novel2
 



 答えの出ない事柄に、それらしきものを付け加え安心する。大人になるとはおそらくの所、そういうことだろう。曖昧な世界の中で不安定に揺れていた私たちは、このころ、正しく子どもだった。
 その揺籃が果たして何を育てたのかは、未来になればわかることだ。一つ一つと扉を開けるように確かめ、歩み、また一つ、ドアノブに手をかけて──。

 ガチャリと開けたそのドアを、夏油傑は動揺にまかせてそのまま外してしまいそうになる。
 握られたドアノブが自らの膂力によりみしりと嫌な音を立てるのが聞こえた。
「そういえば最近、寝落ちするって言ってたな」
 傍で呑気な声を出したのは、友人である五条悟だ。彼は大して驚いていないのか、それとも自分と同じくそれを表に出すまいと努力しているのか、普段とさして変わらぬ表情をしている。そして、ポケットに手を入れたまま室内へと無造作に足を進めた。前者だ。夏油はそう確信し、五条の肩を掴む。
「馬鹿か? よせ」
「なんでだよ。このまま寝たら風邪引くじゃん」
 ベッドの上に上半身だけをしなだらせ、健やかな寝息を立てている名前の体を覆うものは、下着のみだ。制服の上下を脱ぎ捨てたところで体力に限界がきたのか、女子用の学ランとスカートが彼女の横に落ちている。確かにこれでは夜更けまでに体を冷やすだろうが、かといって軽率な行動はとれない。
 夏油は繊細な判断の求められるこの状況下で、声を抑えることもせず、あろうことか彼女の素肌の肩を揺さぶろうとした五条に対し盛大な溜息をついた。こいつは任務時においても度々、こうした無神経かつ無配慮なスタンドプレイをすることがあるのだ。
「彼女の気持ちを考えろ。男二人に見られたなんて知りたくもないだろう」
「じゃ、どうすんの」
 近頃は疲れているため、部屋に戻り身支度をしている途中で寝てしまうことも多い、とは彼女の談だ。しかしそれを実際に目撃されたとあらば羞恥心はいかほどか。返事がなかったからといって、女性の部屋のドアを勝手に開けた自分にも非がある。配慮と保身の入り混じった夏油の脳内が零点五秒のあいだに下した決断は、至極まっとうなものだった。
「硝子に頼もう」
 彼はそう言うと五条の肩を掴んだまま部屋の外へと出て、細心の注意を払いながらドアを閉めた。針が落ちるほどの音も立てず閉められたドアに、特殊技能でも持ってんのか? と怪訝な目を向けた五条を無視し、夏油はもう一人の学友にメールを送った。
 すぐさまやってきた彼女が、無言で頷き部屋へ入っていくのを見て、ほっと息を吐く。
「名前〜明日のお昼だけどさ……ってそんな格好で寝たら風邪ひくよ〜」
「ん、しょうこ……わ、寝落ちしてた。恥ずかしい」
 ドアの向こうから聞こえてくる会話に二人は顔を見合わせて、それからのろのろと男子棟の方へと引き上げる。元から大した用事ではなかったし、週末の任務についての確認などは明日すればいいのだ。夏油はそう思いながら、目の裏に焼きついた彼女の体を、忘れたいような忘れたくないような曖昧な気持ちになった。そんな自分に、多少の焦燥を感じる。
「傑って、そんなキャラだっけ?」
 見透かすようなタイミングでそう言った五条に、夏油は反射ともいえる笑顔を作った。
「私はいつでも人権派だよ。学友の尊厳は守るべきだ」
「そう言いつつ、わりかしどいつも舐めてかかってんのがオマエじゃん。もしかしてさ……」
 五条はそこで一息間を空けて、夏油の顔を覗き込む。
「マジ?」
「は?」
「名前にマジかって聞いてんの。それなら俺だって無粋なことはしねーよ」
 煽りとも取れる五条の質問に、思わずそこらのチンピラのような声が出たことを自覚しながら、夏油は体勢を立て直す。この男の挑発に乗ったら負けだ。とくにこのようにわざと好戦的な態度を取ってくる場合には、乗って良かった試しがない。
「どうだろうね」
「はぐらかすなよ」
 不満をたれる彼の横で、夏油は首をすくめた。友人であるからといってすべてを晒す義理はないし、そもそも質問の意図が、自分の中にうまく落とし込めないのだ。
「オマエがはっきりしないなら、俺がいかせてもらおっかな」
「……どうしてそうなる? 悟は名前に惚れてるのか?」
「さあね〜」
 ご想像にお任せします、と舌を出した五条にさすがに苛立ち、立ち止まる。廊下を曲がれば自分の部屋だが、まっすぐ戻る気にもなれず宿舎棟中央の談話室で友人を睨んだ。
「悟」
「なんだよ。オマエも言わねえじゃん」
 この苛立ちが五条のせいだけではないことに、夏油自身も気づいている。真っ黒な窓が自分の姿が映しこみ、自問を促すようにぼやりと光っていた。
「隠しているわけじゃない。本当にわからないんだ」
「……」
「彼女に抱いているのが恋情だとすれば、そんなものはここでは無用だ。……性欲からくるちょっとした興味、程度なら私だって助かるんだけどね」
 独り言のように吐露したそれはあまりに赤裸々であったと、言ってから思う。
「オマエ……真面目か」
「むしろ不真面目だろう」
「そんなんどっちだって良いんだよ。要するに、あいつが欲しいか欲しくないかだろ。欲しいなら惚れてんだろうし、人に取られてムカつくなら尚さら、惚れてんだろろうよ」
 一笑に付されるかと思いきや、五条はむしろ呆れたようにそう言って頭を掻いた。その逆はよくあるが、これは稀なパターンだ。
「名前は物じゃない。その考え方もどうかと思うよ」
「そう言いつつさ、傑、さっきから人殺しそうな顔してんぞ。無自覚な所有欲の方がよっぽどタチ悪いと思うけどね〜」
 どうしてこの男は、斜に構えたサングラス越しから人の本質ばかりを見抜くのだろう。夏油は目を閉じながら、心底食えない友人だと辟易するとともに感心した。その通りだ。先ほどから自分は五条に敵愾心を向けている。子供じみた対抗心と言ってもいい。
「まあ、とにかくだ。煮え切らないなら俺がいく」
「オマエは結局なんなんだ、悟」
「俺は単純に、顔が好み。わりとね」
 悪びれなくさらりと言いのけながら、五条は止めていた足を進め、角を曲がっていく。仕方なしに夏油もその後に続いた。
「聞いた私が馬鹿だった」
「んでだよ。顔から入るのが不誠実とは限らないだろ」
「顔なんて所詮記号だ。悟は、名前と夜蛾先生の中身が入れ替わっても気にならないのか?」
「極端なんだよ! じゃあオマエは名前の顔が夜蛾センでも抱けんのかよ!?」
「極端なのはどっちだ!」
 無意味な論争はだんだんと白熱し、互いの胸ぐらを掴んだところで廊下に大きな影が落ちる。
「俺がどうした」
「おやすみなさい」
「良い夜を」
 担任の教師がいつのまにか横に立っていたことにも気付かず、幼稚な言い争いをしていたことを恥じながら夏油は会話を打ち切った。同じく大事になっても面倒だと判断したのか、にこやかに夜の挨拶をした五条と別れ、各々すみやかに部屋へと戻る。学生服を脱ぎながら、肉体と魂の命題をここまで低俗に貶められることもないだろうと、夏油は自分自身に呆れた。
 そうしてまた思い出す。ずいぶんとしなやかな体をしていた。腕に残っていたのは前の任務の傷だろう。近頃、上がり続けている硝子の反転術式の精度により、あれもいずれ消えるのかもしれない。体の傷はこの先、残らなくなるだろう。あえて治癒を拒まぬ限り。
 それがいかにありがたいことかを知りながら、夏油は不安定に揺れる心で考える。彼女はきっと自分たちよりも弱い。いつか失うこともあるのかもしれない。それまでに、触れられるだろうか。
 そこまで考え、夏油は笑った。答えの出ないことばかりだが、そこには確かな答えがあった。
 五条悟には礼を言わなければならないのかもしれない。けれどあれは、単に己の欲求に任せて対抗心を燃やしていただけなのかもしれない。友人のことはいつまでたってもよくわからない。きっとこの先もそうなのだろう。

 答えの出ない事柄に、いくつかの確信を得て少しずつ大人になる。
 それが大方、出揃ったときに青春は終わるのだろう。何を育て、どこへ向かうかは未来のみぞ知る。答え合わせは、いくらか物騒なものになりそうだ。
 仕方のないことだろう。私たちは呪いとともに生きているのだ。


20210101

- ナノ -