meta-ninchi
及川徹は悩んでいた。
何ごともそつなくこなす彼らしからぬこの悩み、隣でしかめっ面をしているガサツな同級生からしてみればさぞ些細なことに思えるだろう。
けれど彼にとっては一大事なのだ。なにしろこの男は物心ついたころから、女性に困らされたことはあれど、女性に困ったことなど一度としてないのだから──痛い痛い痛い!
「くせえモノローグすんな。全部声に出てんぞ」
「えへ、漫画の出だしっぽかった?」
つらつらと心情を語る俺の背中をどつきながら、我が幼なじみはいつものように眉を吊り上げている。最近まで生まれつきこの形なのかと思っていたけれど、俺と話していないときにはやや角度を緩めていたりもするため、どうやら俺専用の仏頂面であるらしいことに気付いた。岩ちゃんが注目されるときは大抵俺がそばにいるんだから、直さないと怖がられるぞと思ったけれど、言えばますます怒りを買いそうだったため黙る。それに、そんなことよりもはるかに重大な悩みの種が今の俺にはあるのだ。
「なんなんださっきからブツクサ鬱陶しい。なんかあんならハッキリ言いやがれ」
「いやあでもさ、宮城を舞台にバレー漫画を作るとしたら百パー主役に据えられるだろう俺が、こんなことで悩むのもバカらしいというか……」
「アホか。オメーみてえなのはせいぜい他校のムカつく先輩だわ。そんで意外と影山みたいなボケが不器用な主役になったりすんだよ」
「なにそれ! ぜったい流行んないよ、あんな天才肌のおバカが主人公の漫画!」
急に出てきたクソ生意気な後輩の名前に口を尖らせながら、右から左へ視線を走らせる。商品棚には見慣れた菓子パンやおかずパンがずらりと敷き詰められていた。
「で、結局なんなんだよお前の悩みって」
「だからつまり、今日の弁当のデザートにこの牛乳パンを買うか、それともたまにはクリームあんぱんを買ってみるかってことなんだけど痛い痛い! 嘘です嘘です!」
再びぐいぐいと食い込んだ肘鉄に、すかさず一歩距離をとる。
「いやまあ、嘘ではないんだけど。……あいつ、どっち好きかな」
二つの袋を交互に見ながら言ったあとで、急に恥ずかしくなった俺はとりつくろうように言葉を濁した。
「いやほんと、バカらしいよねごめん」
「……バカらしくはねーべや」
てっきり一蹴されるだろうと思ったのに、岩ちゃんはそう言って腕を組んだ。今度は肩をどつかれることもなく、眉毛の角度も心なしか緩んで見える。
「悩め悩め。お前も少しはそういうことで悩んで苦しんで禿げろ」
「それは言い過ぎじゃない!?」
珍しく励ましてくれるのだろうかと思いきや、いつも以上の檄を飛ばされ思わず声を張った。そんなやりとりをしている間に、購買部の入り口を数人の影が塞ぐのが目に入る。ドアに頭を引っかけんばかりのあの巨大集団は、よく見るまでもなく我がバレー部員たちだ。
「おーす。どしたどした。なんか及川が禿げ散らかしたとか愉快な話が聞こえてきたけど」
「禿げてねーよまだ!」
「そういやこの前及川に振られたB組の女子、野球部の二年と付き合い始めたらしいぞ」
「まじ!? そんなん聞いてないけど俺!」
「誰が振った男に報告するかよ。しかしそれはいい選択をしたな」
「ウソ!? そういうこと言う?」
「うるせえ」
ツッコミ体質の自覚はないのに、部員たちといるとどんどん声が大きくなる。彼らはたびたび俺の性格を指摘するが、そんな俺をいじり倒しているんだからお互い様だと思う。
「俺が振ったのにはちゃんと理由があるし……」
俺はそう呟きながら、手元のクリームあんぱんをわし掴みレジへと向かった。買い終わり戻ってくると、友人たちはどことなく薄い目つきをして「どんな理由だね及川くん」などと聞いてくる。岩ちゃんめ何かを吹き込んだな、と察したが、考えてみれば今さらこいつらに隠すことでもない。俺は唇を突き出しながら「好きなやついるし」と答え、ビニール袋を一回転させる。
「それって名字?」
「……そうだけど」
俺なりに思い切って打ち明けたというのに、彼らはさらに目つきを悪くして、哀れむようにこちらを見た。
「お前ようやく自覚したんか」
「アホだな」
「五千年遅え」
怒涛のダメ出しにぐっと喉が詰まる。たしかに言われてみれば、俺は一年の頃からあいつに近寄る男どもの悪口ばかり言っていたし、あいつから「クラスの男子に告白された」と相談をされたときには全力で後ろ向きなアドバイスばかりをした。おかげで部員たちからはまた性格が悪い、小賢しいだなんだとさんざん言われたが、今思えば大人のふりをして背中を押したりなんかしなくて本当に良かったと自分を褒めたくなる。
「いや、おっしゃるとおりですよ……でもさ、自覚したら自覚したで……なんか積もり積もってたものが一気にドバアンと」
「襲いかかるなよ」
「頼むぞキャプテン」
「エロ本貸すか?」
「お前ら真面目に聞けよ!」
人の恋路なんていわばお手軽なエンターテイメントのようなものだ。俺だって部員の惚気を聞かされたりなんかしてるときは、しょうもない野次を飛ばしたりもする。けれど自分を軸に考えてみればまったくこれは笑えない話だ。湧き上がるこの衝動は、決して性欲なんていう単純なものではないのだ。独占欲と庇護欲と所有欲をぐちゃぐちゃに混ぜて罪悪感を足したようなやっかいな感情に、爽やかさなんていうものは全くない気がする。俺の性格が悪いせいだろうか?
「そうだろ」
心を読んだ幼なじみに頷かれ、俺の喉はまた詰まった。
恋をすると食欲がなくなるのは周囲に図星を突かれるからだろうか。なんだか違う気もしたし、そもそも恋をしてもまったく食欲が落ちない俺は、手にしたパンを開けてしまおうかと迷い──止める。
「何見てんの」
くすくすと笑うたび、ポニーテールの毛先が揺れる。
俺は窓から顔を出して、彼女の横顔を覗き見た。陽の当たる校舎の壁に寄りかかりグラウンドの方を見ていた名字は、背後から現れた俺に目を丸くする。
「及川」
「ご機嫌だね」
「ゆうな達が遠くから変なことするから」
彼女のクラスは午後から体育のようだ。高飛びマットの準備をしている友達を遠目に見ながら、彼女は楽しげにしている。あまり体の強くない名字は見学をすることが多いけれど、その頬にはうっすらと赤みが差していたためほっとした。
「これさ、食べきれないからお前食べていいよ」
俺はなんとなく気恥ずかしい気持ちになって、彼女の鼻先で菓子パンをゆらゆらと揺らした。もっと優しく言うつもりだったし、これではまるで餌付けのようだと思ったが、鳥だって虫だって意中の相手を口説くときには手土産を持参するというのだからある程度合理的な戦法に思える。
「え、いいの? ていうか及川でも、食べきれないとかあるんだね」
彼女は不思議そうに首をひねり俺の顔を見つめた。菓子パン一個分と少しの距離で、眉を寄せている名字はクリームあんぱんなんていうものよりもさらに甘そうだ。
「具合でも悪いの?」
「い、いや。めちゃくちゃいいよ」
「めちゃくちゃ?」
「よすぎてなんか熱出そう」
「意味わかんない」
俺は半分パニックになりながらも、じっと名字の顔を見た。黒目がでかいな、とか前髪なんでいつもちょっと丸まってるんだろ、とかそんなことを考えながら半歩、下がる。
名字はようやくパンを受けとると、俯いて少しのあいだ黙った。
「今日は牛乳パンじゃないんだね」
「あー、たまにはね」
なんだか好意が口から溢れそうだ。今この場で告白をしたら彼女はなんて言うだろう。そのような煩悩にまみれまくっていた俺の耳に「好きなんだけど」なんていう言葉が飛び込んできたものだから、思わず「は!?」と大きな声を出してしまった。
「牛乳パン」
「ああ!! パンね!!」
「声大きい」
今度は彼女が半歩下がって、居住まいを正した。体調が思わしくないときに耳元で大声をだして悪かったと反省をする。
「……前から好きだっけ」
「好きだよ」
「フーン」
「及川が、好きだから」
俺の頭はまだろくな働きをみせない。好き? 俺が牛乳パンを? 俺がお前を? それとも、お前が俺を?いや、俺のパンを? 俺がお前で、お前が俺で……。
「……そうそう……俺は牛乳パンが好きだよ」
自分の心を整理するように、パン相手に告白をしてみるがもちろん事態に進展はない。しかし落ち着いて考えれば考えるほど、今のは聞き逃せない文脈だ。「ありがとね」と言ってチャイムとともに手を振った彼女の耳も、心なしか赤い。見学をするくらいだし熱があるのかもしれない。
振り向けばそこにはパックジュースのストローをつまらなそうに咥えている部員達がいて、おのおの「すごく辛い風邪にかかってほしい」「毎日ウンコ踏め」「バレー以外の全長所を失え」などと思い思いの意見を口にしていた。
言い過ぎじゃないかと思ったが、俺はうまく反論もできずに口ごもる。やはり俺に主人公は荷が重いのかもしれない。少なくともラブコメのようなものは無理だ。スポーツ漫画のライバルキャラあたりを張れるよう、今日も部活に精を出すとしよう。