novel2





 それは傘の色だ。
 傘の向こうの空であり、降りしきる雨であり、すべてが混じりあった重たい心の色でもあった。
 飽和したそれらはぐずぐずと滴って、足元に溜まりを作っている。溜まりはやがて深くなり、私の体は浸水し、彼女は傘を──。

「……嫌ってほど晴れたね」
「あんたがいるからかもね」
 草むらの上に傘を放った家入硝子は、高台の端で空を見た。降水確率は九十パーセントを超え、所によっては雷も伴うとの予報を受けた私たちは、しかるべき準備をして出発したのだ。けれど結果はこの有様である。
「まあ降られるよりはいいけど。このパターンにももう慣れたよ」
 硝子の言うとおり、私は出先で雨に降られることが極端に少ない人間だった。晴れ女とでも呼ぶべきその確率に、彼女を巻き込むことも多い。気候のいい時期ならいいが、真夏となればそれは一概に長所とは言えなかった。硝子は半日太陽の下にいても変わることのない青白い肌をコンクリートの上で光らせながら、街を見下ろしている。悪天候を見越して早めに動いた私たちは、午前のうちにあらかたの仕事を終えていた。
 祓呪の任務以外にも、呪術師の仕事は多くある。高専を卒業して一年。互いに進路は定まりつつあったが、業界の慢性的な人手不足が解消されることはなく、今日もこうして現場へと赴いていた。本来、補助監督や窓の担うフィールドワークに、呪術師自ら足を運ぶことも珍しくはない。
「でもやっぱり、硝子は待ってた方が良かったんじゃない? 学長に知られたら怒られるよ」
「いいのいいの。私だってたまには息抜きしたいし」
「息抜きじゃなくて調査だけど」
 稀少な術式を持つ彼女が、現場から遠ざけられるようになったのは高専の三年次あたりからだった。怪我人の治療や死人の解剖を主な仕事とするようになってから、彼女の血色はみるみると失せた。それ故かはわからないが、彼女は時おり私と一緒に現場へと出たがった。本来であれば諌めるべき行動だが、こうして明るい日の下へ連れ出しでもしなければ、いつか指の先から血の気が引いて解剖室の薄暗い壁に溶け込んでしまうのではないかという恐怖から、私も彼女の同行を許してしまうのだ。
「最近は、休日も誘ってくれなくなったしね」
「それは……」
 学生寮で生活を共にしていたときとは違い、私から声をかけることも近頃はめっきり減った。互いの部屋を訪れることもなく、何気なく触れ合うことも、近くで目を見ることも、口からこぼれる意味深な愛の言葉に笑い合うことも、なくなっていた。
 学生の頃──私たちは日常の中で冗談のように愛をささやき、耐えきれずふきだしては、それを二人だけの蕩けるような娯楽としてどこまでも純真に無邪気に、互いを愛で合っていた。命をかけた学生時代のただ中で、その瞬間がどれだけ大切なものであったか、今さら口に出して説明することはできない。
 けれどこうして時が経ち、人が流れ、心が変わったのなら、やはり言葉にしなければならないのだ。空は嫌になるほどよく晴れている。別れ話にはもってこいの天気だ。
「いつから?」
「……一年前」
 私は硝子の質問にそう返し、彼女と同じように街を見た。先手を打たれてしまえば、もう隠せる道理はなかった。
「卒業するちょっと前に、私が単独で出向いた任務があったでしょう。その現場に彼が居合わせて、少し話した」
「それで?」
「連絡を、取り合うように」
 腕を乗せた鉄の柵はじんじんと熱をもっている。私の肌は今日一日でずいぶんと焼けたようだ。カチリと聞き慣れた音がして、煙の匂いが漂った。
「大したもんだね。全然気づかなかった」
 煙草をやんわりと唇で食みながら、硝子はワントーン声を下げた。私は目を細めてその息遣いを感じとる。彼女の部屋の匂いだ。知らない街の知らない高台の上で、よく知るそれを思い出す。
「会ったのは数度。……寝てないよ。これは本当」
「じゃあどれが嘘?」
「他は、全部」
 卒業とともに誓った言葉も、交わした約束も、混じり気のない本心かと問われれば否だ。偶然か必然か、彼と再会し感化されてしまった私は自分の本音がわからなくなった。今だってそうだ。照りつける太陽とは裏腹に、私の耳には雨音が聞こえている。ざあざあと鳴って頭をかき乱す。冷たい水が心を浸していく。胸のあたりまで溜まった何かが、肺を圧迫して息が切れる。
「名前といるときはいつも晴れてるのに、思い出すのはなぜか雨の日だよ」
 そう小さく呟いた硝子の声に、私は思わず横を見た。同じ心象風景を抱いていることに驚いて、すぐに気づく。
 正しく言えば、それは心象風景などではない。実際に起きた過去の出来事だ。高専に入学して数ヶ月が経った頃、私は請け負った任務先であっさりと致命傷を負い、死にかけた。雨のせいで視界が鈍ったなどと言い訳をするのも馬鹿らしくなるほど、あっさりとした終わり方だった。くすんだ青が視界を覆い、曇天と水たまりと、頬を打つ雨粒の中でだくだくと血を流しながら──私は彼女を見上げたのだ。
 硝子はさしていた傘をその場へ落とし、私に近寄ると腹に空いた穴の上に手を置いた。
「逝かせないよ」
 その日から私の体と心に、彼女の冷たい指先の温度が染みている。雨の日も晴れの日も、目を瞑ればいつも青があった。私は彼女の目を見つめ、彼女は私に愛をささやいた。寂しくも幸せで、欠けているのに満ち足りて、まるで不条理な青春そのもののような日々だった。
「硝子、私はもう限界だよ。とっくに無理だった」
 けれど私の心には、同時に別のものが降り積もっていた。そのことに気づいたのは後輩が死に、同期が倒れ、友人が姿を消したあとだった。
 仕方がないと諦めていたこの世界の構造に、風穴を空けた人物がいた。彼は呪術師の一部が、もしくは多くが、秘めるように心の奥で燻らせていた鬱憤や焦燥に、真正面から火を放ち、行方をくらませた。あのときに焼けた心の端が、今でも火傷の痕のように疼くのだ。雨の冷たさでは、もうごまかせないくらいに。
「本当はあのとき、夏油くんについて行きたかった」
「行けばよかったじゃん。止めなかったよ」
「だからだよ」
 矛盾しているようだが、目の前にいる彼女への恋情だけが、私の体をその場所につなぎとめた。誰もが未曾有の事態の中で選択を迫られ、明確な答えを出し切れなかった。私がどのような決断をしたとしても彼女が止めないことはわかっていた。
「私が向こう側を選んでも、きっと硝子は止めないし、咎めなかった。きっと今だってそうでしょう」
 彼女は私を尊重する。たとえ離れることになったとしても、私から手を離す。私はもう痕すら残っていない腹の穴の上に手を当てて、流れ込んだ彼女の術式を思い出した。私の青春。群青の記憶。
「舐めてんの?」
 一瞬とらわれていた白昼夢から、現実へと目を戻したときには彼女の華奢な体に迫られていた。高台の柵を背にして、硝子の顔を間近に見る。
「笑わすなって。逃がすとしたら、あの日が最後だよ」
 硝子は手にしていた煙草を私のすぐ横の鉄柵に押し付けると、強くひねり火を消した。
「あんたは私を選んだんだ。それがたとえ愛じゃなくて恩だとしても」
 そうして、腹に添えていた私の手をじっと見る。
「今さら旧友なんかに渡すと思う?」
 私は彼女の思わぬ激情に驚きながら、小さく首を振った。私は愛の話でも恩の話でもなく、世界の話をしているつもりだった。大切な人が次々と死に、そうでない人たちが生きながらえ、術師が身を削り、非術師がのびのびと手足を伸ばす、この地獄のような世界の話を。
「硝子、私は私たちの話をしてるんじゃないよ。世界の仕組みに押しつぶされそうで、もう息ができないんだ」
「世界? 私の世界はとっくに名前だ」
 下を向いた硝子は泣いているようにも見えた。背丈の近い私たちはどちらかが顔を伏せるとその表情を追えなくなる。キスをするには便利だけれど、近すぎても見えなくなるものがあるのだ。
「いつでも馬鹿みたいに晴れやかな顔してるくせに、そうして雨の日の子どもみたいな目で私を見る──」
「硝子」
「あんたが私の世界を回してるんだよ。そんな世界じゃ不満?」
 その言葉を聞いたとき、私の中で天秤が傾いて、彼女一人と、その他のすべてが釣り合った。ぴたりと止まったそれは彼女の指先が腹に触れたとたん、また少しだけ傾く。
 それが駄目押しだった。
 他のすべてに絶望しても、この世が地獄であったとしても、この指があれば。
「何度でも、救われるんだね」
「こう見えて執念深いからね」
 いかせない、と呟いた硝子の声に、今度は現実の雨音が重なった。辺りは晴れているのに、どこからか雨が降り注いでいる。明るい空の下、冷たい水に濡れながら、私は思う。あの日から、とっくに私のすべては彼女のものだったのかもしれない。それは決して恩ではなく、愛の話として。
「あーあ。夏油くんに怒られるな」
「あいつ昔からあんたのこと狙ってんだよ。やることがせこい」
 彼女はそう言うと、私のポケットから携帯電話を抜き取った。そして何らかの文章を誰かしらに送りつけ、ぱたりと閉じる。
 誰もが選択を迫られて、どこにも明確な答えはない。それは今も同じだ。けれど退路を絶たれてしまった。他の道にはいかせないと、彼女の手により潔く。
 私は草むらに投げやられた彼女の傘を拾い上げ、空に向かって開いた。
 それは傘の青だ。空の青であり、雨の青だ。すべてが混じり合った心は重たくも軽くもなく、彼女との間にふんわりと浮かんでいた。どちらからともなく愛を囁き、堪えきれず笑う。
 ちょうどいい高さのキスをして、雨の中、晴れの中、私たちはいつまでも肩を揺らした。


家入硝子 / テーマカラー 群青
彩れ世界、あたしは色鉛筆 提出

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