内海からのメールを見て綾乃はすぐに携帯を閉じた。昨日の夜何も言わずに帰ってしまったことを心配しているようだった。返信はしなかった。しばらくは誰とも顔を合わせる気にならないからだ。
 もちろんそれは湯川のせいだった。昨日の夜に起こったことを思い出せば、すぐに怒りが沸々と湧き上がる。
 始めは多少の嫌味を言われてもなんということもなかった。始めのうちは。だが、「犯人が誰であろうとどうでも良い」という言葉を聞いて、怒りで頭が真っ白になったのだ。湯川は多分、自分が解くのは「皮膚を壊死させた謎」だけで、犯人を見つけ出すのは君たちだとでも言いたかったのだろう。だがその言い方に綾乃は憤りを感じたのだ。
 犯人が誰でも良いわけがない。
 犯人をないがしろにして良いわけがない。
 ましてや殺人を犯しておいて尚、捕まりもせずに常人と同じように生活していることが許せない。
 ――母と父を殺した犯人のように。
 だから綾乃は警察官になることを決意したのだ。二人を殺した犯人を全身全霊をかけて捕まえると。
 それを真っ向から、心を許していた人に「嘘」だと言われた時は怒ることが出来なかった。怒りが沸くよりも先に虚脱感が襲った。世間を知らないただの学生がのたまう戯れ言だと思われたことが胸を突いて、逃げるようにして帰ってきてしまったのだ。
 もっと冷静になっていればこんな誤解も喧嘩もなかったのにと反省する反面、絶対に綾乃からは謝る気はなかった。自分の自尊心の為と、意固地な性格ゆえだ。
 綾乃は図書館で大量の本と資料に囲まれていた。それらのジャンルは全てバラバラだった。家庭の医学、医療器具の発展にまつわる本、科学雑誌、子供向けの科学の絵本、そして殺人鬼にまつわる本など様々だった。
 朝からずっとその本たちの中に埋もれていたせいで外が既に暗くなっていることに気付いていない。そして綾乃の酷すぎる口調の独り言を聞く者もいない。

「あー!クソ、マジウゼえ。こんなのでわかるかってんだよ!」

 額を机にこすりつけてため息をついた。考えるのをやめると居酒屋での湯川の発言が思考の邪魔をする。綾乃は頭を思い切り振って大学ノートをパラパラとめくった。細かな文字で心臓麻痺の原因や医療器具の名前や、念力というオカルトティックな事まで書かれていた。その中心には田上昇一と書かれていた。綾乃は田上と初めて会話した時から違和感を持っていた。完璧な笑顔、口調。内海が心臓麻痺の話を切り出した時に、一瞬たじろいだのをハッキリと覚えている。そして、内海に言った「心臓麻痺とは関係ない」という言葉。
 ――アイツが犯人だ。そう確信したのは湯川と田上の会話を聞いた時だった。自然災害に見せかけて人を殺すだなんて簡単に想像がつくものではない。思いつくのは陰謀論者くらいだろう。だが陰謀論者は基本的に公的な物を信じていないので、警察の捜査に協力する事はありえない。
 どうにかして田上が犯人だという証拠が欲しかった。それにはもう一度あの部屋へと尋ねる必要があった。

「湯川の馬鹿になんてもう頼らねえ」

 意気込んで、綾乃は荷物を持つと図書館から出て行った。校内を小走りで歩いていると角で人とぶつかりそうになった。

「わっ、」

「こらー!廊下を走るんじゃない!」

「申し訳ありませんっ、って、栗林助手」

「なんだ橘君か。どうしたんだ?こんな時間に。しかもそんな怖い顔し、」

「すみません急いでるんです!早くしないと閉まっちゃうから!」

「閉まっちゃうって、何が?」

「四ツ谷工科大学です!失礼します!」

 栗林の止める声が聞こえたが、綾乃は頭を下げると聞こえない振りをして校舎から飛び出した。
 帝都大学から四ツ谷大学まではタクシーで向かった。深夜料金が財布に痛かったが気にしないことにした。到着すると案の定校門はしまっていた。周囲をぐるりと回ってみると登れそうな木を見つけた。少し助走をつけて登れば簡単に入ることができた。
 警備員に見つからないように隠れながら校内へと入り込んだ。
 昼間とは打って変わって薄暗い夜間灯が光っていた。その中でコツコツと綾乃の足音だけが聞こえた。研究棟について田上の研究室に近付いていくと、曲がり角から明かりが灯って見えた。しまったと綾乃は壁に身を隠す。この時間に人がいるとは思わなかった。どうしたものかと再び壁の影から部屋を覗いた。明かりがついているのはどうやら田上の研究室のようだった。別の場所だったらどんなに良かったかと小さく溜息を漏らした瞬間だった。
 首元に激痛が走った。綾乃はその痛みに気付いた時には目の前が暗転していた。




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