手とテ。
深く息を吐けば、いつもは見えないはずの吐息が白い靄のようにふわりとなってから、すぐに消えてなくなった。
雲一つない空は大海と見紛う程の青が広がっていて、空気も澄んでいる。ここ最近では見られなかった清々しい快晴だ。
そんな青とは対照的に、僕たちが歩いている橋や道や家屋の屋根などあらゆる物は、すっかり真っ白く染まっていた。東にいた時にはまず見ることのできなかった積雪も、今はすっかり見馴れてしまったものだ。
「――寒いわね」
無邪気に雪玉を投げ合う子供たちを目にしながら延朱が一人ごちるように言うと、両手に息を吐いた。
「寒いですねえ」
僕はそれを本当に一瞬だけ視界に入れながら答えた。その一瞬のせいで、先程から疼いて仕方がないある衝動を抑える為に、再び深呼吸するはめとなった。
延朱の雪にも負けない白くて細くて小さな手。その手の先はほんのりと赤く色付いていて。
寒すぎる気温と乾いた空気のせいで、買い出しの為に何時間も外気に触れている肌が、体温を奪われているのだろう。
――もしその手に触れることができたなら、冷たくなってしまった延朱の指先を暖めてあげることができるのに。そんな言い訳めいた言葉が先程から頭に過って、僕は何度目かのため息を白い靄へとと変えるだけに留めた。
ただ単純に延朱と手を繋ぎたいという邪な心が、あれこれ言い訳を考えてはそれを実行させようとするのだ。しかし僕にそれを実行する勇気も権利さえもなかった。
僕は延朱が好きだ。だが、彼女の気持ちを僕は知らない。嫌われてはいないとは思うし、はっきり言ってしまえば他の誰よりも好かれている自信もある。それでも行動に移せないのは、僕自信の弱さのせいだ。
突然手を繋いだら延朱はどんな表情をするのだろう。その後を考えると怖くて身がすくんでしまうのだ。
驚かせるかもしれない。振り払われるかもしれない。怖がらせるかも。嫌われて、しまう。
まるで思春期の少年のような片想いの悩みに自分でも情けなく思う。それだけ延朱のことを大切に想っているのは確かなことではあるが。
こういう時、悟空だったらきっと何の躊躇いもなく手を取るだろうなあともう何度目かの白い靄を吐き出すと、延朱が眉を寄せて僕を見上げていた。
僕はどきりとした。まさか何を考えているのか気付かれてしまったのかもしれない。そう思わせるほどに延朱の瞳はまっすぐに向けられていて、僕は目を細めた。こうすれば少しでも目をそらすことができるからだ。
延朱は僕の心情を知ってか知らずか、さらに訝しげな顔をして首を傾げた。
「どうか、しましたか?」
「……八戒。貴方さっきからおかしいわよ」
「そうですか?そんなことないと思いますけど」
「そんなことあるわよ。ちょっと前からずっとため息ばっかりで。何よ、もしかして私と買い出し来たのが嫌だったの?」
検討違いの言葉に僕は否定の意味を込めて大きく手を振った。
「そんなわけないじゃないですか。本当になんでもないです。寒いなあって思っていただけですから」
「確かに寒いけれども……」
納得できないといった表情で睨んでいた延朱が急に真顔になって僕を見つめた。好きな人に見つめられていることに恥ずかしくなって思わず目を反らしてしまった。顔が火照るのが自分でもわかってさらに気恥ずかしくなって動揺していると、延朱がぽつりと呟いた。
「貴方、指先が赤いわよ」
「えっ?」
どうやら延朱は僕の顔ではなく手を見ていたらしい。驚いてそちらを向くと、僕の手に暖かな空気が触れた。
延朱は両手で僕の手を持つと、口元に寄せて優しく息をはいていた。
「あ、あの、延朱、」
数度息を吐いてから、延朱は僕の手を摩る。その間僕はただそれを見ていることしか出来なかった。当然だ。まさか恋焦がれている人から触れてくるなんて思ってもいなかったからだ。あまりにも驚きすぎて声も出ない。
心臓が耳元で鳴っているような程に打ち付けている。延朱にまで聞こえてしまうかと思うほどのそれに戸惑っていると、延朱は僕の手を握った。そして。
「こっちの方が暖かいわよ」
そう言って延朱ははにかみんでみせた。その頬はどことなく赤くなっている気がしたが、それが寒さのせいなのか異性と手を繋いでの羞恥なのか、僕には検討はつかなかった。それよりも今は、起きている現状に全く頭が追い付いていなかった。
「……八戒?」
小首を傾げる延朱に咄嗟の一言を口に出せないほどに僕の頭は真っ白だった。
あれだけ身を焦がす程に望んでいたことが現実として起こっているというのに、未だに夢かもしれないと思っている自分がいた。しかし、夢にしてはあまりにも暖かすぎる掌の感触は、あまりにもリアリティーがある。
「あ、ご、ごめん……急に嫌よね。こんなことして、」
延朱は嫌がっていると勘違いしたのか、すっと僕の手から離れていった。その瞬間、指先の間を刺すような空気がすうっと通りすぎていき、掌にあった温かさが消えていった。
ああ、これは夢なんかじゃないんだ。そう気付いた僕は、思わずその温もりを求めるように手を伸ばした。
「はっ、かい――?」
「……すみません。延朱が手を繋いでくれたのが、あんまりにも嬉しくって」
「う、嬉しい!?わた、私はただ寒そうだから繋いだだけで、」
「すっごく、温かいです」
嬉しくて嬉しくて、柄にもなく頬が緩んで仕方ない。もう離れないようにと強く握れば、無言のまま延朱の手にも力が入る。それがまた嬉しくて、ほんの少し隣に寄ってみれば、同じように延朱もおずおずと近付いてきてくれて。
「温かいですねぇ」
「……貴方の手は冷たすぎるのよ」
「冷え性なんですよね、僕」
僕らは再び言葉を交わしてゆっくりと同じ速度で歩き始めた。
これが延朱にとって友好の証なのか好意の証なのは僕にはわからない。それでも僕はこのままこの瞬間が続いてくれれば良いと心から願ったのだった。
「延朱って、案外大胆なんですね」
「――あれだけ見られていたら誰でもわかるわよ」
「え?」
「なんでもない!寒いからもっと寄って頂戴!」
「――はいはい」
一緒に笑いあえば、いつもは見えないはずの吐息が白い靄のようにふわりとなってから、すぐに消えてなくなったのだった。