閑話休題。(三蔵編)
そこには、悄然と空を見上げている三蔵がいた。珍しく一人で、ただじっと月を見ている。
暗闇の中にぽっかりと穴が空いたような真円の月は、煌々と照りながら、まるで優しく見守るかのような光を地上に落としていた。
延朱が名前を呼ぶと、三蔵はゆっくりと振り返った。延朱の髪が濡れているのを見て、あからさまに眉を寄せた。入浴するといって部屋を出たのは数時間前の事。それから今まで入っていたのだと気付いたのか、呆れた顔をしている。
「……なんだ、まだ入ってやがったのか」
「悪かったわね。三蔵こそ、こんなところで何してるの?」
ベンチに近付けば、部屋着の浴衣を法衣のように着こなした三蔵がお猪口を片手に持っているのが見えた。隣には空になった徳利が転がっている。
飲み過ぎだと言及しようとした延朱だったが、月の下に晒された三蔵の横顔がいつになく物憂げて、思わず惚けてしまった。
延朱のそんな視線に気付くことなく、三蔵は独り言のように呟いた。
「月が、綺麗でな」
「……確かに綺麗ね」
延朱も一緒になって上を見上げた。
乾いた気候のお陰か淀みのない空気の中、闇夜にぽつんと浮かぶ白い月。クレーターまでもくっきりと現れているそれを見上げながら延朱はベンチに座った。
三蔵は月から延朱へと視線を向ける。
「――何勝手に隣に座ってんだよ」
「隣が空いてたから」
三蔵の言葉が拒否を示すものではないことは延朱にはわかっていた。
はばかることなくことなくすっぱりと言い切って、延朱は上を見上げた。
長年、というほどでもないが、これだけ毎日一緒に居れば相手の纏う空気がわかるようになる。
特に一番わかりやすいのが三蔵だ。町に行って三蔵様と崇められた時の殺気は凄まじいものだし、一人になりたい時はどこかに行けと無言の重圧感があるのだ。だが、今日の三蔵はどこか物寂しい雰囲気で佇んでいて、他人を寄せ付けないあの重苦しい気配はなかった。
延朱が座ってから会話はなかった。三蔵が必要以上に話さないことも延朱が知っているからだ。
二人でいる時は、いつもこうして会話をしない時間の方が多かった。周りから見れば喧嘩をしているようにも思える程の沈黙ではあったが、決してその空気が嫌いではなかった。ぴんと張り詰めるようなそれが、むしろ心地よく思えた。
遠くの方でふくろうの鳴く声がした。
お猪口のをゆっくりと回しながらそれをぐいっと一気に飲み干すと、吐息と一緒に言葉を漏らした。
「――お師匠様はよく、こうやって月を見ていた」
今まで一緒に居て、初めて本人から聞いた三蔵の過去だった。
延朱は思わず三蔵を凝視した。三蔵の横顔は普段と変わらないように見えたが、ほんの少し頬が赤くなっていることに気付く。夕食の前からビールやら何やら飲んでいたせいか、少し酔って口が軽くなっているらしい。
普段見られない三蔵の姿に内心どぎまぎしていると、三蔵は延朱の隣に置いてあった徳利を手にした。空になったお猪口に酒を注ぐ。
「こうして酒を片手に、月が綺麗だからと訳がわからん理由を取っつけてな」
昔を思い出したのか、三蔵の口元にはうっすらと笑みが刻まれた。延朱もつられて微笑む。
「一緒に飲んでたの?」
「馬鹿か。俺はそん時十になったばかりだ」
「それなら一緒には飲めないわね。でもお酌くらいはしたんでしょう?」
延朱の言葉に三蔵の顔からは笑顔は消えた。変わりに眉間に刻まれた皺が答えを教えているようなものだった。
三蔵は悪態を吐くようにぶっきらぼうに答えた。
「そもそも酒を飲むこと自体が良いことじゃねえからな。たまに見るお師匠様のそういった姿を羨望してはいたが、あまり感心はしていなかった」
「……全く想像が付かないわね」
「うるせぇ。殴られてぇのか」
拳の一つでも飛んでくるかも、と身構えていた延朱の考えとは裏腹に三蔵はただ暴言を吐いただけで、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「――いつかは一緒に酒を飲めると勝手に思っていたもんで、酌もしなかった」
ゆらゆらと酒に映った月を見て、三蔵は師匠である光明のことを思い出していた。
まるでこの盃の月のような人だった。掴みどころのない性格で、型破りで、いつでも手が届く場所にいたのに、朧気で儚くて。
『一緒にどうですか』
月を吸ったような色の髪を揺らしながら笑うお師匠様。未成年だからと断って、ほんの少しの恥ずかしさと、いつでも出来ると思ってやらなかった手酌。
「少しだけ、後悔している」
そのいつでもが、永遠に来なくなるなんて思っていなかった。
酔った勢いで昔話を口にしてみれば、お師匠様と同じ髪の色をした瞳を丸くして、延朱は驚いた顔をしていた。
感傷に浸るなんてらしくないと思う傍ら、この女のせいだと三蔵は内心悪態を吐いて、手に持つ月を喉に流し込んだ。
悟空とは似て非なる、全てを受け止めてくれるような金色の瞳。それがこうやって弱さをさらけ出させる原因なのだと、酒が回った頭で考えていた。
不意に、持っていた盃が重くなった。次いで聞こえたのは静かに液体の流れる音。
飲み干したはずの盃に再び満月が映し出されていた。
「――どういう風の吹き回しだ」
「したくなったから」
延朱はにこりと徳利を手に持って笑った。何故か気恥ずかしさが胸の奥に沸き上がり、三蔵は目を背けると手酌された盃を口にした。
「……私もいっぱい後悔したから、もうそんな風に思わないように」
延びをしてゆったりとした口調で延朱は言った。
焦らずともいつか出来るだろうと延朱も思っていたのだ。ずっと一緒にいること自体がぬるま湯にいるような感覚なのだ。人の命が無限ではないことを忘れさせてしまったのだ。
その事を充分に思い知った二人は昔に思いを馳せる。一生来ない『いつか』を想いながら。
再び、長い静寂が訪れる。ふと、三蔵は光明のことから別のことが脳裏によぎった。延朱がカミサマに捕まった時の夢だ。
「……お前、どうして俺の夢に出た?」
重症を負っていた時にみた夢は光明との過去と、延朱の警告。
疑問に思っていたのは、よりによって自分の夢に出てきたのか。今の話同様、後悔しないようにと夢枕に立ったのだと予想したのだが、延朱の顔を見れば違ったようで。
「何それ。私が出てきたの?」
きょとんとした顔をして首をかしげる延朱を、三蔵は訝しげに睨み付けた。
「あ?身体が乗っ取られた時に逃げてきたとかほざいて、」
一から説明しようとしたが、はたと気付く。
確かに夢の中に出てきたのは覚えている。しかし覚えているのはそれだけはない。三蔵の頭の中で、延朱の一糸まとわぬ姿が鮮明に思いだされてしまっていた。
「わ、忘れろ馬鹿犬!」
それを口に出来るほど、悟浄のように女馴れしていない三蔵は恥ずかしさが沸きだして勢いよく顔を背けた。
「へー出たんだ。そっか」
三蔵の反応に気付いていない延朱は何故か嬉しそうに足をパタパタと揺らして笑った。
「なんだかんだ言って頼りにしてるのよ、三蔵の事。だからじゃない?」
首をかしげながら微笑む延朱を、三蔵は指の間から目を惚けてしまった。
恥ずかしくなった自分に対してさらに恥ずかしくなって、思わず頭を抱えると深呼吸に近いため息を吐いた。
「……だからって勝手に人の夢に出てくるんじゃねーよ」
「もう出ないように努力しまーす」
三蔵は延朱の頭を揺する程度に拳を当てた。にこにこしながら何も言わずに叩かれた場所を擦っている。普段聞こえる音がなかったことに三蔵は眉根を寄せた。
「髪飾り――」
「え?ああ、あのお城で無くしちゃったみたい」
延朱は普段後ろ髪を縛っていた場所を触れて眉尻を下げた。
「大事にしてたけど、やっぱり物は物ね。いつかは失ってしまう」
そう言って屈託なく笑ってはいるが、三蔵には全く違う表情に見えた。
「……泣くのか」
「そ、そんなわけないでしょ。でも、割り切ろうとは思ってもそう簡単にはいかないのよね」
延朱は小さく息を吐くと地面に視線を向けた。
「実は結構落ち込んでるの」
何事もないような声色ではあったが、延朱は髪飾りをなくしたことがショックだった。だからといって、それを表に出してしまったら皆に迷惑をかけることになる。そんな延朱の考えを少なからず感じていた三蔵はごそごそと懐に手を突っ込んで何かを取り出した。ようやく、ここで待っていた目的を果たせると三蔵は思った。
煙草でも吸うのだろうとぼんやり見ていた延朱の目に映ったのは真っ赤な紐と鈴の付いた女性用の髪飾り。まさしく失くしたと思っていた物それだった。
延朱は目を白黒させてそれを指差す。
「あ、え、え?」
「――拾った」
「ひ、拾ったってどこで、」
「拾ったは拾ったんだよ。つべこべ言わずに早く仕舞いやがれ」
三蔵が放り投げた髪飾りを、延朱は慌てて手に取ると、幻かどうか確かめるように優しく撫でる。そしてそのまま髪を束ねていつもの位置に髪飾りを着けた。
一部始終を見ていた三蔵に見せながら延朱は笑った。
「ねえ、どう?似合う?」
「――犬が首輪貰って喜んでるようにしか見えんな」
けっ、と言葉を吐き捨てながら三蔵は今度こそ煙草を取り出して火を点けた。
静かな夜に小さな鈴の音が鳴った。
「ありがとう、三蔵」
延朱は本当に嬉しそうに目を細めて言った。三蔵は数秒それを見つめると低い声で呟いた。
「延朱」
「何?」
「次、勝手なことをしてみろ。真っ先に殺しに行ってやる」
「――ええ」
互いに視線を合わせる。紫煙がふっと寒空に溶けていった。
延朱は思い出したように隣に置いてあった缶を三蔵に見せた。
「あ、飲む?多分三蔵好きな味よ、それ」
先ほど買ったジュースを差し出せば、三蔵はしばしその缶を見つめてから受け取った。
三蔵は少しだけ口に含むと、意外だという顔をして目を瞬かせた。
「――うまいな」
「でしょう?銀朱とか悟空とか悟浄はなんか変な顔するのよねー」
「フン。あいつらの口はおかしいからな」
もう一口飲んでから、三蔵は延朱に缶を渡した。どちらともなく空を見上げて息を吐いた。
「綺麗な月ね」
「……そうだな」
三蔵は月を見上げる延朱の横顔をちらりと盗み見た。
真っ白な髪が月の光を浴びて絹のようにきらきらと輝いている。さらに白磁のような肌と整った顔立ちを見て、過去に狸爺に言われたことを思い出していて、無意識のうちにそれをつぶやいていた。
「――月夜の魔魅、か……」
「なにか言った?」
三蔵は笑みを隠して立ち上がると、延朱に背を向けて歩き出す。
「戻るぞ、延朱。遅いと部屋に入れねぇぞ」
「突然何なのよ!?待って、三蔵ってば」
そう言って立ち上がった二人はその場を後にした。
月だけがその姿を見続けていた。