それからしばらくのあいだ、彼が診察室を訪れることはなかった。『不要不急の緊急事態』という矛盾した理由により、回避したかのように思われた夏の与太話に引きずり込まれたためである。自棄になりながら宝具を打ちまくるオベロンの姿を想像すると些か、いやかなり可哀想になるが、これもカルデアに召喚された者の通過儀礼と諦めてもらう他ない。
オベロンとマーリンがそのような理由でカルデアを離れてから、私は驚くほど穏やかな日々を送っていた。昼は淡々と業務をこなし、夜はぐっすりと眠りにつく。本来であれば当たり前のことだが、近頃の私には得られていなかったものだ。
そんなつかの間の平穏が途切れたのは、マスターたちがカリブ海へと繰り出して十日ほどが経った頃だった。これも慣例化しているといえばそうだが、どうにかこうにか微小特異点を平定した遠征サーヴァント一行が、その突拍子もない夏の白昼夢にあてられてげっそりと霊基の調子を崩すのが、カルデアの晩夏である。マンドリカルドは長く陽の気を浴びすぎたと頭痛を訴え、アナスタシアは冷たいものを食べすぎたみたいと腹痛を訴え、黒ひげ氏は奴隷商人が列をなして追ってくると謎の幻覚を訴えた。その後にも、夏の霊衣を持ちもしないのにスーツ姿で灼熱の大地を連れまわされたとロード・エルメロイ二世が診察室を訪れ、ここぞと馳け廻るアキレウスのサポート要員として動員されたスカサハ・スカディもまた、昨年に引き続き過労を訴えた。
スタッフ総出で彼ら、彼女らの処置をすること、およそ三日。
ようやく今年の夏も過ぎ去ろうとしていると、宴の後始末に息をつく。そして、私が通常業務へ戻るため散逸したカルテや治療薬を片付けているところに遅れてやってきたのは、これもまた例年通り顔色を悪くしたマーリンだった。
「滑り出しは常にいいんだ。私も夏の霊衣をもらったことだしね、気分転換にハワイやらカリブやらの日差しを浴びに行こうと、マイロードのお供をするわけだが」
彼は現代風の青いシャツをよれよれと乱しながら回転椅子に腰かけて、がっくりと肩を落とした。常に涼やかな笑顔をまとう花の魔術師が、時折り見せるしおれたような表情だ。
「けれどいつも終わりには疲弊している。決まって展開がいけない。夏だからといってやっていいことと悪いことがあるということを、わかっていない連中が多すぎる」
「お疲れ様です」
今年一番の活躍を見せたのは水着姿に変容を遂げた、我らが技術顧問だと聞いた。彼女の宝具の性質からして、マーリンの能力が酷使されたことは間違いない。
「滋養強壮に効くお薬を出しておきますね。本当は全員に魔力の供給をできれば早いのだけど、カルデアの電力は皆さんの霊基を維持することで精一杯なので」
「そうだろうねえ」
「そのための半受肉状態です。サーヴァントだからと油断せず、きちんと寝て、よく食べてください」
「君と一緒に寝られれば、食事に頼らずとも私の活力は戻るのだけど」
「……たしかにあなたは、他のサーヴァントとは少し勝手が違いますからね」
一般的なサーヴァントが霊子体の維持に必要とするものは主に魔力のみである。けれどマーリンの活力源は複数あった。サーヴァントとして魔力を、夢魔として人の精力を得ることで、彼はその高い能力を保っているのだ。
「それはオーケーサインかな」
「違いますよ。ただの問診です」
「そう……」
極めてビジネスライクに返せば、マーリンは珍しく軽口を叩かずに溜息のように頷いた。その様子が本当にしんどそうで、残念そうで、悲しそうなだったものだから、私は思わず聞いてしまう。
「その……ずっと思ってたんですが、夢魔は夢の中でしか人の精力を吸えないんですか?」
「そんなことはないよ。夢の中の方が都合や効率が良いというだけで、君たちが隣で喜怒哀楽を浮かべるだけで、わずかながらでも私の腹は満たされる。そうして少しずつ、日中も人々からエネルギーを拝借しているわけだよ」
「なるほど。夜のお誘いに気軽にオーケーは出せませんが、今なら、いいですよ。何かできることはありますか」
「できることって、君……」
マーリンはただでさえ力をなくしていた眉をさらに下げ、困惑の表情を浮かべた。一方の私は、夢の中でないのならこちらに不利な要素はそうないと踏み、彼の返事を待つ。基本的には信用しているのだ。それが伝わったのか、マーリンはこれまた珍しく頬をわずかに染め、壁の方へと視線を泳がせた。
「じゃあ、ハグ?」
百戦錬磨の夢魔であるマーリンの、そんな様子がおかしくて思わず笑ってしまう。立ち上がり「どうぞ」と腕を広げれば、彼はやはり少年のようにまばたきをした。
「いいのかい」
「眠っている間にあれこれされるよりは遥かに」
照れ臭さからいらぬ意地悪を言ってしまった私は、こほんと一つ咳をする。
「私にだって、疲れたあなたをねぎらいたい気持ちはあります。こんなことで疲れがとれるのならいくらでも」
今度はマーリンの笑った気配がして、私の方が目をそらした。
「失礼」
立ち上がった彼の腕がゆっくりと背に回り、私も同じように彼を受け止める。魔術師でもない私がこうして身を寄せることで、本当に与えられるものがあるのだろうかと疑問に思うが、彼があまりにも気持ちよさそうに息をしたものだから、しばらくはじっとしていようと思った。普段の霊衣ではいまいち実態の見えない彼の体が、シャツの下で熱を持っているのがわかる。白く美しい夢のような装束と違い、青いシャツはまるで人間の男のようで、私の意識は少しだけ混乱した。花の香りはいつもと同じだ。そのことになぜかほっとして、私も小さく息を吐く。
「……体の内側から得るお酒のような刺激もいいけれど、たまにはこうした穏やかな味わいもいいものだね」
「味、ですか」
「うん。染み渡るよ、癖になりそうだ」
彼は本当に疲れているようで、耳元でとろとろと眠たそうな声をだした。手遊びのように私の髪に指を通し、体重を預けすぎないように私の腰を支えている。どのくらいのあいだそうしていたのかはわからない。すぐ横のディスプレイからメッセージの通知音が響くまで、私はぼんやりと彼の胸に頬を埋めていた。
「ありがとう。君も今日は忙しいだろうに」
「事務処理はあるけれど、一通りは済みましたよ。あなたで最後です」
「最後に来てよかったよ。マスターの采配に感謝だ」
体を離し、乱れた私の前髪を指で撫でると、マーリンはそれ以上の何かを求めることもなく礼を言って部屋を出た。彼の形に初めて触れた気がして、不思議に思う。数値を見てもわからなかった冠位魔術師の霊基の輪郭が、たしかにこの目に見えた気がしたのだ。