novel2







Ticket to ride
 加速して春を駆ける。



 隣室に人が越してくることは知っていた。
 三日ほど前、引越し屋と話している数人の男たちを部屋の前で見た。上京組の新入生だろうか。おそらく同年代であろう彼らが、自分とそう変わらないノリでたむろしていることにちょっとした安心感を抱きつつ、隣室側に向いていたデッキスピーカーの向きを変えたのだ。友人同士で荷解きにとりかかっているらしいにぎやかな声を聞きながら、これならむやみに気を使う必要もないだろうと考えた。こちらが友人を呼んで多少ハメをはずしたとしても、お互い様である。
 だから日曜日の昼にチャイムが鳴ったとき、俺は完全に油断し、腑抜けていた。『隣に越してきた、名字です』その声が女のものであることに疑問を覚えつつも、寝起きの頭は寝グセ同様にぐるぐるとうず巻いて、ろくに用を成さなかった。
「はァ、い」
 かすれた喉から声をひねり出し、ドアノブを回しようやく、俺は自分の格好がひどいものであることに気づく。しかし少しばかり遅かった。
「お休みのところすみません、隣に越してきました名字です」
 角部屋である俺の部屋には、当然ながら一つしか隣室はない。引越しの日から今日まで女性の姿は見ていなかったため、当たり前のように男が入居したと思いこんでいたが……これは一体どういうことか。
「ああハイ、 わざわざどうも」
「これ、ほんの気持ちですが」
「わーありがとうございます、お気づかいいただいて……」
 どことなく間抜けな定型文を口にしながら、俺はさまざまな思いにかられていた。
 まず、今着ている上下のスウェットは俺が持っているものの中でも一番古いものだ。洗濯しすぎて首の部分が波うっているし、全体的に色落ちしている。昨日は遅くまで飲んでいたのでたぶん顔色も悪いだろう。髪はいうまでもなく逆立っている。とっさに撫でつけてみるものの頑固な後ろ髪が重力に従う気配はない。加えて玄関から覗き見えるだろう室内は、荒れ度を五段階に分けたとして三と四の間くらいには散らかっている。週末、まとめて片そうと思っていた洗濯物はカゴから溢れ出しており、床にはコンビニのビニール袋が三つほど散乱していた。生活用品、食品、消耗品の類を中途半端にとりだしてそこらへ放った残骸だ。昨日は酔っていたから使うだけ使ってベッドに沈没してしまったのだ。
 べつに普段だってとくべつ綺麗というわけではないけれど、もう少しマシな状態を保ってはいる。とくに女の子が来るときにはIKEAで買ったキャンバス地のでかいラックにあらかた詰めてすっきりさせるため「きれいにしてるんだね」なんて褒められることが多い。
「お世話になります」
「こちらこそ」
「ではえーと、また」
 ぺこりとおじぎをして去っていった彼女の背後で、ドアを閉じ一間。俺はもらった銘菓の袋をぶら下げながら大きなため息をついた。理由は一つ、単純に、彼女がとても好印象であったからだ。我ながらチャラいとは思う。けれど東京で一人暮らしをしている数かぎりない学生の中だって、春、新生活に合わせ隣に素敵な女の子が越してくるなんていう幸運は誰もが味わえるものじゃない。これはワンチャンスあると、浮き足立ってしまうのも仕方ないのではないだろうか。
 と、そこまで考えたところで俺は引越しの日に見た光景を思い出した。同世代の男たちが数人。さしずめあの中のどれかが彼氏なのだろう。しかしそれとこれとは話が別なのだ。せっかく生活スペースを近くする者同士なのだから、こちらも良い印象をもってもらいたいと、ええかっこしいの俺は思ってしまう。
 次会うことがあればもう少しマシな姿を見せられるといい。俺は挽回する機会が訪れてくれることを願いながら、うねった毛先を宥めるため洗面所へ向かった。午後からは部活がある。



 生活リズムが違うのか、それからしばらくのあいだ彼女の顔を見ることはなかった。大学生、なのだろうか。三回生の俺は早い授業がないため、いつも部屋を出るのは九時を回ってからだ。その時間帯に彼女と遭遇したことは一度もない。休日もなんだかんだと家を空けることの多い俺と違い、彼女が部屋を出入りする気配は最小限のように感じられた。慣れない大学生活と一人暮らしで、休日は溶けるように眠っているのかもしれない。俺も初めはそうだった。
 長い髪、細い肩、つぶらな目元。一度、それも一瞬しか会っていない彼女のイメージはもやもやとぼやけて、いつの間にか俺の好きな芸能人と混ざり合っている。そんなこんなで幻と化した彼女の存在はしだいに頭に浮かばなくなり、俺はふたたび気を抜くようになっていた。大学リーグを熱心に応援しに来てくれる同学部の女子と、試合後の飲み会で仲良くなったことも大きい。部屋に連れてくるとしたらそろそろまた大掃除をしなくちゃな、なんて思いながら、その日もぼさぼさの頭でゴミ袋を結んでいた。
 ペットボトルの回収が来るのは水曜日の十時。家を出る前に出しておかないとまた一週間ためこむはめになる。流し台にあった入れ忘れの一個をぎゅうぎゅうと足で潰しながら、あくびをかみ殺していたときだった。めしゃ、と派手な音がして、そのあとに女の声がつづいた。声、というより悲鳴だ。
 嫌な予感がしてドアを開ける。サンダル履きで廊下を横切り外階段を見下ろすと、案の定というか、想像したよりもだいぶひどい状態で、女性が一人ぶっ倒れていた。記憶よりも短い髪に、相変わらず細い肩。白い脛からは血が流れている。たぶんおそらく、いやかくじつにこれは、名字さんだ。
「だ、ダイジョーブですか!?」
 急ぎ駆け下りて、階段の下に横たわっている彼女を踏んづけないようにまたぐ。ペットボトルのゴミ袋をお腹で挟み込むようにして倒れていた彼女は「うぅ……」と子どものような声をもらし、もぞついた。
「お、おちました」
「み、見ればわかります。立てますか」
「ハイ……すみません」
 手を差し伸べて助け起こしてみるものの、自立しようとした彼女は負傷した右足に想像以上に力が入らなかったのか、また危なっかしくよろめいた。とっさに支え、腰に手をまわす。
「頭とか……」
「頭は……打ってないです。これがクッションになったから、脚だけ」
「血が出てる。救急車呼びます?」
「いえ、そこまでじゃ」
 痛みと羞恥で涙目になっている彼女がかわいそうすぎて、直視できない。なるべく顔を見ないよう目をそらして「とりあえず部屋に」と促すと、彼女は俺の腕をぎゅっとつかんだまま、心底申し訳なさそうに言った。
「支えてもらってもいいですか」
「もちろん。上れます?」
「なんとか」
「ゆっくりね」
 ぺたぺたと裸足でコンクリートの階段をのぼっている途中にも、名字さんは何度か「すみません」と謝った。親しくもない俺に半身の体重を預けていることや、脱げたパンプスを俺が持っていることに申し訳なさを感じているようだけれど、軽い彼女の体はちっとも負担じゃないし、むしろこっちの気がひけるくらいだ。それにしても浅いパンプスである。こんなので駆け下りたりしたらそりゃ足を踏み外すだろう。
「あと大丈夫ですか」
 さすがに部屋の中まで入るわけにもいかず玄関口で尋ねると、彼女はこくこくと何度もうなずき、礼を言った。見た感じ、擦り傷と軽い捻挫程度のようだけれど、ほかにどこか打っていないとも限らない。一人にするのは少し不安だが、きっとこれ以上は余計なお節介だろう。
「ペットボトル、俺捨てときますよ」
「えっいや、そんなことまで」
「どうせ俺も出すつもりだったし」
「すみません……ありがとうございます」
「イエイエ、それよりお大事に。痛み引かないようなら病院行った方がいいッスよ」
「はい、そうします」
 それだけ言ってドアを閉める。二人分のゴミ袋を向かいの角まで持って行き、ネットの下に押し込んで、なんとなく耳をそばだてながら彼女の部屋の前を戻った。そろそろ家を出ないと三限の出欠確認に間に合わないと思ったけれど、どうにも気がそぞろになってしまった俺はもたもたと身支度に時間をかけ、結局家を出たのは十時を回った後だった。
 大学に着いても、どうにも授業に身が入らない。病院に行くにしても歩くのは無理だろう。タクシーを呼ぶお金はあるのだろうか。やっぱり、付いていてやればよかったか。そんなことを考えながら、彼氏でもないのにやたら心配している自分にぞっとして首を振った。彼女にだって頼る人くらいいるだろう。
 むずむずする心をおさめようと、早めに練習着に着替えトレーニングルームに入る。体育科の学生生活は体を動かすのが好きな俺にとっては天国のようなものだ。キャンパスは綺麗だし設備も整っている。周りは似たような意識を持って地方から出てきた奴らばかりなので気が合うし、楽だ。東京出身の遊び慣れた先輩方にさまざまな娯楽を教えてもらいながら、界隈の最先端でバレーをする日々は充実以外の何物でもない。
「及川、あの子とどーなってんの」
「えー、うん」
「うんじゃねえよ」
 先日の飲み会で距離を縮めた彼女は、大学一部リーグの追っかけ女子の中でも目立つ存在だった。はっきりした目鼻立に、いまどきのメイク、いつでもなんだかいい匂いがして、お酒が好きな割に弱く、人懐っこい。正直めちゃくちゃ好みだし、彼女が俺を好いてくれているのなら付き合わない理由はない。
「まじでありえん。振られてしまえ」
 トレーニングマットで柔軟をする俺の横で、同期がぶちぶちと文句を言っている。次の試合は月末だ。何かあるとしたら、その後の飲み会だろう。俺はなりゆきに任せようという適当な心持ちに、少しの下心を含ませながら息を吐いた。体側が少しずつマットへと沈んでいく。体の調子はすこぶるいい。



 ピンポーン──とチャイムの音が鳴り響き、彼女の声が聞こえてくる。
「隣の、名字です」
 軽いデジャヴを感じながらとっさに室内を見渡した俺は、床にやたらと物が散乱していないことを確認しドアを開けた。
「ハイハイー」
「あ、お食事中でしたか」
「いえ、だいじょうぶです。ていうかもう平気? なんですか?」
「おかげさまで……先日は本当にありがとうございました」
 彼女が階段から転げ落ちて三日。これといった音沙汰なしに週末を迎えていたが、元気そうな姿が見られほっと息をつく。
「軽い捻挫で、もう痛みも引いてきました」
「そんくらいで良かったです。ペットボトルなかったら大変でしたよ」
「ほんとに、命拾いしました……それで、これ」
 彼女はそう言って、持っていた紙袋からいい香りのする小鉢を取り出した。遠慮がちに差し出されたそれを、両手でうやうやしく受け取る。じわりとした温かさが手のひらにしみる。
「お口に合うかわからないんですが」
「えっいいんですか」
「お礼になるかわからないけれど……よかったら」
「なんか貰ってばっかで……あ、ちょっとまって」
 なにか渡せるものはないかと考え、思い出したのは部屋の端でもてあましていた段ボール箱だった。
「これ、実家から大量に送られてきて」
「わ、すごいですね」
「母親、俺の食欲無尽蔵だと思ってるから……」
 俺は仕送りの荷物を漁りながら、どうやって使ったらいいかわからず放置していた乾燥昆布や炒りジャコや揚げ麩などの乾きものをわさわさとかき集めた。
「寄せ集めで申し訳ないけど、使ってやってください」
「こ、こんなにもらえませんよ!」
「じゃあ、適当に一個ずつ持ってって、使い方教えて」
「はあ……」
 口説き方としてはずいぶん色気がないようだけれど、隣室ということを最大限に利用したアプローチはこれしかないと思った。わずかにびっこを引きながら「おやすみなさい」と笑う名字さんを見送り、あたたかく結露したサランラップを外す。実家から持ってきたことが伺える渋い柄の陶器を見ながら、彼女の作ったほんのりとあまじょっぱい煮物を食べ、俺はごく自然に「好きだな」と思った。我ながら単純だと思う。しかし一度思ってしまえばどうにも止まらなく、どうすれば彼女と短期間のうちに自然に距離を縮められるか、そればかりを考えた。
 とりあえず、器を返しに行くときが次のチャンスだ。いつもだらしない部屋着姿ばかり見られてしまうけれど、ちゃんとそれなりの格好をして、髪を整えてから行こう。用件のみでなく、なにか間のもつ会話をできないものか。と考えて、近所の住宅地の片隅に個人経営の小さなカフェができたことを思い出した。扉に大きく『手作りカステラ』と書かれたなんとも気になる店である。駅へ向かう途中にあるので、彼女も毎朝見ているはずだ。何の気なしに聞いてみようか。「もう行きました?」いやちがうな「あそこ気になってるんですよ」あからさますぎるか?「カステラ、好きで」あざといな。そんなことを考えながらいつの間にかむにゃむにゃと眠りについていたのだから、心底健全な生活をしていると思う。

 翌日、土曜日の練習を終えアパートに帰って来たのは八時を過ぎた頃だった。シャワーは大学であびてきたし、ナイキのジャージ以上の私服を持っているわけでもない俺は結局練習着のまま、洗った小鉢を携え部屋を出た。俺の方から彼女の部屋を訪ねるのは初めてのことだ。ドギマギしながらチャイムを鳴らし、「及川です」と返事をする。すぐに開いたドアの向こうで、化粧をしていなのか、いつもよりあどけない印象の名字さんが恥ずかし気にはにかんでいた。好きだ、と思った。
「これ、うまかったです。ありがと」
「あ、わざわざすみません……!」
「いや、煮物とかめったに食べないから」
「おそまつさまです。そういえば、ご実家の、いい昆布ですね」
「いい昆布ですか、それはよかった」
 昆布にいいとか悪いとかあるのかと思ったけれど、彼女が喜んでいるのならよかった。あまり見るのもどうかと思うが、自然と目に入る彼女の部屋はインテリアが違うせいか間取りまで別物に見える。
「また送られたら持ってきます」
「うちも、実家から謎のジュースがたくさん送られてきたのでよかったら……って、なんかキリがないですね」
 先日から続くお裾分け合戦がおかしく感じたのか、彼女はへへっと笑って横髪を耳にかけた。もうなんか、すごく好きだと思った。
「じゃあ、のど乾いたらください」
「あはは、うちカフェじゃないですよ。あ、そういえば角のお店行きました?」
「カステラの?」
「そうですそうです」
 奇跡的に彼女の方からそう切り出され、俺がいよいよ運命を感じ始めた頃だ。このまま話していればなんだかすごく仲良くなれるんじゃないかと、玄関口で手応えを感じていた俺の能天気な頭を、背後から殴ったのは一人の男だった。もちろんモノの例えだ。本当に殴られたわけじゃない。けれど俺にとってはそれくらい、痛烈な衝撃だった。
「あ、おかえり」
「ども。えーと……お隣の?」
「アー……はい。オイカワデス」
 引越しのときに、見ただろうか。俺や彼女と同じ年頃と思われる男が、警戒心を隠そうともしない目をじっとりと俺に向けている。俺は無意味に両手を軽く上げ、短く自己紹介をし、本能的に後ずさった。
「名前が世話になりました」
 ちっとも感謝していないといった口調でそう言われてしまえば、引き退がる他にない。「お大事に」と言い残し、困ったような顔で会釈をした彼女に背を向ける。なぜ今の今まで忘れていたんだろう。彼女に相手がいるなんていうことは初日に予想していたはずだ。都合のいいことばかりを考えて、浮かれきってしまったのは春のせいか。
 重い足どりで部屋へ戻り、漁りっぱなしになっていた仕送りの段ボールを元の位置にずらし、ジャージを脱ぐ。下の名前、名前っていうんだな。俺はここ数日のあいだ下げていたオーディオの音量をふたメモリ上げ直し、もそもそと布団に入った。……引っ越したい。むなしい独り言が枕へ消える。


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