novel2








 困ったことになった。そう思うことは、この場所にいれば度々ある。
 バビロンの空中神殿がチョコレート工場になったときも、チェイテ城の上に古代遺跡が墜落したときも、ホノルルとハワイ島が悪魔融合したときも、私なりに困惑し、順応し、打開してきたつもりだ。
 何せ私はマイロードを常に見守り、時に導く、頼れるマーリンお兄さんであるからだ。
「さて」
 けれど場合によってはその万能さも無効化されることがある。主に言えば、私自身に下心などの深い事情があり、打開の意欲が落ちているときだ。
「──真っ昼間から仕事場で目隠しプレイか。とんだ趣味してるな、夢魔ってやつは」
 私が腕を組み考え込んでいるふりをしていたところ、そう吐き捨てながら現れたのは妖精王オベロンだった。スライド式のドアを滑らせて、彼は人外じみた足で診察室の敷居をまたぐ。
「人聞きの悪い。これには深い事情があるんだよ」
「その声は……オベロン?」
 私の弁明に続き、声を発したのは目の前に座る名前であった。彼女は諸事情により遮られた視線をドアの方へ向け、声の主を言い当てる。当てられたオベロンは返事をするでもなく室内の状況を一瞥し、私と同席することへの嫌悪とこの状況に対する興味を秤にかけたのち、数歩こちらへ足を進めた。どうやら後者が勝ったらしい。
「実は些かやっかいな状況に陥っていてね」
 私は自らの名誉と彼女の尊厳のため、問われてもいない現状への説明を速やかにこなす。
 本日は朝からシオンの指示により、ネモ・マリーンたちが資材倉庫の大掃除をしていたこと。そこへ現れたネモ・プロフェッサーが研究に使える物品はないかと資材の物色を始めたこと。三人のマリーンたちがとりいそぎ頭の上へ掲げていたバンカーズボックスへ向けて、突如としてアーチャーの織田信長が突っ込んできたこと。同じくそれを追いかけてきた沖田総司の三段突きによりボックス内の資材が弾け跳び、偶然近くを歩いていた名前の頭になみなみと薬品が降り注がれたこと。その結果、一時的に彼女に強力な魅了状態が付与されてしまったこと。等々を、私は解りやすく簡潔に、要所要所にウィットを富ませながら語り終える。
「──というわけなのさ」
「面白くもなければさして深くもない事情の説明をありがとう」
 彼の性質からすれば素直には受け取れない笑顔と礼を返され、私はいよいよ困り果てる。目撃者がネモ・シリーズとボイラー室周辺の住人だけであったのなら、どのような対処をしたところで適当な事後報告だけで済んだのだ。けれどこうして目ざとい男に見られてしまえば煙に巻くことはできないし、ましてや下心からくる私利私欲などには走れそうもない。
「さしあたり、かかった魅了をどう発動させるかが問題だ」
「発動?」
「この霊薬は摂取したとしても、条件が揃わない限り発動しない。つまりは魅了がかかったところで、その対象がいなければ効果が完了しないということだ。私が千里眼で状況を把握するやいなや彼女の背後へと高速移動して、顔を上げるよりも先に布で目を覆わなかったら、今ごろどうなっていたことやら」
「ストーカーもたまには役に立つんだな」
 やれやれと首をすくめた私に妖精王はどうしてか軽蔑の視線を向けている。心外ではあるがこうして彼がここに来たことも、深い因縁といえばそうだ。
「媚薬の精製に一家言ある、妖精王オベロンとしての見解を聞こうか」
「死んでくれ」
 言葉とは裏腹に、死にそうな顔をしているのは彼の方だ。思えば当然のことである。妖精王オベロンにとって媚薬や惚れ薬、魅了効果といったものは最大の地雷であり、言うなれば超弩級の黒歴史なのだ。夏の夜の夢の喜劇は彼の作った惚れ薬をきっかけに幕を開けるが、展開の奇抜さに腹を抱える観客と違い、その名を与えられた本人からすれば笑い事ではない。そういった齟齬もまた、彼というサーヴァントの難儀な点である。
「では、一度私に惚れさせたのちに、私がそれを解く。そんなプランでどうかな」
 当初から立てていた計画を口にすれば、彼は汚物を見るような目で私を見た。常日頃からそういった視線を向けてはくるものの、今日のそれは格別である。
「発動していない魅了を解くことは難しいが、私は自分に向けられた精神異常を魔術で相殺することができる。何も、下心で言っているわけではないことをわかってほしい」
 完全な嘘ではないが本音でもないことを大真面目に告げれば、妖精眼はさらに細められた。私は気づかぬふりをして、早いところこの茶番を終わらせようと彼女の顔へ手を伸ばす。
 私たちの言葉が聞こえているのかそうでないのか、彼女の首は時間が経つにつれこくりこくりと揺れ出している。付与と発動のはざまで強い作用を持て余しているのだから、これは心身ともにあまり良くない状態だろう。
 そうとなればやることは一つであると、彼女の顎を持ち上げて、目隠しの結び目を解いていく。布がふわりと緩んだところで「目を開けて」と告げれば、彼女は素直に伏せていた瞼を上げ、こちらを見た──かと思われたが、その前にオベロンが彼女の顔をわし掴み、ゴキリとひねったため視線は横へと逸れた。
「首が取れたらどうするんだい!」
「お前に惚れるくらいなら取れたほうがマシだろ」
「ああ、ほら。これじゃあ君に……」
 彼が力任せに自分の方へと向かせたため、案の定名前の視線はオベロンへと向いている。ばっちりと、目と目が合ったことがこちらからも見て取れたため、私は残念な気持ちとわくわくする気持ちを同時に抱きながら二人の様子を見守った。
「……オベロン」
「う……っわ」
 彼の名前を呼んだ名前のその声だけで、効果が発動していることは充分にわかった。彼女はオベロンの薄暗い瞳を見上げながら、うっとりと夢を見るように惚けている。それはまさに愛しい人を見る目であり、愛しい人の名を呼ぶ声であった。相反して、オベロンは顔を青くして拒絶感を露わにしている。私が言うのもなんだが改めて酷い男だ。
「今すぐ解け! できるんだろ」
「自分にかかった魅了を解くことはできるけど、人のはなあ」
「はあ!?」
 私にできるのはあくまで自分へ向けられた他者、および物質による精神干渉を無効化することだけだ。それもスキルなどという器用なものでなく、ただ膨大な魔力量による対魔術で作用を弾き返すという力技である。自己防衛として会得したそれらの力を、他者間の調整に使うことは難しい。魔術とは一見万能なようでいて、意外と細かな法則や縛りにより成立しているのだ。
「取り急ぎ求められるのは」
 オベロンの手を握ったまま動かなくなった彼女を見て、これは仕事どころではないだろうと判断した私は、彼女を椅子から立つように促してドアを開ける。
「移動だ」
 オベロンの手を取る彼女の手を取り、廊下を歩く。三人で手を繋ぎながら連れ立って歩くさまは、見る者が見れば地獄の様相であろう。当のオベロンも拷問を受けるが如く苦悶の表情を浮かべながら、それでも力任せに振りほどくことはせず一番後ろから足取り重く付いてくる。目の色だけでなく顔色まで沼のように青く沈んでいるため、精神には相当の負荷がかかっていることと見受けられる。
 何しろ嫌いであると公言している私と共に、虫酸が走ると言ってはばからない女に手を握られているのだから心中推して知るべしだ。けれど後者については信用ならない。本当に興味のない相手であればこうしておとなしく、彼女の部屋へ向かうはずもないのだ。
「さて。彼女の尊厳を守るためまずは私室へ移動したわけだが、どうしたものか」
「どうしたもクソもない。何かしら解毒薬のようなものがあるだろうが」
「それがね、この霊薬については諸々の事情により解毒薬が存在しないんだ。詳しくは概念礼装のアーカイブを参照してほしいのだけど」
「そろそろお前ごと、この施設を飲み込んでいいか?」
「まあ早まらないでほしい。そうはいっても所詮は礼装。効果は非常に限定的なものだ。何をせずとも時間と共に薄れていく」
「いつだ。五分か? 十分か?」
 オベロンはそれが自分の限界とでもいうように食い下がると、何も言わずぴたりと彼に身を寄せている名前を睨んだ。
「まあ一晩といったところかなあ」
「ひと……帰る」
 それまで下手に刺激すまいと、されるがままでいたオベロンは私の答えに目を見開き、耐えかねたように彼女の腕を振り払う。落ち着いてと牽制する私に、付き合ってられるかと部屋を出ようとするオベロン、そしてよろめきながらも再びオベロンに縋り付く名前という絵面はもはやどこまでも悲劇的であり、喜劇的である。ウェールズの森で繰り広げられたそれとどちらが滑稽であるかはさておき、このまま彼の精神が限界に達し、カルデアごと奈落の底へ落とされることだけは避けたい。
「オベロン、帰らないで。一緒にいて!」
 それに何より、目を潤ませながら必死の求愛をする名前が、彼の拒絶により怪我を負わないかが心配だ。先ほどから彼の鋭い爪の先はわなわなと震えている。
「怒ってるなら謝るから、嫌いにならないで」
「気が狂いそうだ……」
「オベロン、私を見て、触って、おねがい」
「どうやったらここまで見事にキマるんだ? こいつには自我ってもんがないのか」
「仕方のないことだよ。この霊薬のオリジナルは、とある英国の魔術師が作った封印指定モノの逸品だ。たとえ対魔力のあるサーヴァントであろうとも、愛に身を捧げた戦乙女であろうとも、抗えずに心を侵される恐ろしい薬だ。礼装化して効力が最小限にまで抑えられているとはいえ、ただの人間である彼女にとっては劇薬に変わりない」
「そんなものをジャンク品感覚で箱に詰めるなよな」
 もっともな指摘ではあるが霊薬どころか、戦乙女本人まで喚び寄せているこの破格の施設において、日々生まれる副産物までもを丁重に保管することは難しい。よって先ほどのように、バンカーズボックスに詰められたまま保管庫に溜め込まれることとなるのだ。私たちが話しているあいだにも、名前はオベロンの黒い羽毛に顔をうずめ、その名を呼び続けている。
「……キスくらいしてあげたら?」
「ほんっとお前の貞操観念どうなってるんだよ!」
「いや、私としても憂慮すべき展開ではあるけれど……女の子がここまで求めているんだから、応えてあげなきゃ可哀想な気もしてね」
「さてはお前、頭がおかしいな?」
 私としては気遣う意味でした助言だがどうやら逆効果であったようで、とうとう心的ストレスがピークに達したのか、彼は止める間もなく彼女の首根っこを掴んだ。
「ちょっと黙ってろ!」
 そして自分を求めるその口を上向かせ、塞ぐ。
 噛み付くようなそれは決して素行の良いものではなかったが、かといって力任せというわけでもないようだった。鬱憤をぶつけるように長いキスをしながら、オベロンは黒い手と腕で彼女の体を抱え込んでいる。
 乱暴を働けばすぐさま羽をむしってやろうと思っていたが、この絶妙な力加減から成される絡み合いはなかなか見応えがある。頬を染め、息を乱しながらキスを受け止めている彼女の表情を興味深く眺めていると、ようやく顔を上げたオベロンの口から地を這うような声が漏れた。
「出てけ」
「ふむ……」
 どうにもやけくそ感のある劣情をたぎらせながら、彼は人殺しのような目をこちらへ向けている。確かに私は眼前で繰り広げられる男女のもつれを、舞台上の出し物でも観るように楽しみかけていたが、それが彼にも伝わったようだった。彼女のことは大切だ。けれどこの幕に限り、私に出番はないようだ。
「今宵のことは無礼講として見ぬふりをするよ。ただ判断は誤らないように。もし必要以上に彼女を傷つけることがあるのなら、すぐさま私が駆けつけるからそのつもりで」
「偉そうに、覗き魔が」
 突然の展開に惚ける名前を羽の内に囲いながら、彼はそう吐き捨てた。
 私は一つ笑みを返し、部屋を出る。互いの特性を知っているということは、私たちのような者同士にとっては良い牽制だ。彼は本音を視て、私は全てを視る。やりにくい相手だが、極端な力量差がないことは私にとって好ましくもあった。
 彼に個人的な悪感情はない。ともすれば親しみ深く思えるほどである。もっとも、友好の兆しは今のところ少しも垣間見えないわけだが。


2021_10_19

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