初めはテレビを観ているような感覚だった。参考資料の一部としてスポーツ中継や雑誌を眺めることはよくあったし、一般人よりも骨格や筋肉がしっかりとした彼らの肉体はデッサンによく向いていた。単純に美しいと思い、紙の上でそれをなぞりたいと思ったのだ。
なので友人の誘いで体育館へおもむいたときそれ以上の他意はなく、私は小さなクロッキー帳を片手にしながら、なんだか懐かしい、ハッカみたいな匂いがするな、なんて思っていた。
しかし呑気にしていられたのは初めのうちだけだった。いつも教室でたわいのない話をしている男の子たちは、鍛えあげられた体を意のままに操り、悠然と体育館の床を鳴らしていた。これはいいと感動し、私は彼らの動きや、体の使い方、ちょっとした足腰の捻り、膝や手首の角度などを目に焼き付けた。たまにこっそり写真も撮ったりした。本当はその場で描きたかったけれど、さすがにそれは恥ずかしくじっと見つめてばかりいたため、端から見れば年季の入ったファンのようだったかもしれない。
そんな思いで体育館へ通っているうちに、どうしてもわくのが愛着というものだ。遅くまで汗水を流す彼らの行く末が気になって、つい試合を観に行ってしまったのだ。プロアマ問わずバレーボールが好きなのだという友人と一緒に、夏の公式戦を観戦してからはもう、とてもテレビの中のことのようには思えず、またバレーボールという競技と彼らの肉体を切り離すこともできなくなっていた。なにしろ胸に迫る勝負を繰り広げている彼らは、私と同じ教室にいる生徒たちなのだ。日々練習を重ね、勝ったり負けたり、泣いたり笑ったりしながら真摯にボールを追いつづけている。それは単純な造形美を超えたうつくしさだ。私はいつの間にか「美しい体」でなく「彼らの体」を描きたくなっていた。
そんなふうにして、同級生に強い憧憬を抱くようになってから数ヶ月。教室にいるときの彼らは相変わらず別人のようで、ふだんからあまり男子と話さない私は彼らを一方的に観察し、描き留めるというストーカーのような日々を過ごしていた。クロッキー帳は早くも二冊目に入り、個人的な思い入れをもったことにより、私の技量の進展もこれまでより見られる気がした。彼らの線を目に焼きつけては、自宅や美術室でていねいになぞる。しかし何度描いてみても実物の躍動感には遠くおよばず、これという線を引けない。そんなもどかしさを抱えながらいくつもいくつもページをめくり、とうとう二冊目も終わりにさしかかったころ──転機はとつぜんに訪れた。
「公式戦、観にきてくれてたよね。名字さん」
体育館の見学席へ、ボールをとりに来たらしい及川くんはそう言って笑った。そろそろ帰ろうと思っていた夕方の五時、普段なら下級生にとりに行かせるはずのボールを二個三個と腕に抱え、彼はなんの気なしに私を見ていた。
予想外の事態に驚いて、ぼんやりと肩のあたりに視線をさまよわせる。背が高く体格のいいバレー部員の中でも、及川くんの体つきはひときわ綺麗だと思っていた。均整のとれた骨と筋。なにより彼の動きはどんなプレーの中でもある種の哲学に沿うよう、いつもしなやかに稼働している。きっと持って生まれた運動センスと、人一倍積み重ねた努力の賜物なのだと思う。
「ありがとね。観客多いほうがやっぱ燃えるし、女の子ならよりうれしー」
「あ、うん。友達が、バレー好きで」
「名字さんは好きじゃないの?」
言い訳のように発してしまった言葉を取り消そうと、焦った私はさらに自分を追い詰めていく。
「私は、体が……好きで」
「え?」
「ち、ちがうの! 及川くんの体が、そのえっと、絵を描いてて……」
「か、体目当てってこと?」
要領をえない私の返答に、彼はわざと大げさに驚いて、恥ずかしそうな顔をした。きっと私がこれ以上うろたえる前に自らおちゃらけて、空気をなごませようとしてくれたのだ。それだというのに私は彼よりさらに大げさにぶんぶんと首を振って、赤くなる顔を自覚しながら言い淀んだ。せっかく気を使ってくれたのに、結局おかしな雰囲気になってしまう。
「えーと、絵を?」
苛立つこともなく彼が問い直してくれたため、こっそり一つ息を吸って、なんとか言葉を探す。
「昔から絵を描くのが好きで……大したものじゃないんだけど」
「ふーん?」
「それで観に行ったんだ。あ、もちろん、試合も応援してるよ!」
「バレーの絵を描いてるの?」
「バレーの絵というより……肉体の」
「肉体」
彼は神妙にくりかえし、ボールを一度ぽんと弾いた。何度も紙に引こうとした体の線が、目の前で弛み、引き締まる。そのことに、私は自分で思っていたよりもずっと高揚しているようだ。
「運動してる人の体って、すごいよね。及川くんはとくに……すごく綺麗。動きもなんていうか、かっこよくて」
Tシャツ越しの骨格を、頭の中の補助線にあてはめるよう思い描く。胸の厚みは線に立体感をもたせる大切な要素だ。
「そんなに見られるとドキドキしちゃうんだけど」
「ごめん……!」
彼はさきほどの大げさなものとは違う、ほんのりとした羞恥を頬に浮かべ首を傾げた。うっとりするような仕草だった。「今度見せてね」と言い残し、ステージ裏の階段を下っていく。
私はしばし息を飲みながら、アリーナに駆け戻った彼の後姿を見つめた。この人を紙に落とし込むなんて、私には生涯できそうにない。そんな無力感と同時に、こらえきれないものがふつふつと心臓の底にわいている。今すぐにでも筆をとり、すべてを込めたい気分だ。苦しくて、みずみずしい。不思議な気持ちがあふれだしていた。
*
「最近よく見にきてるよな〜」
「誰? 二組の子ら?」
「違う五組。名字さんだっけ」
部活を見にくる女の子を、どーのこーのと話題にすることはよくある。実際にその中からカップルが生まれたりするのだから合理的なシステムだとは思う。
「ああ、あの子。俺の体が好きなんだって」
シャツを脱ぎながらついこぼしてしまった言葉に、部室の空気が固まる。しまったと思い誤解をとこうと口を開くが、その前に無慈悲な鉄槌がくだった。「おめーはどんだけ見境いねえんだ!」「ヤリチン!」「女の敵であり男の敵!」「痛い感じにこけろ!」散々な野次とともにバレーボールや制汗スプレーやDVDのケースなどが投げつけられる。ちがうちがうと否定しながら、汗拭きタオルを振り回し防御した。だいたい俺はそんなふうに言われるほど遊んでいないし、女癖だってそこまで悪くないというのに、イメージだけで非難するのだから酷い。
「そういうんじゃなくて! 美術部なんだよ。スケッチブック持ってきてた」
ほう……とまたもやみんなの言葉がとまり、今度はなんとなく、自分の体の引き締まり具合や髪型なんかを省みる空気になる。べつに寝癖の有無まで見られていないし、そういうことじゃないと思うがまあ気持ちはわかる。「俺の体が好き」って自意識過剰じゃねえ? と問われ、数日前の会話のことを告げた。
「まじかよ。お前ヌードモデルでもやれば」
「ちょっと、あの子たぶん真剣に描いてるんだから茶化さないであげてよ」
むっとした俺に何かを感じたのか、彼らはそこで深追いをやめ、今度は二組の子たちへ話題をうつした。その隙をみて、俺も自分の腹筋を覗き見る。
バランスよくトレーニングをしているし、学年が上がるにつれ順調に胸も厚くなっている。強いて言うならまだ身長は伸び止まらないでほしいが、全体的に悪くない仕上がりだと思う。鍛えあげた体を誇らしく思っているのは事実だ。風呂上がりなんかはついまじまじとチェックしてしまったりする。ナルシストと言われればそうだけど、運動をしている男なんてみんな同じようなものだろう。勉強したからテストの点が上がっただとか、そういうことと同じで、体を動かした分が筋肉という結果となってこの身に宿っているのだ。満足感を得るのは当然のことである。
それからも、彼女は時おり体育館に顔を出しては俺たちの練習を眺めていた。隠すように持っているスケッチブックに何かを描いているところは見たことがないけれど、俺はその中身が日に日に気になってしょうがなくなった。たまに覗き込む五組の教室でも、彼女がそれを開いている様子はない。人前では描かないのだろうか。
「それ、いつ描いてるの?」
とうとう堪えきれなくなった俺は、ある日の放課後に彼女をつかまえ尋ねてみた。部活のない週の初めはいつも早々に下校していたが、彼女だってバレー部を見にきているのだから、俺の方が美術室へ行くのもありだろうと思い立ったのだ。
「え……なんで」
「見たい。見せて」
ストレートに口にすると、名字さんは目をまんまるく見開いてまた首を振った。携えていたスケッチブックに手を伸ばす。しかし彼女は驚くほど俊敏にそれをかわし「絶対ダメ!」とはっきり言った。
「えー、なんで。モデル俺なんだから見る権利あるでしょ」
「恥ずかしいから!」
「恥ずかしいポーズさせてるの?」
「ちがうけど!」
困り果てた彼女は頬から首元まで赤くしている。これ以上しつこくするのは可哀想かとも思ったけれど、見ちゃいけないと言われるとますます見たくなるのは人のさがだ。お願い! と両手を合わせて頼み込み、迷った彼女が俺と自分の間でうろうろと手をさまよわせているうちに、ひょいと奪う。
わなわなと身を震わせる彼女の前で、俺までつられて緊張しながら、茶色の厚紙を開いた。
*
「わ……」
短い感嘆詞をあげたまま、彼がなにも言わなくなったので私はどんどん不安になり、いつ逃げ出してしまおうかとそればかりを考えていた。さらっと描いたクロッキーから、真っ黒になるほど描き込んだデッサンまでところ狭しと並ぶそれは見慣れぬ人から見たら気持ちが悪いかもしれない。なんせ多くは裸体に近いものだ。造形の美しさにばかり気を惹かれていたけれど、同級生をモデルにしてそんなものを描いているなんて、そしてそれを本人に見られるなんて、入る穴がいくつあっても足りないくらいだ。彼はつづけて「すご……」とこぼしながら、私のストーキング記録を最初から最後まで順ぐりにめくった。私はその間身じろぎの一つもできず、ただただ下を向くしかない。放課後の特別教室棟はひとけがなく静かだ。
「俺、こんな彫刻みたいな体してる……?」
ようやく私の方を見て、及川くんはそう聞いた。彼は片手で口元を覆いながら、こちらへ上目を向けたので、これは引かれているのだろうと思った。そうなればもうヤケである。
「及川くんの体、ほんとはもっとずっときれいだよ」
ページが進むにつれ、彼だけを描く回数が増えていることなんてもうばれてしまっているかもしれない。及川くんのフォームは独特なのだ。けれど私が感じた彼の美しさなんて全然描きあらわせていないという悔しさから、そう言ってしまった。彼の手から素早くとりかえし、この世の果てまで走り去りたい。そんな気持ちとは裏腹に上履きはぴったり廊下にへばりついていた。
「よく見てくれてるんだね」
いたたまれなくなって上げた顔に、彼の笑顔が映る。体育館で話したときよりもさらに心もとない、照れくさそうな笑みだ。跳ねた茶髪からのぞく耳がうっすらと赤らんでいる。
「……ごめん」
「なんで謝るのさ。すごいじゃん、こんなに上手いと思わなかった」
彼はもう一度ページをめくり、今度は少し目付きを変えて見返した。
「このサーブのなんか、参考になるな。俺こんなに腕上げてる?」
「……他のは正確じゃないかもだけど、これはけっこう、自信あるよ」
ひときわ張り詰めた神経で、一糸の乱れもないよう慎重に、それでいて熱を爆発させるような迫力があるのが彼のジャンプサーブだ。私はそれがとても好きで、本当に惚れ惚れするくらい見入ってしまい、夜ベッドの中で目を閉じると、腕を後ろへ振り上げてふりこのようにして駆け飛ぶ彼の姿がまぶたの裏をはしるほどなのだ。
彼は私の言葉にまたふへ、と照れたような笑いをもらし、それから「ありがと」と言った。
*
「お前、あれからマジで専属モデルやってるんだって?」
「専属モデルっていうか……」
彼女の絵を見たあの日から、俺は実に変わったアプローチを彼女に向けて仕掛けていた。彼女はその口で言ったとおり、本当に俺の体が好きらしい。女の子の体を褒めたことはあるけれど、女の子に「綺麗な体」なんて言われたことがない俺はすっかりその感覚に嵌ってしまっていた。
「もっと描いてもらえたらいいなと思ってるだけ」
「へえ、そんな上手いんか」
「めちゃくちゃうまいし、なんていうか……」
芸術を見る目なんてないけれど、彼女のスケッチブックを開いたとき、ただ平面のはずの白の上に、線や影が浮き立ち動めいているように見えたのだ。それは俺が思う理想のモーションに近く、赤の他人が観察だけでイメージできるものとは思えないくらいだった。
「あれ見たらなんかほんと、照れるよ。丸裸にされてる気分」
この気持ちを言葉で表すことはできない。好きだの惚れただの、そういうのとは少し違う気がする。その答えを探すべく、俺は月曜日の放課後、きまって美術室へと顔を出すようになった。
「思い出しながら描いてるの?」
「……さすがにパシャパシャ写真撮れないから」
彼女はスポーツ雑誌を参考にしながら、サーブトスの腕の動きや、レシーブ前の低姿勢などといったなかなかに渋いシーンを切りとって、スケッチを描き連ねていた。
すっかり慣れたつもりのこの一時だが、その日の俺はなぜか座りの悪さを感じていた。体育のあと着替えるのが面倒臭く、たまたまTシャツを着ている今日、彼女の目付きが明らかにいつもと違っていることに気づいたからだ。獲物を見る目、とまではいかないけれど、確実に照準を定められているのがわかる。なんだか複雑な興奮が俺をおそい、思わず聞いた。
「気になるの?」
「え……なにが」
「俺の体、見たいんでしょ」
「べ、べつにそういうんじゃ……でも、ちょっと見てもいい?」
「ドウゾ」
ひとけのない美術室で、女の子のらんらんとした目が俺をとらえている。なんだこの状況はと思いつつ、ぴしりと背筋を伸ばした。
「楽にしてていいよ」
「楽にって言われても」
「じゃあ腕を、あげてもらっていいですか」
「こう?」
「もっと、こう……」
彼女がやって見せたとおり、スパイクを打つ直前のように肘を後ろへ開く。
「ああ、なるほど。わー……」
名字は熱のこもった息を吐き、おそらくシャツ越しに浮き出ているであろう俺の筋肉を見つめている。いっそ脱いでやろうかと思ったけれどさすがに思いとどまり、けれど俺も妙に高揚していたため、ちょいちょいと手招きをした。
「……さわる?」
「いいの!?」
また勢いよく首を振ると思った彼女は予想外の食いつきを見せ、目を輝かせた。
「どこでもいいよ」とシャツをめくると、彼女はお弁当箱を開けた小学生のような顔をして俺の腹筋に手を伸ばす。名字の方も、なにか変なスイッチが入ってしまっているようだ。そろそろと進んだ指が、筋肉のみぞを這う。これはまずい。おかしな性癖に目覚めてしまいそうだ。俺の体のつくりをたしかめている彼女の体を、俺もまじまじと見下ろした。
「名字は、筋肉なんてぜんぜんついてないね」
「え?」
「ほら」
彼女のなだらかな肩に触れ、撫でる。やわらかで気持ちよくて、ちょうどいい位置関係にあったこともあり、俺はごく自然に彼女の体を抱きしめた。付き合っていない女の子とこんな距離になることなんて滅多にないし、こうして身を寄せてくる女の子を抱きしめない理由がないと、俺のポンコツ脳が判断したためだ。パブロフの犬だってもうちょっとましな判断をするかもしれない。
「ごめん、つい」
謝りながらも離すことはしなかった。名字はおとなしく俺の中におさまっている。細い肩に顎をのせると、シャンプーのいい香りがした。そのまましばらく無言で過ごし、チャイムの音とともにゆっくり体を離す。
「……どう?」
「うん、なんか及川くんの立体感が、わかった気がした」
彼女は嬉しそうにそう言って、はにかんだ。なんだそれは3Dプリンターかよ、と思いながら、それ以上の進展があるわけでもなくその日は美術室を後にした。自分の描いた絵を見られたときは首まで真っ赤にしていたくせにおかしな話だ。健全なんだか不健全なんだかわけがわからない。
*
一方的に眺めていたときと比べれば、信じられないほど豊富になった彼の情報を資料のように頭に収め、今日も鉛筆をけずる。体の厚みも、重量感も、感触も温度も匂いさえも、絵を描くためには欠かせないのだ。直接とるコミュニケーションから得られるものは、引っ込み思案だった私が想像していた以上のものだった。彼からもらった熱に突き動かされるようにして手を動かしていく。
最初は内緒にして欲しいと思っていたけれど、もはやそれさえ気にならなくなり、及川くんから話を聞いたチームメイトが私の絵を見にくることもあった。考えてみれば彼らにもらった熱でもあるのだし、たくさん参考にさせてもらった。隠すほうが不誠実だろう。
「おー……マジでうまい」
「名字さん、これ最終的にどうなるの?」
その日の放課後は三年バレー部の二人組がやってきて、二冊目のクロッキー帳を興味深げにめくっていた。私はもう一サイズ大きなものを買い直し、今までのラフスケッチからもう少し時間をかけたデッサンを、ひたすら描き込むことに夢中になっていた。
「えっと、いつかちゃんと作品にできたらって思ってるよ」
初めは練習の一環のつもりだったけれど、今はなにかしらの作品に昇華できればいいと思っている。おさまる様子のないこの衝動をいつか一枚の絵に塗りこめることができたら、きっと今感じているくるしいほどの高揚感もましになるのかもしれない。
「これ、俺らじゃない?」
「ああ、髪がなんとなく」
二人が言うので覗きこむと、たしかにそのようだった。スパイク練習をしている彼らのフォームをさんざん覗き見た日に描いたものだ。
「もっと背筋が寄るんだよ。そうすっとここにシワができるだろ。ほらよく、ピッチャーが振りかぶったときにユニフォームがこう」
「え、え、もう一度言って」
「だから腰を反らすと……」
実践者の意見は貴重なものである。私よりいろいろなスポーツに詳しい彼らは、頭でなく体でその構造を理解している。私はスケッチをとりながら話を聞き、ついでとばかりに実演を求めた。私の熱意に押され、しょうがないなとYシャツを脱いだ隣のクラスの松川くんは、薄いインナー越しに腕を引き背筋の動きを見せてくれる。私はどきどきと胸が高鳴るのを感じながら、必死に鉛筆をはしらせた。
「すげえ、はふはふ言ってる」
「なんか及川の気持ちがわかった気が……」
彼らがそこまで言ったところで、がらりと勢いよくドアの開く音がした。美術室のドアは立て付けが悪くなかなかすんなり引けないのに、それを無視して力でこじ開けたためか、えらく大きな音が鳴った。びっくりして顔を上げると、噂をすればの彼が立っている。
「名字……!」
「はい!」
及川くんは必死の形相で私を呼ぶと、薄着になった松川くんと、私の手元を覗き込んでいる花巻くんを順番に見て、顔を青くした。
「俺の体が好きって言ったじゃん!」
誤解をまねく発言をしながら、大股でずんずんと近づいてくる。なんだかとても悔しそうだ。普段は体ばかりを見てしまうけれど、彼はたまにこうして表情でも私をはっとさせる。
「俺じゃなくても良かったの!?」
「お、及川くん誤解を」
「誤解じゃないよ! 他の野郎の体を、そんな目で」
彼の中にどのようなプライドが芽生えているのかはわからないが、たしかに及川くんの体を一番に褒めたのは事実だ。なぜだか勢いで上を脱いだ彼の横で、呆れた顔をした松川くんがシャツを着込む。
「解散」
花巻くんの一言とともに、本当に二人は出ていってしまったため、美術室には半裸の及川くんと私だけが残された。彼とはいつもわけのわからない状況になるけれど、今日のは飛び抜けてそうだ。どこからつっこんで、なにから言い訳をしようかと思いつつ、初めて見る彼の綺麗な肌を見ていたらもうなにもかもどうでもよくなってしまった。結局どんなに滑稽な状況であっても、私は私の理想に逆らえないのだ。ごくりとつばを飲んで、手を伸ばす。
「ほんと、きれい」
お腹の底から熱がどんどんわいてくる。これをそっくり筆にのせ、閉じ込められたらどんなにいいだろうと思う。けれど私にその技量はまだないから、見つめて、触って、たしかめる。
「五分したら、服着て」
でないと気持ちが爆発してしまいそうだ。彼はわかったと頷いてから、やっぱり私を抱きしめた。十分にしておけばよかったかもしれない。この気持ちが劣情だか憧れだか創作意欲だかもわからないまま、私は背中に手を回し、背筋をゆっくりとなぞる。彼の体が小さく震えて息がつむじにかかった。
「……なんか、お前ばっか見てずるいよね。考えてみれば」
「え?」
「俺も名前の体好きな気がするから、今度見せて」
そんな予約は了承できない。けれどそうすれば彼の全身が見られるのかと思ったら、うっかり頷きそうになってしまった。自分の欲を心底恐ろしく思いながら、私はめいっぱい首を振る。今しばらくは、紙の上だけで彼と。
2017.03.17