「痛っ」

 隣のベッドに腰掛けて、延朱は自分の髪を櫛で梳かしていた。

「痛」

 また聞こえた呟き声に、俺は朝刊から目を逸らして延朱を見た。どうやら髪が寝癖で絡んでうまく櫛が通らないらしい。

「おい」
「どうしたの?」
「髪は毛先から梳かせ。だから櫛に髪が引っかかって痛ぇんだよ」

 そう言って、俺はまた新聞紙を読み始めた。だが、延朱の手が動く事なく、俺を真っ直ぐに見つめている。何か、未だかつて見たことのない物を見ている様な、そんな顔をしている。

「――なんだその顔は」
「いえ……そんな繊細な事を知ってるなんて思わなくて」
「殺すぞ」
「ごめんなさい」

 クスクスと笑ってから、延朱は俺に言われた通りに髪を梳かすのだが、やり方がぎこちない。その姿がなぜか懐かしい人と重なり、俺は思わず溜め息をつくと新聞紙を畳んでテーブルに置いた。

「貸せ馬鹿チワワめ、ったく。横向け」
「えっ?え、ええ」

 口に煙草を加えると、ポカンとしている延朱から櫛をひったくる。そして毛束を掴んで少しずつ梳かしてやった。

「上手ね」
「――黙ってろ」

 こうして延朱はされるがまま、俺の言うことを聞いて口を閉ざした。
 かといって延朱が俺の態度に怒って黙ったわけではないのはわかっていた。
 なぜ俺がこんなに髪の扱い方を知っているのか興味はあるはずだ。しかし、延朱は自分から詮索する様な事はほとんどしない。俺が自分の素性など聞かれるのを毛嫌いしている事を知っているからだ。
 俺も延朱も沈黙のまま、時間が過ぎて行く。だが、この空気は俺は嫌いではなかった。
 お師匠様の髪と違い、更に長くクセのある白い髪は、見た目よりも細く扱いやすかった。
 軽く櫛を入れるだけですんなりと通っていくそれは、光に当たると眩しい程に煌いた。
 再び過去の記憶が蘇る。確か、そう思った事が昔一度だけあった。それは勿論お師匠様の髪を、今と同じ様に梳かしている時だ。
 その時は綺麗な下弦の月が闇夜を照らし、寺院の中まで仄かに明るくしていた。お師匠様の金髪は、その光を浴びてきらきらと輝いていた。
 それはまるで、月の光を吸ったような色だと思ったのを思い出したのだ。
 延朱の髪は金色ではないし、直毛でもない。それなのにお師匠様を思い出されるのは、同じく月の光に良く似ているからだろう。
 そう、それはまるで。

「まるで――……」
「どうかした?」

 延朱の声にハッとして、手が止まる。
 今思っていた事を口にしていたら、どれだけ恥ずかしいことになっていた事か。俺は咥えていた煙草のフィルターを噛んで恥ずかしさを紛らわすと、鼻で笑って言った。

「まるで、素麺みてえだな」
「な、なにそれ。今まで言われた事がないんだけれど!?」

 あまりにも惚けた顔をしたので、俺は思わず口の端があがる。それを隠す為に煙草を吸う仕草でごまかしながら櫛をテーブルに置いた。

「煩え。終わったからとっととあいつら起こして飯行くぞ」
「素麺……ちょっと、凹むわね」
「それならロングコートチワワだな」
「また犬じゃないの――」

 文句を言いながらも俺の後を付いてくるのはやはり犬に近いと思う。
 手に、未だに延朱の髪の感触が残っていた。柔らかくて、細くて、ウェーブのかかった白い髪。
 まるでゆらゆらと揺らめく水面に浮かぶ月の様だと思った事は、俺しか知らない。


次はあとがき




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