novel2


様式美と山羊の骨

2020_10_10






 春から一人暮らしを始めた。
 ソファーの色を決め、カーテンの柄に迷い、家具のデザインにこだわり、ようやく出来上がったのは狭いながら居心地のいい、自分だけの城だった。壁の色が暗いせいでどことなく殺風景に見えた実家の子供部屋と違い、温もりに重きをおいたウッディなワンルームだ。通い始めた大学は慣れないことも多く、心身ともに疲弊したが、ここに帰り着けば安らぎを得られる。そんな場所を拠点にして、夢の新生活を始めるはずだったというのに──。
「どうしてこんなに骨ばかりなんですか?」
「口をきくな。息をするな。無闇に空気を震わせぬよう、物かげで這いつくばっていろ」
 私が友人である虎杖悠仁の心の中へ取り込まれたのは、そんな浮き足立った春の矢先のことだった。物かげと言われたところで、見渡す限り動物の頭蓋が積み重なるこの陰惨な心象風景に、隠れる場所などはない。居心地のいいワンルームとは対照的なこの空間が、一先ずのところ私の居場所になってしまったことは悲劇としか言いようがなかった。しかもそこには先客ならぬ、先住民いたのだ。
「頭が高い。俺の視界に入らぬ程度にへしつぶれられんのか」
 まさに地獄のルームシェアと言えるだろう。虎杖悠仁の通う呪術高等専門学校が、この世に蔓延る人ならざる呪魂の類を相手取る、特殊な施設であることは私も知るところだ。けれど彼自身の心根はとても潔く、このような心象を内包するような少年でないこともまた、よく知っていた。つまるところ、この骨々とした心休まらぬ光景はこの男の趣味であり、性根であるのだ。
「内装の趣味が合わない」
 ルームシェアにおいて一番のストレスは美的感覚の不一致ではあるまいか。およそ生き物の気配を感じさせない死の象徴であるためか、じめじめとした不衛生さこそないものの、いかんせん乾燥ばかりして肌に悪い。
 そんなことを考えている間にも、キンキンと耳元で金属のこすれるような摩擦音が鳴っていた。ここへ来てから何度となく聞いた音だ。
「ふん、あの小僧」
 虎杖悠仁の顔をした、似ても似つかぬ異形の男は、そう言って顔の刺青を歪ませる。
「小僧の中といえ俺の領域だ。邪魔者を殺せん道理はないのだが……よほどオマエを守りたいとみえる。何度首を両断しようとしても巧妙に防がれる」
「何度も首を両断しようとしてたんですね……」
 音が鳴るたびに殺されかけ、命拾いをしていたらしい私はごくりと唾を飲みながらその場へ座り込んだ。床にものを置くのが好きではない。フローリングが常に見えていないと落ち着かないのだ。潔癖症とは言わないまでも、それなりに几帳面である私はごつごつとした骨の上で所在をなくし、途方にくれた。
「おそらく瞬間的に、奴は生得領域のなりそこないを展開したのだろう。そこへオマエが巻き込まれた。だけでなく、瞬時に押し勝った俺の領域へとさらに取り込まれ、出口を失った」
「言葉の意味はほとんどわかりませんが、経緯はなんとなくわかりました。やっぱりここは虎杖くんというより、あなたの心の中なのですね」
「構造や階層の捉え方にもよるが、ここは確かに小僧の心。いや魂の中核だ」
 魂の中核にこのような男が居座っているというのに、ああも良心的だった虎杖くんはよほど心が強いらしい。私は魂どころか、こうして隣に座るだけでこんなにも疲弊しているというのに。
「小僧が気付いているのかは知らん。だが小癪にも、本能的にオマエの存在を感知・守護している」
「守護……」
「外であれば話は別だが、ここでは俺も本領を出せん」
 男はそう言って手のひらを軽く握り、また開く。言葉は不服そうだが態度は悠然としている。目の下の刺青がうっすらと形を変えた気がしたが、凝視することもためらわれ私はすぐに目を逸らした。
「それでいい。頭を垂れていろ」
 口調は極めてぞんざいであるのに、彼の言葉は逆らえない重力を伴うため身じろぎの一つもできない。
「小僧めは、オマエを探しているぞ。己の中へ匿っておいて阿呆だな」
 愉快そうに笑いながら、男は何らかを目で追っている。どうやらこの男には虎杖くんの視界や心境が手に取るようにわかるらしい。同じ心の中にいるのに、私にはそれらを全く感知できない。彼が常に退屈もせず屍上に座しているのはそのためだろう。
「そういえば、お名前はなんていうんですか?」
 キンと摩擦音が鳴り、私の首はまた両断を免れる。
「息をするなと言われた女が、名を問うだと?」
「……」
「胴を泣き別れにされたいようだ」
 今度は首でなく胴であったらしい。音が鳴るたびばらばらになる脳内の自分が、寒天のように細切れになるのも時間の問題だ。その前に虎杖くん、どうか外でなく内へ探しに来てください。




 空腹も眠気も感じないため、時間の感覚というものが薄い。唯一の手掛かりといえば、虎杖悠仁が眠っているときにだけ手持ち無沙汰になるらしい眼上の男が、夜の間はいかにも退屈というふうに肘をつくことだ。
「そこの。なにか余興でも催せ」
「よ、余興ですか」
 突然の無茶振りに驚きながら、私は自らの両手足を見る。身一つでできる特技などいくつも持っていないし、大学の新歓でウケたホーミーを披露したところで白けることは必至。私は悩んだ末に目を閉じて、ため息をつく。
「余興と言うほどではないですが、話をしてもいいですか」
「フム、良いが、無音より退屈なものであれば骨の下に埋めるぞ」
 物理攻撃ができないのなら窒息させるとでもいうのだろうか。彼はそう言って、大して期待もしていないというふうに首を傾けた。
「ふた月前に母が死にました。ひと月前に父が。虎杖くんと出会ったのは父の葬儀です。彼は私の家に巣食う "なにか" を退治して、結果私だけは死なずに済んだ。一人になったけど悲しくはないんです。人の不幸でお金を稼ぐ嫌な両親だった。お金があるはずなのに壁の色が悪くて、いつも辛気臭く見えるおかしな家でした。今思えば呪いというものがあれほど似合う場所もない」
「……」
「天涯孤独となった私は、晴れて夢の一人暮らしを始めました。親の遺産で部屋を借り、家具を揃えて、穏やかで充実した新生活が始まる予定でした。ああ、でも今気付きました。私は虎杖くんに助けられたのではない。だってあの呪いは、きっと何処かの誰かじゃなく、私自身が」
 そこまで話したところで、くらりと目眩がして首を振る。再び顔を上げ気付いたことは、霞んだと思ったのは私の視界でなく、周囲の空間そのものということだ。
「ん? なるほどな」
 男は何かを感じ取ったようにそう言うと、顎を上げ顔面に邪悪さを貼り付けた。
「小僧が自我を保てなくなるまで、そのくだらん話を続けろ」
「話を……」
「続けろ。己の心に匿ってまで奴が隠そうとした真実を、心の内から無駄であったと告げてやれ」
 くだらないと言いながらも、彼の顔は愉しげだ。目の下の刺青がいやらしく歪み、傷口のようにうっすらと開く。その奥にあるのは悪辣さをたたえるもう一対の眼球だった。私はとたんに息ができなくなり、話すどころか思考すら危うくなる。
「虎杖くん」
 けれど言わなければならない。優しい彼がどれだけ隠そうと、自分の心に嘘はつけない。彼の心が、決して嘘をつかないように。
「わたしが、呪った」




「呪いの発生源を辿ることって、意外と難しい。明確に呪詛師が絡んでるとかじゃない限り」
 虎杖くんはそう言って、斜め下の地面へと向けていた視線を私に合わせる。
 あどけないようで大人びた彼の表情が、その瞬間、少しだけ年相応の不安定さを見せた。不安定、いや、不安なのだろう。まだ高校生なのだから当然だ。彼を超人のように思っている私を含めた数々の人間が、彼をいつか大人でも子どもでもないものにしてしまいそうで不安だ。不安。私だってまだ学生なのだ。けれど世の中はそういった事情を考慮してはくれない。
「言っちゃ悪いが……恨まれてたんだろ、親父さんたち」
「恨んでた人は多いと思う。でも長い間、一番身近で、恨んでたのは私だから」
 恨みは吹き溜まり、練り固まり、形を成す。それは見えない私でも想像がつく。だとしたらあの家の壁の暗さも、両親の変死も、やはり私の呪いのせいだ。
「でもね虎杖くん。私は法に裁かれないから、明日からも善人として生きていける」
「……」
「おかしいよね。人を殺しているのに」
 通り沿いのカフェテラスでは学生やカップルたちが楽しそうにプラスチックカップを傾けている。私たちはそれを見ながら、歩道の段差に寄りかかった。
「俺は殺した。この手で、直接」
 虎杖くんの声はとても落ち着いている。けれどそれは、そこからもう動けないというような落ち着きだった。
「殺そうと思って、殺した。名前さんは? 殺そうと思ったの?」
「わからない。でも死んでほしかった」
 彼は手のひらを見つめている。私は自分のどこが汚れたのかもわからなかった。ただ、彼のほうがより可哀想だということにたまらなく辛くなり、そして安心した。靴の裏で砂利をこすり、もう一度礼を言う。助けて貰ったときに一度。そして今日もまた一度。その間、私は彼の中で守られていた。
「穴二つ、だ」
 帰りざま、どこからか聞こえた声がそう言った。聞いたことのある嫌な声だ。私は彼の顔を見上げることなく、別れを告げて踵を返す。虎杖くんの目の下の傷はやはりうっすらと開くのだろうか。きっとあの男は笑っている。つまらないと言いながら、愉しそうに。

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