町に付く前からしとしとと降っていた雨は、五人が就寝する時間になった時には本格的に地面を叩いていた。
 延朱はベッドの上で枕を抱えながら窓の外を眺めていた。

「……雨、ね」
「――雨、ですねえ」

 独りごちた延朱に、反対側のベッドに座って本を読んでいた八戒が、同じように窓の外を見て言った。
 今日の宿は三部屋の空きがあり、一つは一人部屋、あとの二つが二人部屋であった。そうなった場合、真っ先に口を開くのが三蔵である。「俺は寝る。起こしたら殺すぞ」とだけ言っていそいそと一人部屋に行ってしまい、残った四人は仕方なくじゃんけんで部屋割りを決め、悟空と悟浄は隣の部屋ということになったのだ。
 八戒は安心したと同時に不安にもなった。雨の日に延朱と相部屋になったことがなかったからだ。いつも笑顔の延朱が、雨の夜だけは挙動も表情もおかしくなる。今も、まさにその状態だった。
 外は暗く、打ちつける雨は見えはしなかったが、静寂という言葉をかき消すには充分な音を生み続けていた。
 微動だにせずに窓の外を見続ける延朱をちらりと横目に見て、八戒は小さく溜め息を吐くと、聞こえるように本を閉じた。

「明日も早いですから、もう寝ましょう」
「うん……もう少し」

 延朱は視線を一点に向けながら気のない返事をよこした。
 延朱は窓の外を見てはいるものの、暗闇の先にある、全く別の何かをみているように八戒には思えた。ふと目を離してしまえば目の前から消えて、闇に溶けてしまいそうな儚さがあった。

「ダメです。寝坊したら三蔵にハリセン食らうのは貴女なんですから」

 人間がそう簡単に消えるわけがないと頭の中で一蹴したものの、不安になった八戒が話し続けると、延朱はようやく窓から視線を外して八戒を見ながら苦笑した。

「それはさすがに嫌ね。しょうがない、寝ることにするわ」
「そうしてください」

 渋々といった風ではあったが、延朱は頷くと薄い毛布に体をくるんでベッドに横たわった。
 それを確認してから八戒もベッドに横になる。
 反対側にいる人の背中を見てから、拭いきれない不安を隠すようにして八戒は言った。

「おやすみなさい」
「――おやすみ、なさい」

 体を丸めて壁の方を向いたままの延朱は、聞こえない程小さな声で返事をしたのだった。




 塞いだ手の温もりは。




 ――暗い。何も見えない。自分の腕や体さえも視界に入ることはない。
 動くことさえもできず、放心していた延朱だったが、名前を呼ばれて振り返る。
 亡き義父が微笑んでいた。だがその体には何本もの刀や槍といった武器が突き刺さっていた。
 その姿に思わず悲鳴をあげながら近付こうとした。だが延朱の体はその場から動くことができない。
 微笑みながら傷口から、口から、血を流してその場に崩れ落ちるのを、ただただ泣き叫びながら見ていることしかできずにいると、再び名前を呼ぶ声がした。
 今度は自分だった。瞳の色が黄金であることから、それが自分自身だということをわからせた。
 自分もまた、同じように笑っていた。だがその表情は悲壮感に溢れ、今にも泣き出してしまうような表情をしながら、延朱を指差して言った。

「あなたがよわいから、みんなそうなってしまったの」

 目の前の自分は、どうやらもっと先を指差していたらしい。延朱は差された場所に目をやると、そこには冷たくなって動かない仲間たちの無惨な姿が血だまりに倒れていた。

「――っ、……!」

 見開いた目の前には、薄暗い部屋。鳴り止まない雨音と冷たい壁は、先ほどの惨状が夢だったのだと理解させるには充分だった。
 息が荒くなっていたのに気付いて、八戒を起こさないようにと延朱は頭まで布団を被って息を整えようと目を閉じて深呼吸をした。だが、それが間違いだった。先ほど見た夢が、脳裏に過ぎる。
 それを拭い去ろうと銀朱を呼んでみたものの、どうやら完全に寝入ってしまい、延朱の声は届かない。
 雨音が周りの音を遮断し、悪夢と相まって本当に独りぼっちになってしまったような感覚を引き起こす。
 延朱はいつの間にかポロポロと涙をこぼしていた。

 雨音が耳鳴りのように張り付いてくる。
 このくらい場所に、独りぼっち。

 考えてしまえばしまうほど、泥沼にはまったように身動きが取れなくなってどうすることもできない。
 嗚咽すら漏れそうになって、延朱は咄嗟に口に手を当てて声を押し殺した。目をぎゅっと閉じて、なんでもないと言い聞かせようとしたが、雨音が悪夢を全て思い出させた。
 ふいに、背後でベッドの軋む音がした。そして数歩の足音がしてから、延朱のベッドに自分以外の重みがかかる。

「……延朱」

 恐る恐るといった感じで聞こえたのは八戒の声。普段と同じように優しくて、心地よくて、ほっとする声だった。
 だが今の延朱に返事をすることができなかった。声を出すと泣いていることがばれてしまうし、嗚咽を盛らしてしまいそうになるから。

「――僕も、よくうなされていました」

 ぽつり、八戒は呟いた。延朱が今見た夢を全て見透かしているような言葉に思わず息をのむ。

「どんなに忘れようとしても、大切な人との思い出は忘れることはできません……それが悪いものだったとしても。だから何度も何度も悪夢を見てしまうんです。あの時に似ている日なら尚更ですよ。同じように、また大切なものを失ってしまうかもしれないって、思ってしまうのも無理はありません」

 延朱は八戒の寂しそうな声に思わず布団から顔を出した。ベッドの端に座ってこちらに背を向けている八戒は、肩を落としてどこか物憂げな雰囲気を漂わせていた。全く違うはずなのに、義父の背中が重なった。
 布団に被ったまま、ゆっくりと身体を起こした延朱はそっとその背中に手を這わせ、額を押し付けた。そこから伝わるぬくもりが本当に安らげる気がして、再び涙が溢れ出していた。

「雨音が……こわいのよ」

 しゃくりあげながらも、延朱はゆっくりと口を開いた。

「大事なものを、全部奪っていきそうで、怖いの……前だって三蔵が……もしかすると悟空も、悟浄も、貴方も」

 夢のように、四肢を引き裂かれ、惨たらしい姿で地に伏す大切な人たちの姿を想像してしまう。
 まるで、延朱をひとりにしようとするかのように、絶え間なく聞こえる雨音に押しつぶされてしまいそうになる。

「この音が、全てをかき消してしまいそうで……」

 耳を塞いでしまえば、雨音は簡単に消えるのはわかっている。しかし、それをしてしまえば声をかけられてもわからなくなる。

 本当にひとりになってしまう。

「――延朱」

 八戒はゆっくりと振り返ると、脅かさないように穏やかな口調で、延朱の被っていた布団を取り払った。そして八戒はにこりと笑ってから、両手を伸ばして延朱の両耳を塞いだ。

「はっ、かい?」
「これなら雨音は聞こえませんよ」

 そう言われて気が付けば、雨音は消え、変わりに轟々と何かが流れるような、不思議な音が延朱の聴覚を覆っていた。

「聞こえなくなったけど、貴方の声も聞き取り辛くなったわ」
「確かにそうですね。じゃあちょっと失礼します」
「え、まっ!?」

 八戒は躊躇うことなく延朱をベッドに寝かしつけると、再び延朱の両耳を塞いだ。顔を突き合わせるように横になった八戒に、延朱はあまりの恥ずかしさに先ほどまで泣いていたことを頭の中から吹き飛ばし、真っ赤になって硬直している。

「あの、これ、は、一体!?」
「雨音は聞こえますか?」

 耳を塞がれていても、間近にいる八戒の声はよく聞こえた。
 はっとした顔をして延朱はゆっくりと目を閉じる。
 先ほどまで恐ろしいと思っていた雨音は消え、聞こえたのは、近い場所で聞いているのに遠いところにあるような、轟々と唸る川の流れに似た、まるで聞いたことのない音。
 延朱再び目を開けると泣きはらした顔で笑っていた。

「……ううん。何か別の音がする。すごい音だけど、不思議と嫌じゃない」
「それは筋肉の動く音なんだそうです。後は血流とか、心臓の鼓動だとか――簡単に言えば僕がここにいる証です」
「……八戒がここにいる、証」

 言葉を反復してから、安心したような表情に変わった延朱は微笑む。

「雨音なんかに負けない程の存在感ね」
「その通りです」

 八戒は微笑んで、一呼吸置いてから、延朱に言い聞かせるように言った。

「僕はここにいますから、いなくなる心配なんてしないでください」
「……うん」

 手の温もりも、目の前の優しい表情も、先ほどまで考えていたことが馬鹿らしくなるほどに、八戒がここにいることを証明していた。ほっとしたのか気付けば身体の力が抜けて、涙も止まっていた。
 安心させようと親身になってくれた八戒を見て、延朱はふとある言葉を思い出していた。それは先程言っていた一言。

「大切な人を失うかもしれない」

 それは延朱と同じように、夢に苛まれ、大切な人を失うという恐怖に怯えていたということ。
 そのことに気付いた時、延朱は額を合わせて同じように八戒の両耳を塞いだ。
 不思議そうに見つめてきた八戒に、延朱は目を細めた。

「延朱――?」
「私もどこにも行かないわ。ここにいる。こうして貴方の傍で生きてるから」

 突然のことに八戒は眼を丸くして固まっている。
 今はもう克服していて、こんなことをしなくても八戒は一人でも平気かもしれない。それでも延朱は同じことをしてあげたかった。そうすれば過去の八戒を少しでも支えることができると思ったから。

「八戒も雨の時は色々と不安だったんじゃないかって思って。いらない心配だったかしら?」
「……いいえ。嬉しいです」

 まさか逆に気遣われるとは思ってもいなかった八戒は、延朱の行動に意表をつかれて目をしばたたかせていたが、口元を緩めて延朱の手をとった。

「ありがとう、延朱」

 言いながら、八戒は延朱の手のひらに口付けた。

「え、はっ、はっかい!?」
「もう遅いですから、休みましょう」

 目の前で起こった光景に延朱は再びパニックになっていた。わたわたと無意味に手を動かしていた延朱を見てお日様のようにニコニコと笑いながら身体を抱き寄せた。

「や、この体制は、」
「あんまり大きな声を出すと、隣で寝てる悟浄たちが起きてしまいますよ」

 延朱の身体に腕をまわしてぎゅっと強く抱きしめる。それは嬉しさと、自分でもよく判らない胸の高鳴りに気付かれないようにする為でもあった。
 そんな八戒の胸のうちを知らない延朱はしばらく文句を言い続けていたが、無駄だと気付いて仕方なく目を閉じたのだった。

 八戒がその気持ちに気付くのは、もう少し後のこと。





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