閑話休題(八戒編)
そこには、悄然と空を見上げている八戒がいた。珍しく一人で、ただじっと月を見ていた。暗闇の中にぽっかりと穴が空いたような真円の月は、煌々と照りながら、まるで優しく見守るかのような光を地上に落としていた。
名前を呼ぶと、八戒はゆっくりと横顔を見せた。
「ああ、延朱でしたか」
「こんなところでどうしたの?八戒」
「――延朱を待ってた、なんて言ったらどうします?」
八戒は少しだけ首をかしげて目を細めた。その姿に延朱は思わず釘付けになった。
淀みのない動きは女顔負けで、はんなりとした姿は艶かしささえあった。
そんな八戒に自分を待っていた、と言われてしまえば、延朱と言えど恥ずかしくならないわけがない。
「なっ、なん、」
「なんて、冗談ですよ」
動揺しながらも返答しようとして口を開けた延朱をからかうようにして笑うと、八戒は空を見上げた。
「ここを通りかかったら、ほら。あんまりにも綺麗だったもので」
八戒が指差した空には闇夜にぽつんと浮かぶ白い月があった。乾いた気候のお陰か、淀みのない空気の中、クレーターまでもくっきりと現れているそれは普段みる月よりも、見とれるほどに美しかった。
「延朱、こちらに」
「――ありがと」
促されるままに延朱は八戒の隣に座ると、二人は一緒になって空を見上げた。
「……月が、綺麗ですね」
確かめるようにして今一度言った八戒を、延朱は瞬きをしてしばし見つめるとクスリと笑った。
「どうかしたんですか?」
何か可笑しいことを言ったのかと八戒は困惑した表情で訊いた。すぐに延朱は笑ったことを謝ると八戒を真っ直ぐ見て言った。
「似合うなあと思ったの」
「似合う?」
「ええ。前の世界にいた文豪が言った有名な愛の言葉を思い出しちゃったの」
「あ、愛の……ですか?」
八戒は予想していなかった答えに内心ギクリとした。そんな八戒に気づくことなく延朱は話を続ける。
「ええ。『月が綺麗ですね』って、さっき八戒が言ったのがまさにソレよ。『愛してる』って言い方は直球過ぎて美しくないから『月が綺麗ですね』にしなさいって、教えていた生徒に言ったそうなの。その文豪の時代はまだ『愛』という言葉自体が一般的ではなかったからそう言ったっていわれているわ」
「それで、『愛してる』の表現が、『月が綺麗ですね』?」
「初めは私もわけがわからなかったわ。でも、その言葉の前に『貴方と一緒にいるから』、って付けると――」
八戒は感嘆して小さく「なるほど」と答えた。
珍妙だと思っていた言葉が、その一言が付いて腑に落ちたからだ。
貴方と一緒にいるから、月が綺麗ですね。逆を返せば、貴方がいなければあの月が綺麗に見えないということで。
つまりは、ずっと一緒にいて欲しい、ということなのだろう。そう解釈すれば、愛の表現だと言うことも頷くことができた。
「綺麗な言い回しですね」
「やっぱり八戒もそう思う?」
「はい。でも、僕には似合ってないと思うんですが」
「あら、そうかしら。八戒って悟空みたいに苦しいとか、辛いとかいう感情は直接出すタイプじゃないでしょう?どっちかと言えば内に秘めるタイプだし。そんな奥ゆかしいところが似合ってるなって、思ったのだけれど……もしかして嫌だった?」
「いえ、そういうわけでは――」
確かに自分でも感情を表に出さないようにと八戒は心掛けていた。負の感情は勿論だが、一番押し殺しているものを曝すことは出来なかった。
そんなことをしてしまうと、燃え盛る想いを隣にいる小さな体にぶつけてしまいそうになるからだ。
好きだという気持ちまで隠していることに延朱は全く気付いていないだろうが、掠めるようなことを言われたことに八戒は息を詰まらせた。
もし今、それを口にしたらどんな返事がくるだろうか。どんな表情を見せてくれるだろうか。馳せる想いがいつの間にか言葉となって唇から発せられていた。
「今夜は、月が綺麗ですね」
「――そうね」
八戒の真意を知ってか知らずか、延朱は同じように何の気なしに空を見上げた。
「月が綺麗ですねェ」
もう一度八戒が同じトーンで言うと、ようやく気付いたのか延朱は横を見た。八戒は月を見ることなくじっと延朱を見てうっすらと笑みを浮かべていた。
ここまでくれば、どれだけ鈍感な人間でも気付くに決まっていた。延朱は湯気を頭から出さんばかりにぶわっと顔を真っ赤にしてわなわなと震えると、八戒を指差した。
「――あっ、あなたわざとやってるわね?」
「月が綺麗ですね」
「やめ、やめなさいよ、ばか!」
寿命が縮む思いで八戒はほんの数センチだけ延朱に近付いた。それだけで胸の鼓動が早くなって、聞こえてしまうのではないかという緊張感が襲う。思考がうまく働かなくなっていることにも気付かなかった。
余裕がないことを必死に隠していつもの笑顔を作っていると、こちらも必死に顔を隠していた延朱が声を荒げた。
「そ、そういうことはねっ、本当に大切な人に言うものでしょう!?からかわないで頂戴!」
からかわれていると思ったのか、延朱はぶんぶんと伸ばした人差し指を上下に振った。
「いやあ、延朱が面白くって」
八戒が悲しげに笑ったことに延朱は気付いていなかった。
あの話をした後にその言葉を使っても、まるで真実味がないことはわかっていたものの、やはり伝わらないのは辛いものがあった。だからと言って、こんなことで想いが消えるはずもなく。むしろ気付かれなかったことが、八戒の気持ちをさらに膨れ上がらせた。
「――僕が、いつ貴方のことが大切じゃないなんて言いました?」
「え?」
突然真顔になった八戒に延朱が戸惑っていると、目の前に軽やかな鈴の音とともに見慣れたものが差し出された。
「えっ、え?」
「はい。落ちていたんで、拾っておきました」
八戒の掌にはなくしたはずの髪飾りがあった。
驚いて髪飾りと八戒を交互に見ると、八戒の表情はいつも見せる笑顔に戻っていた。
「もう無くさないで下さいね」
「ありがとう、八か、」
差し出された手から受け取ろうとした延朱だったが、手を出した途端に八戒の手はひょいと掠めて頭上にあった。
「誰が返すって、言いました?」
「は、八戒?」
返してもらえるとばかりに思っていた延朱の手は行き場を失って宙をかいている。
「実は僕、物凄く怒ってたんですよ」
唖然としている延朱に、怒りとは無縁の笑顔を向けながら八戒は言った。
「あの時、貴女は僕を庇ってあの男に捕まりましたよね」
あの時と聞いて延朱はすぐにカミサマに捕まったときのことだとわかった。
「あれはー、ですね……体が勝手に、」
「動いたから仕方ない、なんて言わないで下さい」
「……ご心配、おかけしました」
延朱は素直に頭を下げた。八戒はふう、と息をつくと俯きながら延朱の手を取った。
「本当に怖かったんですから」
「怖かった……?」
言いながら、八戒は延朱に髪飾りをゆっくりと握らせた。
「初めは身勝手な行動をした貴女に激怒してたんですよ。そりゃもう、悟浄以上にぶん殴ろうと思ったくらいです」
「そ、そこまで……」
「でも、それ以上に、貴女と居られなくなること方のが怖くなりました」
髪飾りを握らせた手を、八戒は両手で包んだ。
「会えなくなることが、怖かった。話せなくなるのも、笑いあえなくなるのも……こうして触れることが出来なくなることが、怖かった」
包んだ手に少しだけ力が入ったことに気付いた延朱は八戒の顔を覗いた。眉尻を下げて目を細めている八戒の顔はどこか寂しげに見えた。
「もう、どこにも行かないで。大切なんです。延朱のことが」
りんと音を鳴らして、髪飾りは延朱の手と共に八戒の額に寄せられた。
好きだと口にはしなかった。言えば今の心地よい関係が変わってしまうかもしれないからだ。ただ特別だということだけは知っていて欲しかった。
「……自分からはどこにも行ったりしないわ」
数秒後に聞こえてきた声は八戒に顔をあげざるを得なかった。
「私からは、って――」
「あの時と同じ事があったら、多分また同じことをすると思うの。それがもし、貴方と離れることになったとしてもよ」
今度は延朱が八戒の両手を優しく握った。
「だって無理だもの。私も貴方が大切だから……大切だから守りたかった。あの時も、そしてこれからも」
戸惑う八戒を安心させるかのように延朱ははにかんだ。
「それでね、思ったのよ。貴方が万が一……万が一ね?そんな状況になった場合よ。私は絶対に貴方を迎えに行くわ。そりゃあ、どこまでも、地獄の果てまでも追いかけるわよ。死んだって行くんだから」
「―――助けに来る人が死んでたら、矛盾しません?」
「あら、でも貴方たちは死ぬ覚悟であそこに来てくれたじゃない。まあ、目当ては私かカミサマか経文かは知らないけれど」
延朱に真っ直ぐに射抜くように見つめられ、八戒は息を飲んだ。
「だからね。貴方と同じように、何があっても何度でも、命をかけて貴方を助けに行くわ。この髪飾りに誓って」
契りを交わすように二人は両手を握り合った。掌の中で、また鈴が転がり鳴った。
思わぬ言葉に八戒はぽかんとしていた。いかに延朱のことを大切に思っているのかを伝えようとしたのに、まさか言いくるめられてしまうなんて予想外のことだ。
それでも延朱が自分をここまで思ってくれていた事があまりにも嬉しくて、気持ちが高揚してきて顔が熱くなった。八戒は見られないように片手で顔を隠す。
「あーもう。本当に貴女って人はどうしようもない程頑固ですね」
「そんなことないわよ。八戒には敵わないと思うけどなあ」
「それはないです。ていうかおかしくないですか?あれだけ僕が貴女が大切だから無茶しないでって言ってるのに、それはできないって即答だなんて」
「しょうがないじゃない。はい、って言ったら嘘をつくことにになるもの」
「出来れば嘘偽りなく、はいって言って欲しかったですけどね――。まあ貴女がそこまで言うのであれば、貴女に何かあった時は僕も死ぬ覚悟で助けに行きますよ。だから覚悟しておいてくださいね」
「助けにきてもらう側が覚悟いるって、どんな状況よ……」
「それは悟浄を見ていたのなら自ずとわかるはずです」
脅しにも聞こえる八戒の言葉に延朱は顔をひきつらせた。それを横目に八戒はゆっくりと立ち上がった。延朱とは手を繋いだままだ。
「さて、もう戻りましょう。実は僕が部屋の鍵持ってるんですよ」
「え、じゃあ三人は部屋から出られないじゃない」
「大丈夫じゃないですか。悟浄以外は子供ですからもう寝てますよ、きっと」
「――ここぞとばかりに三蔵の悪口かましたわね」
「たまには、ってやつですねえ」
なんの違和感もなく握りあう手はとても暖かった。懐かしくも感じるその手の温もりを確かめながら、八戒は空を見上げながら呟いた。
「月が綺麗ですね」
「――――それ、どっちの意味?」
「さあ、どちらの意味でしょう?」
二人は手を繋ぎながらゆっくりと歩いてその場を後にした。
月だけがその姿を見続けていた。