novel2







Ticket to ride


 大学内というのは広いようで、生徒の行き交う流れが学部別にある程度決まっているため、知り合いとのニアミス率も高い。部屋に来たあの日からほとんど話すことのなくなった彼女は、さりげなく、うまい具合に俺を避けながらも、偶然会った時には自然な笑顔で一言二言、会話をしてくれる。本当に見上げたものだと思う。しかしそれに甘えていてはいけないのだろう。無用な気を使わせないよう、無駄な期待をさせないよう、俺なりに気をつけて生活していた。
「着替える前に食わね」
「そっすね」
 そして、あまり会いたくない人物がもう一人。
 午後の実技の前に腹ごしらえをしようと、学科の先輩や同期数人で学食へ入ると、サッカー部のやつらが正面のテーブルを囲んでいた。ゲ、と思い一つ奥のテーブルまで足を進める。あからさまに避けるのもどうかと思うが、わざわざ彼の横に座ってラーメンをすする理由もないため、戦略的回避を選んだまでだ。今回は向こうもこちらに気付いたようだったが、俺がこの大学にいることなどとっくに知っているのか、彼は大して興味も示さずに友達と話を続けていた。
「及川今日みそラーメン?」
「そ。鶴谷くんがよく食べてるからつられるんだよね」
「俺は塩だけどな。ていうか酢入れすぎじゃね?」
「限界まで入れるのがトレンドなんだよ。知らないの?」
 同期とくだらない会話をしながら、力任せにラーメンをすする。体のでかい連中が猫背になって必死に腹を満たす光景はなかなかのものだ。バレー部の連中というのは集まるとやたら場所をとる。六人掛けの長机をぐるりと取り囲むと、どうにも狭くてしょうがない。そのうえウィングスパイカーの鶴谷くんは妙に動きがでかいため、よく後ろを通る人とぶつかった。前に一度背後からサバの味噌煮をぶっかけられた時にはさすがの俺もキレた。ポジションが同じでも、岩ちゃんとはまったく違うタイプだ。
 そんなやりとりを正面から眺めていた先輩が、ふいに口を開く。
「お前、名字となんかあんの?」
 突然のピンポイント狙撃に、俺は麺をふきだしそうになった。少しお酢を入れすぎたかもしれない。しかしなぜいま、名字さんの名前が出てくるのだろうか。知り合い? エスパー? 俺は無意識に彼女の名前をつぶやくほど患ってしまっているのか。
「いや、エ?」
「あいつ、千葉から出てんだよ。サッカー推薦で。地元同じだった」
 ポンコツになっていた俺の頭は会話の流れがうまく掴めず、アホのような顔をしてしまう。空いた隙間にパズルをはめるよう情報のかけらをくるくると回し、落ち着くために一度お茶を飲んだ。ハァイ落ちついて俺。俺は自分しか知らない秘密を大切に匿うようドギマギと心臓を整えてから、少しだけ声のトーンを落とした。
「あの、その名字くんって……結婚してないですよね?」
「はあ? 知らねーけどまだ十九とかだろ」
「年下だったんだ。それってつまり、」
 ようやく常態の思考回路を取り戻した俺は、訝しがる先輩を横目に彼のほうを見た。言われてみれば体はでかいがまだあどけなさの残る顔立ちをしている。残りのラーメンを無心ですすり、なにかをしきりに尋ねてくる鶴谷くんの声を聞き流しながら数分。エネルギーを補給した男たちが肩を回しながら椅子を引くのに合わせ、俺もふわふわと立ち上がる。ちょうどのタイミングで食器返却口に来ていたサッカー部の背後に並び、すれ違いざま、声をかけた。
「お姉さん、その後どう?」
 我ながら腹の立つ笑顔を浮かべていたと思う。
「……なんともないッスよ」
 相変わらず敵意むき出しといった顔で俺を睨みながら、彼は小さく答えた。こんなにも友好的な態度をとっているというのに失礼な奴だ。けれどもうなんだっていい。
「それはよかった」
「あんたチャラチャラしてんの知ってっから、引っ越そうか考えてるトコだと思いますね」
 それはお前の意見だろう、と思ったが言わずにおく。とにもかくにも、ここ最近とらわれていた悩みから一気に解き放たれた俺は、浮き足立つテンションをおさえるので必死だった。弟か。弟だ。弟なら、なんの遠慮をする必要もない。
「姉弟でルームシェアかあ、仲良いね」
「関係ないッスよ。そっちこそ、彼女さんお元気ですか、オイカワさん」
 牽制するように薄く笑われ、気のせいじゃなく、コイツいい性格しているなと思う。
「彼女ね、彼女はいないんだよね」
「は? カワイイ彼女さんと一緒だったって聞きましたけど」
「やだな〜姉弟で俺の話してくれてるの? 照れるなあ」
「マジでチャラいなあんた! ぜってーこっち来んなよ!」
 こっちってどっちだ、小学生か、と思いつつニコニコする顔を抑えられずにいると、食堂の入り口から先輩に「はよしろ」と呼ばれた。じゃあネ、と手を振り背を向ける。背後から突き刺さる動物のような気迫に、体育会系の男はこれだから困ると思ったが、俺も人のことは言えないのだろう。
「お前、あんま他の部のやつと揉めんなよ」
「揉めてないですよ。仲良くしたいと思ってます」
「その胡散臭さで言われてもな」
 先輩は呆れながら頭をかいた。無害そうな顔をしているが、俺に東京での遊び方を教えてくれたのは全てこの人だ。健全なものからちょっと悪い遊びまで、一通りのことを伝授したあと彼は「お前、意外とチャラくないな、こういうの向いてないかも」とバッサリ言い放った。自分が意外と奥手なことくらい知っている。それでも遊びは楽しかったし、たまに弾ける分には俺だってうまくノれる。家でプロ野球を見ながら一人で筋トレしている方が楽しいと思うときもあるけれど、せっかく東京に住んでいるのだからそれなりの体験をしてみたい。
「今日飲み行くか?」
「いや、今日はすぐ帰ります」
「お前狙いだった子、慰めていい?」
「おまかせします。でも遊びならやめて。いい子だから」
「了解」
 そんな会話をしながら、もう一度肩をぐるぐると回した。今日はいち早く帰って、べつになにをする訳でもないけれど、あの部屋にいたいと思った。自分でも気持ち悪いとは思う。東京に来てわかったこと。俺は意外と奥手だし、むっつりだということ。わりとロマンチストで、ヘタレだということ。その全てを知ってほしいと思える女の子が、隣の部屋に住んでいる。誰が落ち着いていられるというのか。
 そこまで考えたところで、姉の部屋の隣にこんな男が暮らしている弟くんの心中を察した。申し訳ない。けれど止まらないのだ。



「あ……おかえりなさい」
 なにをするでもなく、とは言ったものの、こうして偶然が味方をしてくれるのなら話はべつだ。初夏の虫がしーしーと心を逸らせる五月の夜、湿気をおびた空気のなかに彼女の声が響く。コンビニにでも行っていたのだろうか。アパートの階段下で鉢合わせた俺たちはどちらからともなく曖昧な笑顔をつくった。
「ど、うも」
「こんな時間まで部活ですか?」
「今日は早い方です」
 彼女と一緒に階段を上るのは、彼女がここで九死に一生を得たとき以来だった。今日は歩きやすそうなフラットシューズを履いている。もうどこも不自由はないようだ。
「……弟くんは、まだ部活?」
「あ、会いました? なんか同じ大学みたいで、びっくりですよね」
「うん、驚いた」
 彼の俺に対する心証を知ってか知らずか、彼女は呑気に言う。
「今日はどうだろう。一緒に住んでるわけじゃないんですよ」
「そうなの?」
「足悪くしてた時だけ、来てくれてて」
「ああ、お姉さん想いですねえ」
「心配してるみたいで」
 何をだろう。階段から転げ落ちたりしないようにだろうか。それとも隣の部屋の男に、そんな怪我をきっかけにうまく付け入られないようにだろうか。心配する気持ちは痛いほどわかるが、どちらも少しばかり遅い。二人して階段を上りきったところで、俺は今日昼間から上がり続けている運気がここへきて最高潮に達した気がして、いてもたってもいられなくなった。
「あのっ」
「はい」
「この前ここで」
「……」
「会った女の子だけど、彼女じゃないから」
「……あ、はい、そうなんですね?」
「……聞いてないよね」
 誰に対する言い訳だかもわからないまま、聞かれてもいないことを口走る俺は相当危ない男かもしれない。けれどどうにも止まらない。このプレイが決まれば後の流れはついてくる、そんな瞬間がスポーツにもあって、俺はそれを読むのが得意だった。問題は恋愛に対する経験値が、バレーと比べて大きく下回っていることだ。
「でも、聞いて」
「……はい」
「聞いてほしかったんだよね。あと、昆布、昆布の使い方。いい昆布の使い方を」
「はい」
「知りたくて」
 顔が赤いのが自分でもわかるし、自分が何を言っているのかはまったくわからない。けれど彼女はそんな俺の支離滅裂な言葉に対し、もう一度やさしく「はい」と返事をし、笑った。好きだ。もう、ものすごく好きだった。胸がつまってそれ以上何も言えない俺を横目に、名字さんは部屋の鍵を回す。
「よかったら、食べて行きますか」
「……」
「実家から送られてきた謎のジュースも、なかなか減らないし」
 俺は背筋をピンと伸ばし、出ない声の代わりに、大きく一度頷いた。
 とてもいい頷きだったと思う。ガキのような顔をしていたかもしれない。カチャリとドアの開く音がして、見慣れたはずの間取りが目に入る。しかしそこはめくるめく別世界だ。こっちくんな、と言った弟くんの言葉を思い出しながらも、俺は彼女の領域に足を踏み入れた。悪いが、もう留まることはできない。ここを過ぎれば試合は俺のものになると知っているからだ。

2016.4.20

- ナノ -