□02-sorairo
ランク戦の解説を頼まれたため、おれはB級中位のチーム戦績に目を通していた。
玉狛支部に思わぬ動きがあり、そこから波及したいくつかのごたごたにともなって、B級各隊はいつにも増して活気付いている。どのチームも策を凝らし連携を高め、生まれ持った能力だけに頼らないスリリングな交戦を繰り広げていた。
そんなログを観るたびに、自分の隊のシンプルさを再認識する。これは驕りではなく、どちらかというと驚きに近い。
うちのエースアタッカーは剣を振るうために生まれてきたような天才で、現代、もしくは二百年ほど前に生まれていなければどうなっていたかわからないような人だ。ネイバーのはびこるこの時代に、ピンポイントで生を受けたこと自体が彼の才能とも言える。
点数が上がるほど旨味が減り、リスクばかりが増すソロランキングにおいて常に二位以下を大きく引き離しているのだから、彼の勝ち数は計り知れない。きっと毎日三食ご飯を食べるような感覚で隊員の胴体を真っ二つにしているのだろう。
ポテンシャルありきの戦い方はおれも人のことを言えないため、今日はこうして生身のまま予定を入れたわけだけれど──。
「出水くんやん、調子どない」
「ぼちぼちっすよ」
まだ少し時間が余るなと思いながら、ボーダーの売店で間食用のコロッケパンを買っていると、背後から声をかけられた。防衛任務からちょうど上がったらしい生駒さんたちは、気さくさと気だるさと、隠しきれない抜け目なさを携えて休憩室のソファーに座っている。生真面目な隊員が多い中で、このようなゆるさを纏う隊は珍しい。個々の能力を思えば余裕の裏返しとも取れる態度にぞっとしないこともないけれど、おれは話しやすくて好きだった。
「イコさんはどうすか」
「俺もまあぼちぼちやな。今日も旋空でバンダー斬ったらその先の団地まで斬ってもうて、マリオちゃんに怒られてん」
「あそこは射線通すのに隠岐が重宝しとんねん」
「勘弁してやイコさん」
十六歳から十九歳までの隊員が階段のように五人集まり、和気藹々とつるんでいる生駒隊の雰囲気はとても良い。うちのような凸凹感もなければ、利権の絡んだ政治性もない。B級の上位をキープすることはこの組織においてある意味で一番過酷だ。それを長年続けるだけの強みが、この空気感に凝縮されている気がする。
「早くA級上がってきてくださいよ。おれも今の生駒隊とやってみたい」
「言うやん自分。次のラウンドで六点取る予定やから期待しといてや。水上が」
「俺なん?」
急に振られた水上さんは無茶振りに慣れているらしく、大して驚くこともなく隊長の言葉をいなしている。コロッケパンを開けながらソファーに座ると、イコさんは未開封のペットボトルをおれの前に一つ置いた。
「あっす」
「ええで」
今日は夜から柚宇さんと合成弾のシミュレーションをする予定だけれど、時間はまだあるし、時間があまるとやたら腹が減る。トリオン体に換装してしまえば空腹は紛れるけれど、換装するとつい戦いたくなってしまうため今日は私服でおとなしくしているつもりだ。
「せや、ランク戦といえば今度当たる千葉隊のアタッカーの子、最近かわいない?」
おれがコロッケパンをぱくついているあいだ、生駒隊員はいつもの調子で雑談をしていた。
「オールラウンダーの名字さん? よお見とるな隊長。髪切って雰囲気変わったもんなあ」
「そうそう。え、髪切ったっけ」
「そこは気付かんのかい」
はじめはのんきに聞いていたが、思わぬ方向に話題が向かったため口を挟む。
「ああダメっすよ、名前さんは太刀川さんの彼女なんで」
「ほんまに言うとる?」
常ににぎやかな生駒隊が、一瞬とはいえ水を打ったように静かになったのだから太刀川さんという人はすごい。どうすごいかは説明しづらいけれど。
「意外やなあ……太刀川さんそういうとこ目ざといの」
「目ざといというか、前からです。高校の頃からだからもう三年くらい付き合ってるんじゃないですか」
おれのこぼした追加情報に、先ほどよりもさらに深い沈黙が訪れたため、さすがに笑いそうになる。太刀川さんに彼女がいることもさることながら、それが長続きしていることは輪をかけて驚きであるようだ。太刀川さんはやはりすごい。すごいというかやばい。
「……太刀川さん、年単位で続けられることバトルの他にあったんやなあ」
「それは失礼やろ。あの人、毎年年始の挨拶行ったら餅ご馳走してくれんねんで。自動餅つき機持ちよるねん」
「本部で餅食べるの禁止されとんちゃうん?」
「きな粉餅だけやて。粉飛ぶから」
「あ〜きな粉でエラー出たら嫌やもんなあ」
同期の隠岐はおかしなところに納得しながら、サンバイザーで顔をあおいでいる。そんなゆるさに釣られ、つい口を滑らせる。
「まぁおれも正直、初めはすぐ別れると思ってました」
「バカおまえ、俺は一途な男だぞ」
生駒隊員の視線が背後に向けられていたことに気づかなかったのはおれのミスだ。食べ終わったパンの包みを思わずぐしゃりと握りながら振り返る。
「太刀川さんいつからいたんすか」
「いま」
とくに怒るでもなくそう言った我が隊長は、長いソファーの背を背後から乗り越えて隣に座った。
「おまえ今日、国近となんかやんだろ。そういうことは隊長の俺を通せよ」
「なんかっていっても、サラマンダーの誘導半径計算とかそういうやつですよ。太刀川さんが来ても楽しくないと思いますけど」
「まあわかった、じゃあ結果が出たら教えてくれ」
内容を知ったとたんにモチベーションが下がったらしい太刀川さんは、隊服の前をだらりと開けたまま背もたれに寄りかかる。
「太刀川さん、一途ってほんまなんですか」
話を戻したのは生駒隊長だった。そこまで食いつくことでもないと思うのだけど、生駒さんはそう思っていないらしく、真剣な目つきで太刀川さんを見据えている。
「本当だよ。名前とは入隊時期も近いし、かれこれ付き合い長いからな」
「そのわりには、心ないのかよって思うことたまにしますよね」
「例えば?」
珍しいメンバーと珍しい話題に面白くなってきたおれは、もらったペットボトルを開けながらつらつらと会話に混ざる。問い返した生駒さんはやはり鋭い目をしている。
「ボーダーのファンを名乗る素性の知れない女の人と浮気して、浮気はしたけどべつに好きじゃないしそもそも素性を知らないから大丈夫、って本人に言ったり」
「……やっぱ思春期にバトってばかりいると情操まともに育たんの?」
「傷つくこと言うな。世界中の軍人に失礼だぞ」
「傷ついたのは名字さんやと思うけど」
生駒さんと真織ちゃんに交互に詰められ、太刀川さんはだらけていた姿勢を若干正した。
「まあ俺にも、ちやほやされて浮かれてた時期は確かにある」
ボーダーにおける太刀川さんの躍進は、入隊当初から圧倒的なものであったらしい。一代限りと危ぶまれた旧ボーダーの正統派剣術を、中学生の少年が水を吸い上げるがごとく我が物にしていったことを思えば当然かもしれない。「太刀川隊の台頭は現ボーダー、ひいてはボーダーの規模を拡大した城戸さん派の在り方そのものを磐石にした」とは実力派エリートを名乗る、彼のライバルの言である。
「とにかくあいつは俺一筋だから、残念だったな」
「一途なん名字さんの方やんか」
「髪あれ似合ってるだろ、このまえ個人戦の最中バッサリ斬っちゃったとき、それ似合うぞって言ったら次の日切ってた」
「え、意味わからんカップルやん。こわ」
おれが一々つっこまなくなったことを細かくつっこんでくれる生駒さんに、多少胸がすく。太刀川さんはこんな調子だし、名前さんにしてもわりと謎だ。名前さん自身は極めて常識的に見えるけれど、こういう人を相手に何年間もありふれた付き合いをできることが謎なのだ。おれは一度だけ関わったことのある二人の破局の危機と、その顛末を思い出して腕を組んだ。この人は自分のやらかしを覚えているのだろうか。
「出水、個人戦やろうぜ」
「さっき言ったこと覚えてます?」
だめだこれは、と思いながらペットボトルを閉じる。こんな人でも有事の際には代えがたい存在なのだ。そのバグ性能と笑えるほどの偏りと、彼独自の真似できないバランス感覚のようなものが魅力であることは、おれにもなんとなくわかる。
「そうだった。じゃあ今日は生駒隊と総当たり戦だな」
「俺ら、いまさっき防衛任務から戻ったばかりなんですけど」
「俺から一本取れたらモテるコツを教えてやる」
「ほんまです? やりますわ」
「太刀川さん、名前さん以外からそんなにモテたことありましたっけ?」
おれのツッコミをよそに、個人戦ブースへと向かっていく生駒さんについていく隊員は案の定、誰もいない。遠ざかる二人だけが楽しそうである。
「やっぱ隊長ってあれくらい素っ頓狂じゃないとやってられないんですかね」
「わからんけど、お互い苦労するなあ」
ため息をついた隠岐の目は、しかし慈愛に満ちている。もしかして、おれもこんな目をしているのだろうか。名前さんのことを言えたものじゃないと顔を覆う。隊長というのはずるい生き物である。
*
十九歳の夏だった。警戒区域にはボーダーの四角い影がくっきりと落ち、日常と非日常の境目を浮き上がらせている。
戦闘員に転向してからの半年はあっという間に過ぎ、隊の成績は浮き沈みを繰り返しながらも右肩へ上がっていた。大学生になった私は説得に応じてくれた親のためにもと、学業と隊務を両立できるよう時間の使い方にシビアになった。目標を立て、予定を組み、こなしていくことは嫌いではない。
「大学生の夏ってのはいいな。なんせふた月も授業がない」
「それは太刀川くんが七月の後半からサボってたからでしょ。正確にはひと月半だよ」
太刀川くんは高校を卒業するとともに本部の近くで一人暮らしを始め、もとからマイペースな生活を自堕落すれすれの位置でキープしていた。ボーダーの計らいにより、十八歳を超えた隊員は希望に応じて基地の近くに住むことができる。補助金も出るため、相場よりも格段に良い環境で一人暮らしができることを喜ぶ隊員も多い。
「だらだらしてるわりに、部屋はわりと綺麗だよね」
「生活水準下げたくないからな〜。生きてくのに必要無いことはしないが、必要なことは結構ちゃんとやる」
本人の語る通り、太刀川くんは情報科学や社会環境論のレポートなんかは一向にやる気が出ないようだが、ゴミの分別や生活用品の買い出しや、最低限の料理、掃除なんかはわりかし手際よくやった。洗濯だけはなぜか気乗りがしないようで、脱ぎっぱなしのスウェットの下に靴下が隠れていたりもしたけれど、この部屋に遊びに来て、眉を顰めるほど室内が荒れていたことはまだない。そもそもボーダー本部にいる時間が他の隊員よりも極端に長いため、散らかるタイミングがないのだ。
「それは偉いけど、そろそろ課題も消化しないと九月入ってから困るよ」
「九月には遠征の予定が入ってるから、大学側も有耶無耶にしてくれるんじゃないか」
「と思うじゃん?」
私は彼のチームメイトの友人の口癖を真似しながら、シャーペンの消しゴム側を太刀川くんの鼻先に突きつけた。
「隊務の都合もあるし、他の生徒とタイミングはずれるかもしれないけど、きちんと課題は提出させてください、って忍田本部長が教授陣に言って回ってるらしいよ」
「まじかよ……とても俺の師匠とは思えない行動だな」
「どうして勤勉さは学べなかったんだろうね」
ため息をつきながらレジュメをめくる。前期のレポートではA評価がついた科目だが、後期は出席率が悪かったため、休み明けのテストで挽回したいと思っていた。
「真面目だね〜おまえは。少しリフレッシュしようぜ」
「ちゃんとやるのが一番楽なの」
「まじかよ……とても俺の彼女とは思えない発言だな」
すべてが自分を中心に回っているわけではないのだと、何度か言ったことがあるがあまり頭には残っていないようだ。私は一度腰を上げ、冷蔵庫から麦茶を注ぎ足し、よしと気合を入れ直す。産業倫理学の履修項目をノートパソコンのエディタに入力しながら、ローテーブルを挟んで向かい側に座っていたはずの太刀川くんがなぜ横へ移動したのだろう、と頭の端で思っているうちに、腰に手が回った。
「太刀川くん」
「何」
「何じゃなくて、私いま、産業倫理学のレポートを」
「そのピーターなんたらとかマズローのなんたらってのは、俺といちゃいちゃするより有益なことなのか?」
「……ゆ、有益か無益かで言えば、いちゃいちゃするよりは有益だと思うけど」
「ほーう、なかなか可愛くないな」
太刀川くんの体がじりじりと迫り、つられて私の体勢はおずおずと退がった。こんなときの太刀川くんは、弧月で私を突き刺すときと同じような顔をしている。
「休憩入れようぜ」
「太刀川くんは何もしてないでしょ」
フローリングの冷たさが二の腕にひんやりと触れ、少し部屋を冷やしすぎなのではと思う。
「ちょっと寒いと思ってるだろ」
「もしかしてわざと下げた?」
覆いかぶさる太刀川くんの熱はたしかに心地良いものだ。彼の体温は私よりいつも高い。生まれながらに胸の中心に携えた熱量を、溢れさすように私の上に注いでくる。太刀川くんの体は去年、自宅のソファーで見たときよりもだいぶ逞しくなっているようだ。私の肌はすでに汗ばみ、フローリングの冷たさが気持ち良く、すべては彼の手の内であるように思える。「暑いな」とこぼした彼の言葉に同意するように息を吐いた。早く、すべて脱がせてほしい。
*
去ったと思った真夏のピークが九月の半ばに舞い戻り、太陽光をたくわえた地面は容赦なく街を加熱した。こんな土地にはネイバーですら用はないのか、量産兵の出現数も減っている。予定されていたネイバーフットへの遠征は諸々の事情で延期となり、太刀川くんは見るからにエネルギーを持て余していた。
「だから、課題やっておいた方が良いって言ったじゃん」
「こうなってくるともはや何も手につかないな。どこからやっても終わる気がしない」
夏休み最終日の小学生のようなことを言いながら、彼は本部の作業室で椅子の背を軋ませている。
「一戦やろうぜ」
「やってる場合?」
「ストレスで死ぬ」
「本部長呼ぶよ」
「それはやめて」
誰にでも向き不向きはある。向いていないことをやらされるのは苦痛だろう。ボーダーに入っていなければ、もう少しゆるい進路をたどり最低限の学業で済ませていたかもしれないし、手に職でもつけて社会に出ていたのかもしれない。けれどこうして才覚を見出され、ボーダー推薦という形で大層な大学に入れられてしまった太刀川くんは、向いていない小難しい課題に追われ辟易としていた。
「要点さえつかめば最短で終わらせられるから。太刀川くん、勉強嫌いだけど頭の回転は速いでしょ」
「思考と神経の断絶を感じる……」
戦闘時における状況判断ともなれば自然と最善策を導き出せるというのに、どうして教科書を前にするとシナプスがぶちぶちに切れてしまうのだろう。不思議に思いながら励ませば、彼は大きくため息をついてパソコンを開いた。
「わかった。適当になんか書いて終わらせる。通らなかったら水上あたりに金を握らせる」
「高校生を買収しない」
そこまで気負わずとも、ボーダーのトップチームで活躍する彼のレポートに、厳しい目を向ける教授など三門市にはいないだろう。形だけでもこなせばいいのだ。主語と述語がある文章ならなんでもいい。数字を求められたら直感で埋めていい。私はそんなようなことをオブラートに包みながら告げ、せっかくやる気を出したのだからと彼を信頼し、自習室をあとにした。
それからの数日間、彼は本当に朝から晩までパソコンに向かっているようだった。いささか極端ではあるがやればできる人なのだ。評価はさておき、取り組んだという事実が残ればあとは本部がどうにかしてくれるだろう。
「太刀川さん、珍しく夏の課題間に合ったみたいですね」
「え?」
心の中で応援しながら、私は私で個人技を磨こうと、連日シミュレーションルームに引きこもること一週間。スパイダーの実用性を確かめるため近距離戦闘を得意とする隊員を探し歩いていたところ、背後から声をかけてきたのは太刀川隊の頼れるシューターだった。出水くんは顔をほころばせそう言った。
「終わったって言ってたの?」
「二日くらい前に、最後のレポート出しに行ったって言ってましたよ」
「そうなんだ」
無事に終わったのならそれでいい。けれど集中するからと言って連絡を絶った太刀川くんから、私の元にまだ報告は来ていない。出水くんもいぶかしく思ったのか「連絡ないんすか?」と小首を傾げた。一年前、私が戦闘員としてデビューしたころには同じくらいだった視線の高さが、今ではすっかり傾斜している。
「疲れ果てて倒れてるのかな」
「……」
慣れないことをして知恵熱を出したり、気力を使い果たして寝込んでいるのなら大変だ。心配になった私は、すぐさまトリオン体の換装を解き太刀川くんにメールを飛ばす。
「教えてくれてありがとね。ちょっと様子見てくる」
「あー、はい」
出水くんは何かを言いたそうにしていたけれど、結局私を呼び止めることなく手を振った。私は途中ですれ違った沢村さんに会釈をし「太刀川くん、課題提出できたみたいですよ」と報告する。沢村さんは驚きながらも笑顔を浮かべ「忍田本部長に伝えておくわね」と言ってくれた。
彼のアパートは縦に長い警戒区域の西側から、ほんの数百メートルの場所にある。安全地帯とはいえ住居はあまり多くなく、いざとなれば身一つで逃げられるような町工場や、業者の施設や、駐車場などの多い区画だ。本部へのアクセスを重視した彼らしい選択であるし、こうして訓練帰りに寄ることが楽なため、私としても助かっている。
「太刀川くん?」
チャイムを押しても反応はなく、キッチンの曇りガラスから光が漏れることもない。家へは帰らずに、すでに本部で誰かと個人戦でもしているのだろうか。課題を終えた開放感からハイになって数日暴れまわっている可能性はある。無事ならそれでいいのだが、どこかで行き倒れている可能性も否定し切れず、私は扉の前で返信を待った。
熱を持った廊下のコンクリートが、じりじりと足元から身体を火照らせていく。飲み物を買っておけばよかったと、柵に寄りかかりながら一時間ほど待つあいだ、届いたメールは出水くんとチームメイトからの返信のみだった。『個人戦ブースにはいないみたいですけど。おれからも連絡してみますね。』 『一回家に帰ったら? 夜になれば電話がくるよ。』二人はそれぞれまっとうな意見を送ってくれたけれど、この場所から離れて仕切り直すという余裕がどうにも生まれず、私はドアを眺め続けた。しばらく関わりを絶っていた分、会いたさばかりがつのっている。
西日が傾き、うなじがずいぶん焼けてしまったなと思ったとき、階段の下に人の気配を感じた。太刀川くんの声がする。それからもう一人、知らない女性の声も聞こえた。
「うわ、おまえいつから」
そこいるんだ、と太刀川くんが驚いて、階段の残りの数段を上ってくるのが見える。その腕に女性の手が添えられていることにどのような意味があるのか、暑さにやらせた私の頭では判断ができなかった。ただひたすらに気分が悪く、女性の履く細いヒールがコンクリートを打つ音が、だんだんと遠のくのを感じる。
「大丈夫か?」
そう聞かれてもよくわからない。虚脱感からしゃがみ込もうとした私の腕を掴み、太刀川くんは体を支えてくれた。甘い香水の匂いがして、めまいはどんどん加速する。「あーと、今日は帰ってもらえるか」「なにそれ〜」二人の会話はテレビ越しに聞く音声のようだ。そこからの記憶は曖昧で、私は気づけば彼の部屋のベッドで横になっていた。
「熱中症だな。病院行くか?」
「……大丈夫だと思う。もう一杯、麦茶もらえる?」
冷房の効いた部屋はかえって寒すぎるくらいだが、太刀川くんがタオルケットの上から羽毛布団をかけてくれたため私はその内側でじっとしていた。汗はとっくに引き、日に焼けたうなじだけが枕に触れてぴりぴりと痛む。
渡された麦茶を飲み干して、再び横になると急速な眠気におそわれた。ものごとを深く考えたくなかったからかもしれない。壁の方を向いて深く息をすると、意識はあっという間に閉じていく。外はもう薄暗いようだ。
太刀川くんは電気を消して私の肩を一度ぽんと叩き、ベッドを離れた。シャワーの音を聞きながら眠りにつく。嬉しそうに笑った沢村さんの顔を思い出し、無性に泣きたい気持ちになった。