novel2







Ticket to ride


 月が替わり、ジャケットがいらなくなり、新生活のざわめきも少し落ち着いてきたように思う。

「綺麗にしてるね」
 彼女はそう言って床のビーズクッションを抱きしめた。生活用品はキャンパスラックに詰めたし、仕送りの段ボールはクローゼットに追いやった。畳での生活が長かったため床に物を置く癖がついてしまっているが、大掃除を終えたいま転がっているのはバレーボールとクッションだけだ。よく頑張ったと思う。
「がんばって片付けた」
「気にしないのに」
 月末の飲み会で自宅デートを約束した彼女だが、まだちゃんと付き合っているわけではない。一度気分がガックリ落ちたあの日からどうにもテンションが上がらないのだけれど、体のコンディションはすこぶるいいため、試合の出来も上々だった。打ち上げは大層盛り上がり、俺と彼女の距離もくっついていないのが不思議なくらい縮まった。しかし──。
「それ、実家から唯一持ってきたもの」
「クッション?」
「そう。寝れない時かかえんの」
「女子じゃん!」
 好みの女の子がウェルカムな状態で自分の部屋にいるというのに、驚くほどそんな気分になれず、俺はあたりさわりのない話題ばかりを探していた。こうして女の子と何気ないおしゃべりをしているのが好きな俺は、実のところそんなにガッつくのが得意じゃない。付き合っていないのならなおさらだ。教室と変わらない距離感で、一緒に買ったデパ地下スイーツをほおばり、バラエティ番組に茶々を入れる。本来なら俺から何かしらの行動を起こしたり、言葉を発さなければいけないのかもしれない。けれどこの部屋で、これより先へ踏み出すことはなんだか不可能のように思えた。
 俺を好きなのだろう彼女に恥をかかせるようで申し訳ないが、下品な言い方をさせてもらえば、壁の向こうに名字さんが暮らしているという事実を思うと精神が勃起不全になってしまうのだから仕方ない。彼女はそんな俺の態度が期待はずれだったのか、後半は少し怒っていたようだった。
「そろそろ帰るね」
「うん。駅までいく」
「いーよ、そこまでで」
 空気を読んでか、早めに立ち上がった彼女に心の中で詫びながら、部屋の鍵を握る。外に出ると、凝り固まっていた体の筋にじわりと酸素がいきわたり、柄にもなく強張っていたのだと気づく。俺の前を行く彼女のヒールを聞きながら、せめて駅までちゃんと送ろうと思った。きっと彼女はもうここへ来ない。
 薄暗いアパートの廊下に明かりがともり、ふと顔を上げた時だった。階段から上ってきた名字さんが、体を斜めにして俺たちをよけ、スーパーのビニールがしゃんと鳴る。名字さんは彼女の後ろにいるのが俺だと気づくと、少しだけ静止し、それから何気ない笑顔で会釈をした。俺もつられて頭を下げる。心臓をつねられたような気分だった。べつに俺が名字さんに遠慮をする理由は何一つない。女の子を連れ込んでいるところを見られたってどうということもない。あまりのどうということもなさに、逆に胸が痛むほどだ。
「ほんとに、ここでいいよ。まだ早いし」
 いつもどおりの笑顔をなんとか探しあてたという顔で、彼女が振り返ったのを見てようやく、俺は彼女が怒っているのではなく俺と同じように緊張して、そして傷ついているのだと気づいた。最低だな、と思う。
「うん。気をつけてね」
「また応援行く」
「ありがと」
 顔の横で手を振って、彼女が見えなくなったところでわしわしと頭をかく。うあー、と情けない声を上げたかったがなんとか堪え、かわりにため息をついた。このまま走りに行こうかとも考えたけれど、スニーカー以外でコンクリートを踏むのは足に悪いためやめた。今日はおとなしくビーズクッションを抱いて眠るしかない。初夏用の薄がけ布団を出そうと思った。


 
 体の調子はやはりいい。
 早朝のランニングを終え、むだに冴え渡った五感のままで大学へ向かう。大教室の中ほどに座り教授の声に耳を傾けていると、隣の席に同期の鶴谷くんが移動してきて、物言いたげに俺の顔を見た。無視を決め込みながらノートをとる。運動生理学の授業はためになるので、時間をつぶしている暇はない。
「及川」
「……」
「なんで無視。寂しいだろ」
「……授業中デース」
 小さく返せば、ふてくされたのか鶴谷くんはしばらくのあいだ無言になり、そのあと俺のノートにシャーペンを走らせた。女子高校生か。
『あの後どうなった?』
 問いかけはおそらく、昨日のお部屋デートの成果に対してだろう。俺はそのまま無視を貫こうかとも思ったけれど、彼は意外と本気で傷ついて泣きながらラーメンにゴマを振り続けたりする繊細なところがあるため、仕方なしにシャーペンの先を移動した。質問の下に、大きく×印を書く。
「マ!」
『ジで?』一言大きな声を発してから、彼が尚も筆談を続けたため、なんだかバカらしくなってくる。
『マジですよ なんかダメだった』
『マジかよ〜〜』
『うれしそうだね』
 まさかと首を振りつつも素直な男だ。口角をにんまりと上げながら俺に同情の視線を向けている。彼が思っている失敗とはおそらく別のものだけれど、それなりにヘコんではいたため甘んじて同情を受け止めた。そうこうしているうちに授業は終了間際になっており、筆記用具をまとめる音や伸びをするうめき声が大教室に満ちはじめる。この授業は全専攻生がとれるため、人が多く学年も幅広い。
「学食行くっしょ?」
「行く〜今日のA定なにかな」
 こんな時は、定食のご飯を大盛りにして無理にでもテンションを上げるしかない。腑抜けた声で返事をし、ノートとプリントをクラッチバッグに突っ込んでひと息──。
 ふいに上げた顔の先に、知らないようで知っている男の姿を見つけ、思わずさきほどの鶴谷くんのように声をあげそうになる。
 どうにか堪え、全身から吹き出そうになる剣呑な気配をひっこめながら、さりげなく彼を観察する。スパイクが入っているのだろうミズノのシューズ袋、おそらくあれはサッカー専攻生だ。背中を見せるのが嫌だったため、彼が教室を出て行ってようやく、俺は座席を抜け出る。
「……なんだよ!? いきなりケモノみたいな顔して」
「ケモノて……べつに。ちょっとやな奴に会っただけ」
 横で唖然としていた鶴谷くんにごめんごめんと謝りながら、クラッチバッグをぎゅうぎゅうと握りしめた。忘れるはずもない、あの顔は彼女の、名字さんの部屋の玄関で見た男のものだ。同世代だし似たような匂いを感じるとは思っていたが、まさか同じ大学の学部生だとは思いもよらない。なんだか近頃、こんなイレギュラーばかりだ。
 春に始まる人間関係の類で悩むことなど、かれこれ中学ぶりである。クソ生意気な後輩に対する苛立ちとは違う、浮ついた生臭い倦怠感に、本当に自分が発情期のケモノになったような気がして嫌になる。かなわぬ横恋慕で疲弊するなんて俺らしくない。そう思っても、生活範囲にちらつく名字名前の影が俺の男性ホルモンをだくだくと絞り出すのだ。
「A定大盛りで!」
 そんなあさましい欲求を白米でまるめこんで、胃の中へ呑みくだす。良いガタイをしていると思ったし、日に焼けた肌はたしかにスポーツマンのそれだった。あの見た目で華麗にゴールなど決められたらそりゃ女子ウケもいいだろう。スポーツの花形であるサッカーという競技に敵愾心を抱いているわけではないが、思わずケッとやさぐれたくなった。
「だからなんなのさっきから! 俺? 俺なんかした?」
 隣の席で、混乱した鶴谷くんがラーメンにゴマを振り続けている。彼のせいではないけれど、その様子が面白かったので横目でじっと観察した。考えてみれば高校時代、俺は同級生からもっぱらいじられる側であった。場所が変わればこんなふうにポジションだって変わったりする。かわいければ誰でもいいと思っていたカノジョだって、今では贅沢にも、なんか違うと思いはじめている。
 二十歳過ぎの変革期。なりふり構わずこの恋愛と向き合うか、いさぎよく身を引くか、どちらが自分に対する言い訳が少なくて済むのかと考えながら「そろそろゴマ貸して」と呟いた。

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