novel2
 



 椅子の上に立てていた右脚を、彼がとっさに下へ降ろしたことには気づいていた。
 けれど私は、見て見ぬふりをして挨拶をする。
「おはよう夏油くん」
「おはよう。今日は早いね」
「昨日、早く寝すぎちゃって」
 無難な会話をかわしながら、彼の柔和な笑みを受け流す。この学校に編入してから数ヶ月が経つが、前一列しか席のないがらんとした教室には未だ慣れない。必要分しか置かれていないし、毎年そう増えることもないらしい。業界の慢性的な人材不足がうかがえ、己の身に重責がのしかかる。打って変わって開放的に、机上に脚をほうりだしているのは五条くんだ。その横で、夏油くんは手元の本に目を落としていた。
「何読んでるの?」
「ちょっとした実用書だよ」
「ちょっとした……」
 と、言うわりには重厚な装丁だ。用法によっては凶器になり得る分厚いハードカバーに栞をはさみ、彼はぱたりとそれを閉じる。
「文化、風習、法則、概念……人の術式を読み解く上で、そういった知識は多いに越したことはない。物事のパターンというものは無限のようでいてある程度の限りがある。これはそれらを掴むためのヒントさ」
 なるほどと頷きながら、以前、夜蛾先生から聞いた座学の内容を思い出す。呪術は血筋と才覚ありきと思われがちだが、個人にできる努力はいくらでもあるようだ。
「かぁー、朝から優等生ぶんなよ」
「自己研鑽に朝も夕もないだろう」
 二人の態度は対照的だ。けれどどこか似た雰囲気でもある。それを興味深く思いながら鞄を置くと、口元にわざとらしく手をかざした五条くんがこちらへ向けて長身の背を傾けた。
「騙されんなよ名前、こいつはオマエが思ってるよりずっとガラわりぃから」
「悟」
「……だとしても、五条くんには言われたくないと思うけど」
「いやいや、俺と張るね。余裕で」
 牽制するように呼びかけた友人の声を無視して、五条くんは軽い調子で話を続けている。自らの素行の悪さを否定しない彼の目は、サングラス越しでもわかるほど常に爛々と光っている。造形が端正であるためか、その鋭さはかえって際立つようだ。
「ボンタンなんか履いてるからだよな。この前も街でタチ悪いのに絡まれてさ」
「……悟」
「正当防衛とか言って無言でボコっちゃってんの。引くわ〜」
「悟、ちょっと表へ出ようか」
「何が "出ようか" だよ。いつもの威勢はどうしたー?」
 煽りに煽る五条くんのえげつなさもさることながら、席を立った夏油くんの背後にも相応の禍々しさが漂っている。呪霊を操る彼の術式が一度発動されれば、周囲もただでは済まされない。加えて相手をするのが呪力底なしの五条悟ともなれば、表へ出たところで校舎ごと破壊されかねないだろう。どうしたものかと呆気にとられながらも、成す術なく出しかけた筆箱を握りしめていると、廊下に人の気配がした。がらりと音を立てて扉が開くと同時、二人は瞬時に距離をとり、力を抜く。
「なんだ硝子か」
「なんだとは何。ていうか私血圧低いから、朝から騒がないでくんない」
 二人との付き合いの長い彼女にとって、それはある程度見慣れた光景であるらしく、硝子はそう言って淡々と四つ目の席に着いた。続けて夏油くんも座り、最後に五条くんが長い脚を折りたたむ。
「失礼。確かに大人げがなかった」
「な? ヤバイだろこいつ」
 こうして始まった一日は、厳しい実践と小難しい座学に追われ終わっていく。命をかけた任務とは比べるべくもないが、粒ぞろいの天才、もとい問題児たちと席を並べることもそれなりにハードだ。

 連日の疲れからか、近頃は自室で制服を脱いだ瞬間に、気づけば寝落ちしていることも多い。自ずと早くに目が覚めるため、朝の境内をぐるりと散歩してから校舎へ向かうことが習慣となっていた。敷地内を満たす荘厳な空気はしんとして心地良く、以前いた都外の私立高校のそれとはまるで違っている。無数の在校生や卒業生、および学校関係者らの情念渦巻くその場所は、今思えばまさに呪いの温床であった。
 感情から生み出される怨や念の類をコントロールし、呪力に変える私たちは、では、それらに振り回されることがないのだろうか。
 おそらく答えは──。

「おはよう」
 教室へ入るとまだそこには一人しかおらず、例のごとく穏やかな笑みを浮かべた夏油くんが姿勢良く座っていた。挨拶を返し、私も速やかに席に着く。前の学校でも使っていた缶ペンケースを机に出し、私はそうありもしない予定を書き込むためにスケジュール帳を開いた。なんとなく、手持ち無沙汰な時間を作りたくなかったためだ。
「なんか、怒ってる?」
 彼がそう尋ねたのは、私が二ヶ月先までページをめくり祝日の数をチェックしているときだった。
「怒ってないけど」
 否定に多少の怒気がこもってしまい、私は困り果てる。怒っていないのは本当だ。けれど確かに、愉快ではない。
「夏油くんは」
「……」
「私には全然、素を見せてくれないんだなと思って」
 他の二人よりも付き合いが浅いのだから、当然のことなのかもしれない。けれど彼らと一緒にいれば、自然と夏油くんの意外性や、素の態度くらいは目に付いた。それなのに、どうして私には一貫して優等生的な態度を貫くのだろう。
 私の言葉を聞いて、夏油くんは一瞬のあいだ、見たことのない顔でまばたきをした。すぐさま反論のしようもない完璧な返答をされるか、するりと躱されうやむやにされるかのどちらかだと思っていたため、その時点で意外ではあった。彼はそれからわずかに眉を下げ、神妙な顔で前を向く。何も書かれていない黒板を見つめながら、夏油くんは言うべき言葉を探していた。その仕草はまるで男子高校生のようだ。まさに彼は男子であり高校生なのだが、私は初めて夏油傑が自分と同い年の青少年であることを理解した。
「……知られていることは知ってるよ。そこまで私も馬鹿じゃない」
「じゃあなんで」
「少しでも、良いところを見せたかったのかもしれないな」
 今度は、私が黙る番だった。彼の答えがあまりにもストレートなものだったからだ。私はスケジュール帳を両手で閉じて、黒板を見て、それから窺うように横を見上げる。
 そんな私の反応にがぜん余裕を取り戻したのか、夏油くんはうっすらと目を細め、首を傾けた。年相応のあどけなさはすでになりを潜め、正体不明の涼やかさが場の空気を操りはじめる。飲まれまいと謎の対抗心を燃やした私は静かに、けれど深く息を吸い込んで、言わずにいようと思っていたことを告げる。
「そんなふうにしなくても、夏油くんの良いところくらい知ってるよ」
「へえ、例えば?」
「……この前みんなで買い物行ったとき、向かいの席から私と硝子の脚盗撮してた奴、あとで半殺しにしたこととか」
 多少なりとも色気づいていた空気は私の発言により一気に温度を下げ、横を見れば涼しげどころか、顔色を悪くした夏油くんが目を閉じて俯いていた。
「あー……引いた?」
「だから、引かないってば。知ってるし、引かない」
 その様子がおかしくて、彼の余裕を崩せたことが嬉しくて、思わず笑う。
「ありがとね」
 覗き込んで礼を告げると、彼はまた少し黙ったあとで、ゆっくりと口を開いた。
「名前、今日の夜だけど」
「はいはいはい授業が始まりますよ〜」
 あらゆるデリカシーをその能力と引き換えに宇宙の果てへ捨ててきたような男の声がして、私たちは会話を止めた。一瞬だが、息も心臓も止まっていたと思う。
「……まだ八時なんだが」
「今日から朝の読書タイムが必修になったんだよ!」
 五条悟は適当なことを言いながら週刊少年雑誌を膝に乗せ、なぜか私たちの間にがらがらと椅子を移動させた。意図はわからないがとても邪魔だ。そう思ったところで、純粋に邪魔をすることが目的なのだと気づく。
「騙されるなよ名前、こいつ見た目よりムッツリだから。まあ見た目もムッツリだけど」
「……悟、読書はやめて朝の接近戦タイムとしようか」
「名前、しばらく逃げてたほうがいいよ」
 立ち上がる二人の男と、教室へ入るなり出ていくことを勧める少女。私は後者の言葉に頷き、足早に教室をあとにする。何かが壊れる音がして、夜蛾先生の怒号が脳裏に浮かんだ。
「一限サボる? 二人のせいだから怒られないと思うよ」
「……屋上でもいこっか」
 そこは彼女の好む場所だ。換気がよく煙が服に染みないらしい。天才、もとい問題児たちに囲まれながら、私は今日も学園生活を生き延びる。
「面倒くさいでしょ。夏油傑」
「でも結構、かわいいところもあるよ」
「趣味わる。知ってて言ってる?」
「多少は」
 内に秘めた彼の闘志を知っている。それがわりかし過激であることも、過激さを中和するためにいつでも淡々と振るまうことも。
 けれどそれ以上は、まだ何も。これから知って、知りすぎて、いつか戻れなくなる日を楽しみにしている私は確かに趣味が悪い。ガラスが割れる音がして、私たちは少女のように叫びながら屋上へと駆けた。

 おそらく──答えは、否だ。
 どれだけの情念をコントロールしようとも、私たちは心に振り回されながら惨めたらしく生きる。そうでなくて、何が青春だろう。


20201206

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