コーヒーに落ちる角砂糖
インスタント、という名が付くものは身近にたくさんある。カメラだったり、食品だったりさまざまだ。その中で湯川は、特にインスタントコーヒーが好きだった。味は多少劣るものの、値段、手間、すぐに飲めるからという理由だった。基本的に合理的な考えの湯川だったが、最近は別の思考も持つようになった。
台所からかすかに鼻歌が聞こえた。その歌と一緒に、深いコーヒーの香りが小さなアパートに漂った。まるで歌に載せられてきたようだと、湯川は微笑んだ。
「何一人で笑ってんだ、気持ち悪いぞ」
綾乃は訝しげな顔をしながら、日本様式の配膳盆にマドレーヌとコーヒードリッパーを乗せて居間に戻ってきた。
「常々思うが、綾乃のコーヒーは旨いからな、楽しみなんだ」
「……そりゃ、どうも」
湯川からの嫌味が飛んでくるのかと身構えていた綾乃だったが、意外な一言に不意をつかれた。
「じゃあ頂くよ」
「お、おう」
いつまでもこの瞬間は緊張する。綾乃はカップに口を付ける湯川をまじまじと見つめた。
「うん、旨いよ」
「そっか、ふふ。ま、まあ当たり前だしな!」
照れ隠しに強気な発言をする綾乃を見て、湯川は目を細めた。
「君はまるで角砂糖だな」
「なんだよ突然」
「……僕の日常をこのコーヒーとしよう」
湯川はソーサーにカップを置いてそれを指差した。
「そしてこれが君だ」
机に置いてあった瓶から、一粒の角砂糖を取り出した。
「どんなに良い日常を送っていても、やはり飽きる。その時にこれを」
「入れる」ポチャンとコーヒーの中に落ちる。小さな気泡が出てきて消えた。
「――それで?」
「味が変わる。更に旨くなる。君が僕の日常に入り込んで来てから、僕の日常はさらに面白くなった」
湯川は落とした角砂糖を溶かす為にスプーンでかき混ぜた。
「――今ではこの角砂糖がないと僕のコーヒーはまずくて仕方ないんだ」
カップの縁にスプーンをつけてから、ソーサーにおいた。湯川はもう一度カップを持つと、口につけた。
「うん。やっぱり旨いよ」
湯川は含んだ笑いをしながら綾乃を見ると、耳まで真っ赤になってその場に固まっていた。
「綾乃?」
「な、ななななななんでもない!こっち見んなっ」
慌ててお盆で顔を隠す綾乃を不思議そうに見ながら、湯川はコーヒーを片手に本を読み始めた。
しばらく本を捲る音だけが部屋に響いた。
「――私、角砂糖だからさ」
ポツリと綾乃が呟いた。顔は未だにお盆で隠していて見えない。
「角砂糖だから、そのままじゃ意味ないんだよ」
「――確かにそうだな。そのままではただの糖分の塊だ」
「だからさ、その、使われないと意味ないっていうか……あー、もう!コーヒーと一緒じゃないと、ダメだって言いたいの!この話は終わり、おしまい!」
綾乃は盆で顔を煽ぐ。その言葉に湯川は目を丸くした。しばらく考え込んでポツリと言った。
「僕が角砂糖だったようだ」
「なんか言った?」
「何も。コーヒーが冷めてしまうよ」
湯川は綾乃のカップを見やる。そして角砂糖を一粒落とす。
「私ブラック派なんだけど」
「たまには良いじゃないか」
「そう、だな」
綾乃はカップを手に取るとゆっくりとそれを口にした。
「うん、やっぱり美味しい」
そういってもう一口飲む綾乃を見て湯川は満足そうに微笑んだ。
――僕が角砂糖のようだ。君がいないと、僕はただの砂糖の塊だから。君がいないと駄目なんだ
そんな言葉、砂糖のように甘くて言えるはずもなく。
湯川の想いは緩やかなコーヒーの湯気と共にフワリ立ちのぼった。