good bye my amulet boy.
強い光を見ているようだ。
私は手のひらを額にかざし、指の隙間で目を細める。その向こうには空が見え、海が見え、広い広い世界が見えた。
「お前は頭がいいから、どこにだって行けるでしょ」
彼は出し抜けにそう言うと、駐輪所のコンクリートに一度二度、バレーボールをバウンドさせた。
日が落ちるのが早く、補講を終え帰路に着くころにはすっかり暗くなっていた。久しぶりに姿を見せた幼馴染みは、相も変わらず大きな体を、大きなジャージですっぽりと包み込みそこに立っている。近ごろますます体格が良くなったように思う。高三の春を迎えたとたんにぴたりと成長を止めた私と違い、彼の胸板は日に日に厚みを増し、成人男性のそれへと近づいていく。
「でも徹、世の中は頭のいい人だらけだよ。一体なに食べて生きてるんだってくらい」
「それはまあ……」
彼はしゅるりとボールを回し、眉をしかめ、目を細める。小学生のする白目のような顔になり、思わず笑ってしまう。せっかく端正な顔をしているのだからそんな表情しなければいいのにとも思うが、私は彼のそうした飾り気のなさが好きだった。
「どこの界隈だって自分より上の奴なんて腐るほどいるよ。そのまま腐ってくれたら楽なんだけど」
楽なんてしようともしないくせに、徹はそう嘯いて上を向く。上を見ればきりがないのは同じだが、そこに貪欲に食らいつく徹と、そんなものかと納得する私の間には確かな溝がある。
なにも自分を卑下しているわけではない。十代後半にして、自分の人生の目的地が定まっている人間の方がまれだろう。私にだって興味の対象くらいはあるし、そこへ向けて努力をする覚悟もある。ただそれは日常の延長で、想定の範囲内で、徹と比べてみればとても穏やかな道だった。
それゆえに、どこまでも、彼のことが眩しく見えた。泣けるほど羨ましく思えた時期もある。同時に泣けるほど、彼のことを信じていた。
「徹はバレーが好きだよね、本当に」
自分がどれほど燻り、停滞し、彷徨おうとも、彼はいつもそこで輝いている。同い年の青年に、そんなお守りのような感情を抱くのは無責任かもしれない。彼にだって迷いや葛藤はあるのだ。
「でも俺だって、バレー以外のこと考えてるよ。意外と」
心を読まれたような気になり、私はごくりと息を飲む。彼は明日ここを発つのだ。彼の向こうにずっと見えていた、世界の果てへ飛び立とうとしている。
「日本を離れるんだから、そりゃ大変なことだよ。バレーのことだけ考えられたら楽だけど、人間だからね。そうもいかない」
「……」
「お母ちゃんは背中押してくれてるけど寂しいだろうな〜とか。ほら俺末っ子で、姉貴たちみんな家出てるし」
徹はそう言うと、並べられた自転車を一つずつ目で追って、最後に庭の植木を見た。
彼の家は家族が多い。軒先に設えられたトタン屋根付きの自転車置き場には、もう使われていない子ども用の自転車が立てかけられている。徹が小学生のころに乗っていたものだ。あちこち錆びついているけれど、ちゃんと直せば姪や甥が乗れるのだろう。
「親戚のタケオ叔父さんは病気してるし、ばあちゃんだっていつ何があるかわからないしさ」
「うん」
「金だってかかるしね、日本にいるより」
「うん」
「憧れのコーチに拘らなくても、バレーは続けられるわけだし」
徹の声は淡々としていたけれど、真面目な彼がそれらのことを一つ一つ真剣に考えたことはよくわかった。どこの家にも存在する、けれど切実な問題だ。私たちはもうすぐ制服を脱ぐけれど、すべてのことを背負えるほど大人でなく、けれど自分の足で立てないほど子どもではない。周囲の助力と、自分の力量を見極め、上手に重心をとりながら歩いていかなければならないのだ。
「岩ちゃんの憎まれ口も聞けなくなるな、とか」
「……うん」
「お前にも会えなくなるな、とか」
短い相槌だけを打っていた私は、とうとうそこで黙りこくり下を向いた。
「でも、全部秤にかけても、ここに留まる理由にはならない。冷たい奴だと思う?」
「……思わないよ」
「ほんと?」
「本当に、思わない。何かを選んだとき、選ばなかったものを『捨てた』なんて思わなくていいんだと思う」
私は捨てられたものになんかなりたくなかった。これはきっと自己防衛だ。けれど彼を励ましたい気持ちだって本心だった。その輝かしい決断を、罪悪感のようなもので濁らせてほしくない。
「徹はバレーを選んできたし、これからも選び続ける。かっこいいし、眩しいし、冷たくなんかない」
「……」
「徹は私のお守りだよ」
これが今、私にできる告白のすべてだ。私が徹に対して思っていることの全部だ。愛でも恋でもないかもしれない。けれど私なりに大切な想いなのだ。
「海外行くけど、お前のこと忘れないし、それにずっと会えないわけじゃないし。そんな今生の別れみたいな顔しなくても」
「それはそうだけど」
「違う、違うな……俺が言いたいのは……」
今度は徹の方が逡巡し、しばらくのあいだ黙った。私は加速した心臓をどうにか落ち着けようと息を吸う。ゆっくり吸って、吐いたところで徹が大きく腕を組んだ。
「例えば俺は、きっとこの先一年半くらい岩ちゃんと会わない」
徹は本気で考え込んでいるとき、漫画のように腕を組む。そしてやっぱり人目をはばからず、整った口元をへの字に曲げるのだ。
「会ってもクリスマス休暇か、年末にちらっと顔見て、近況報告して、実家のみかんお裾分けして帰るとかそんくらい。でもそれって俺と岩ちゃんにとって何も困ったことじゃないんだよ。なぜなら……」
「なぜなら……?」
「俺と岩ちゃんだから。言ってることわかる?」
こくりと浅く頷いた私に、彼は続ける。
「お前だって、同じだろ。俺はそう思ってるんだけど。何も問題ないって」
どう? と強めの語気で問われ、私は思わず顔を上げた。上を向いたとたんに玄関の明かりが視界に入り、ぱちぱちとまばたく。冬の空気が目尻をかすめ、じんわりと熱が滲んだ。
「わかるよ……でもびっくりした。びっくりしたら涙でてきた」
「うわっ、なんで!?」
すぐそこにいるのに、手が届かないような気がしていた。
昔はすぐに触れたその体が、厚くなるにつれて別世界のように遠く思えた。
「なんでよ。届くよ。触ってみ」
突然の申し出に、勢い余って距離感を間違えた私の手のひらが徹のお腹にみっちりとめり込む。「グエ」とおかしな声が聞こえ、私は慌てて腕を引っ込めた。
「殴れとは言ってない」
「ごめん」
「でもわかったでしょ」
「うん」
「行ってくるから」
まぶたに溜まった涙の粒が白熱灯をきらきらとぼやかしている。「どした」と覗く徹に「なんかまぶしくて」と答えれば「乱視?」とトンチンカンな返しをされる。
「まぶしくて見えない」
「俺にはお前がよく見えるよ」
当たり前だ。あなたがこんなにも照らしているのだから。
近くにいる徹は眩しすぎた。でも今はそれがありがたい。これだけ光っていれば、地球の裏側にいたってよく見える。
目を開けて、手を振るのだ。広い海と空の向こうへ。