Béatrice et Bénédict





仇だった。
親友はこいつに居場所を奪われ、
両親はこいつに殺された。

憎んでいた。
こいつのせいで苦しんで、
こいつのせいで悲しんだ。



それでも私の手を掴んだ彼を、
私は突き放すことができなかった。










「ナマエ。」

「はい。ルーファウス副社長。」


デスクに向かいながら、キーボードを打つ彼が私を呼びつける。


「このあとのスケジュールは?」

「社長がお話があるそうで、こちらにいらっしゃいます。」

「ああ……そうだったか。」




私がこの男の元で秘書として働いている理由は、他でもない。

奴に復讐するためだ。
私たちを苦しめた男に。



そして今日が、その日になる。


仇討ちはいつしか、一つの目標から私の生きる意味になった。
今日のために、今まで血の滲むような努力をしてきたんだ。

苦しんだみんなの為に、私がやり遂げなければ。

目の前の彼には気付かれていないようだが、間違ってもスキを見せない様に気を引き締め直す。
小さく拳を握って、息をついた。



「……ナマエ。」

「何でしょうか。」


モニターから視線を上げた彼が、私を呼ぶ。
手招きをされたので近寄ると、突然彼が私の頬に手を伸ばした。



「寝不足か?隈があるな。
お前が優秀なのは良い事だが、倒れられては困る。」


頬に添えられた手の親指が、目の下をなぞる。
優しく暖かい手つきだが、私は咄嗟に身を引いた。

触られたく、ない。



「副社長に比べれば些細なことです。
コーヒーをお持ちしますのでお待ちください。」


「ふっ、つれないな。」



軽口をたたく副社長に背を向ける。
こっちは一世一代の大勝負が待っているんだ。
そんなことに付き合ってる場合じゃない。



コーヒーの入っている棚の、右から2番目の下段。
奥の小さな箱の中には、隠して持ち込んだナイフが隠されている。
それを取り出そうとしゃがみこみ、箱を開けて、私は絶句した。


「無い……!!!」


嘘。なんで。違うところに場所を変えた?
いや、そんな記憶は無い。
誰かにバレた?それなら一体誰に、



「探し物は見つかったか?」

「っ、」


咄嗟に振り返ると、そこにはさっきまでデスクの前に居たはずの副社長の姿。
目の前に膝をついた彼が私の逃げ道を腕で塞いだ。


「どうして、いつから……!!」

「ずっと気付いていたさ。
最初にお前と出会った日から。
生憎、人からの悪意には敏感な方でね。」


それから、つらつらと彼から告げられる私の事情や秘密。
受け入れられなくて、私はぼんやりと目の前のその瞳を見つめることしか出来なかった。



「レノたちに少し調べさせればすぐに分かった。
ナマエ。お前は親父を殺したいんだろう?」


「……だったらどうしますか。殺しますか?」



もう、どうしようも無かった。
泣いても、叫んでも、誰も私を助けてはくれない。
"みんなのため" と言った "みんな"も、私には手を貸してはくれないのだ。

床に座り込んで、視線を落とす。

死んだらみんなにどんな顔で会えばいいんだろう。
いや、私だけが地獄に落ちて、誰にも会うことは無いかもしれない。




その時、自嘲気味に笑った私の手に彼の掌が重なった。


「そうしたいところだが……残念ながらお前ほど優秀な秘書は他に見つかりそうにない。」


指が絡んで、そのまま引き寄せられた私は、彼の腕の中に収まる。

鼓動が近い。
ふわりと香った香水がとっくに嗅ぎ慣れていることに気付いて、泣きそうになった。


低く、優しい声が、耳元を撫でる。


「私の傍に居ろ、ナマエ。
いつか親父が目の前で土を噛む所を、私が見せてやる。
……お前は、お前のために生きればいい。
私が私のために生きるように。」


ぼたっと、床に涙が落ちた。
今になって震え出した手を彼の指が撫でたその感覚に、また泣く。

強く抱き締められた身体。



彼の隣で、私は自分の人生に足を踏み出した。








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