novel2











 あの夏を形作っていたものを私は忘れない。
 息苦しいくらいに完璧な空の下、二人の男と、彼らを愛する多くのものたち。それらがぴったりと噛み合って、隙間のない世界を作っていた。

「お疲れ」
 解剖室の向かいにある休憩所で、壁を見ながらお茶を飲む。いつ見ても殺風景な色合いだ。窓から見える窓のない建物はその内に血と死の匂いを溜め込んで、高専の片隅に墓石のように佇んでいる。
「硝子、久しぶり」
 まるで昨日ぶりというふうに声をかけてきた同期に対し、私はきちんと事実を返す。この場所へ来るのは半年ぶりのことだ。とりわけ用事があったわけではない。ただ時折り、自分への罰のように、救いのように、ここを訪れてしまうのだ。
 とくに季節が変わり、秋風が冬の気配を連れてくる頃になると、私は高専の山道を上りこの簡素な休憩所へとやってきた。 自動販売機と長椅子が設えられた廊下はまるで待合室だ。解剖室の遺体がここへ戻ることはないというのに。
「灰皿、あったっけ」
「持ってる」
 硝子は懐から携帯灰皿を取り出すと、昔から変わらない銘柄のソフトパックを取り出して、大きく息を吐いた。自分では吸わないが嫌いな匂いではない。線香のように抹香臭くないのが良い。私も一つ息をして、天井の蛍光灯をぼんやりと見た。夏の匂いが消え去る頃、ようやく息がしやすくなる。そのことにたまらない罪悪感を抱き、私はここへ舞い戻るのだ。術師を辞めたはずの私が、まるで死に場所を探すように。
 やおら白昼夢のように記憶が重なり──私はとっさに目を閉じた。

「夏油くん、缶コーヒー飲む?」
「飲むよ。でもなんで缶コーヒー?」
「コーラ飲む顔してないから」
「なんだそれ」
 長椅子で脚を組み、携帯電話をいじっていた夏油傑に、私はそう声をかけた。
 黒づくめの学生服は四角張った詰め襟を首元まで立てていたが、彼から夏の暑苦しさのようなものは感じられない。窓の外では高い太陽が照りつけて、木々の影を濃く濃く、地面へと落としていた。
「どうも」
「この前のお礼」
「なんだっけ」
「私の命を救ったこと、忘れないでくれる?」
 冷たいコーヒーを手渡しながら、私は曖昧な表情を作る。二級呪霊の討伐先で、あわやビルから転落しそうになったところを助けてくれたのはこの男だ。
「ああ、そのこと。べつに忘れたわけじゃないさ。まさかコーヒーひと缶に自分の命を乗せてくるとは思わなくてね」
「それはまあ、そうだけど」
 彼が缶を受け取った瞬間、重さの分だけふわりと軽くなった手のひらを見つめ、思う。
「これくらいの重さじゃない?」
 私たち呪術師の命など、千年単位で繰り返される堂々巡りの中ではアルミ缶飲料ほどの質量しか持たないのではないだろうか。私のそんな軽口に夏油くんは少しだけ目を細め、それから普段よりもやや低い声で「もっと、重かった」とつぶやいた。
「ありがとう……?」
 私を抱えて逃げた時のことを思い出しているのなら複雑だ。これが彼の盟友、五条悟であるのならば他意を感じ「余計なお世話」と威嚇したいところだが、相手はあの夏油傑だ。
 あの、とはどの、かと聞かれると答えに迷うが、彼は、彼らは、私たち呪術高専の在学生の中でもひときわ異彩を放つ存在なのだ。異彩、などという言葉では些か不足するほどに、二人は何もかもが特別だった。
「本当は」
「え?」
「苦いの、あまり好きじゃないんだ」
 彼は小さな声でそう言って、言葉とはうらはらに缶コーヒーを一気に煽った。先ほどの声色と比べ、それはいくらか柔らかく、どこか幼さを含むようだった。
 今思えばそれは柔らかさでなく、脆さだったのだけれど──当時の私がそれに感づくことは、当然なかった。なぜなら彼は強く賢く、特別だったからだ。
「意外? 悟ほど甘党ではないけどね」
 そう笑った夏油くんの顔はもういつもの余裕に満ちていて、私は夏の蜃気楼を見たような心地になる。そして勝手なイメージでブラックコーヒーを勧めてしまったことを悔やみながら「今度一緒にカフェでも行こう。こんなしみったれた所じゃなくてさ」なんていうようなことを言った。そして言ったあとで、少しだけ頬を染めたと思う。私は涼しげな夏油くんとは反対に、夏の暑さを全身から放出させて、彼の向こうの青空を見上げていた。
 完璧なシルエットだ。背の高いその半身が目に焼きついて、彼に何かを告げようとした丁度そのとき──遠くから声が聞こえた。

「名前」
 ふと目を開ければ、そこはやはりしみったれた休憩所であった。
「大丈夫? トんでたけど」
「だい、じょうぶ。暑くもないし、寒くもない」
 硝子の声により過去から呼び戻された私は、自分の気を落ち着かせるためにわけのわからない確認をして、窓の外を見た。空が高い。秋の色だ。
「……夏油くんと、ここで話したことがある」
「へえ。彼、たしかにここによくいたね」
 私は手元のお茶を見つめながらその重さを確かめて、半分ほど胃の奥へ流し込む。甘すぎるほど甘い紅茶だ。とたんに吐き気を催して、震えそうな指先でペットボトルの蓋を閉める。苦いものが好きでない彼は──いったいどんな気持ちで"アレら"を飲み込んでいたのだろう。
「あの人は優しすぎた」
 夏油傑に対するありふれた所感を述べた私に対し、家入硝子は微笑み返す。
「あいつは優しいんじゃない。厳しいんだ」
 正反対のことを言う彼女を見て、特別といえば彼女もまた特別であり、そして誰も特別などではなかったのだと思い至る。十年後にして、ようやくだ。
「厳しい……」
「自分に、そして世界にね」
「それって、優しさと何が違うんだろう」
「哲学的なことを言うね」
 内へ向いた厳しさは、外へ向けた優しさの代償だ。彼はそれを単純に、逆転させれば良かったのだ。自分を許し、世界を憎めば良かった。
 彼はきっとどちらをも憎み、一人になった。彼の矢印は壊れてしまった。
「私にとって、あの夏は──」
 そう言いかけたとき、丁度遠くから聞こえてきた声に、顔を上げる。
 ひどいデジャヴだ。
「何してんの。同窓会?」
「あんたが来たから本当にそうだね」
 そういえばあのときも、間に入ってきたのは彼だった。五条悟の白い髪を見上げながら、私はそれを思い出す。返事をした硝子に向けて、五条は首を傾けいつもの笑みを作っている。
「同窓会な〜いつかちゃんとやろうな。ホテルとか借りてさ」
「そんな人数いないでしょ」
「そうだよ。居酒屋の半個室で充分だよ」
「まあまあ、同窓会で好きだった男の子に惚れ直してもいいんだよ〜」
 彼の軽口は止まらない。自分の顔に親指を向けながらそんなことを言っている。
「……もし再会したとしても、惚れ直すことはないのかもね」
 私は笑いながらそう言って、泣かないように目を閉じた。今が秋でよかった。けれど夏でも同じことかもしれない。あの気持ちは、きっとあの夏にしかなかったものだ。生きても死んでも、会えても会えなくても、殺しても殺されても、私たちは恨みっこなしだ。だからこうしてまたみんなで笑っている。

「ねえ、名前」
 帰りぎわ、敷地の境まで見送ってくれた硝子は、白衣のポケットに手を入れたまま私を小さく呼び止めた。
「あの夏って、どの夏?」
「わかってるくせに」
 私の夏は一つしかない。これから幾度の夏が来ても、そこにあるのは完璧な空白だ。
 硝子はまた微かに笑い、踵を返す。私の命は今どれくらいの重さだろう。きっと缶コーヒーよりも軽い。寂しいけれど、仕方のないことだ。

2020_11_17

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