率直な所感をこぼし、珍しく長い溜息をついた。おれはそれを聞いて少しほっとする。
『あいつなんか言ってた?』
『いろいろ言ってましたよ。というか一つ聞きますけど……太刀川さんは、名前さんがよく知らない男と寝ても大丈夫なんですか?』
『は? 大丈夫なわけないだろ』
『ですよね』
 あまりに勝手な言い分にまた少しほっとして、おれはやはり笑ってしまう。
『どこ行くって?』
『わかりません。家帰るって言ってたけど、多分帰ってないんじゃないですか』
 それだけ告げて通話を切った。三歳下の後輩からのアドバイスなんて望んでいないだろうと気を使ったつもりだけれど、切ったあとで太刀川さんにそういったタイプのプライドはないだろうなとも思った。もしかすると、怒っていると思われたかもしれない。今度会ったときに誤解をとこうと思う。もっとも今さら何があろうと、チームとしての関係性が崩れることはないという自信がある。組織における太刀川さんの振る舞いは、まったくもって恐ろしいほどに安定しているのだ。

2022_06_16


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