32.とある朝の風景

 日が昇る前の薄暗闇の中目が覚めた。
 この家で寝起きするようになってから、眠りが深くなったことを自覚している。とはいえ、長年の習慣で目が覚める時間は変わらない。
 隣の小香はよく寝ている。美香もベビーベッドで静かに寝ているようだ。小黒も、まだ自室で寝ているだろう。
 小香は寝返りを打ったのか向こう側を向いていて、今はうなじしか見えない。顔を見たいと思ったが、わざわざ動いて起こしてしまったら申し訳ない。そのうちこちらを向いてくれるだろうかと、しばらく横になったままうなじを眺めていることにした。
 妻がいて、娘がいて、弟子がいる。
 こんなにも穏やかな時間があるだろうかと、不思議に思う。あと数時間後には家を出て館に赴くことになるが、今日は夜には帰れるだろう。夕飯に、何か美味しいものを買って帰るのもいいかもしれない。
 彼女は帰ってきた私を迎え入れて、土産を見て嬉しそうに微笑んでくれるだろう。
 その笑顔がありありと浮かんできて、彼女を愛しく思う気持ちが溢れてくる。たまらなくなって、彼女の腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。うなじに鼻を寄せて、その温もりを感じる。静かな呼吸で胸が上下している。起こしてしまわずに済んでほっとする気持ちと、起きてこちらを向いてほしい気持ちとがあった。
「ふにゃ、あー、うあー!」
 ふいに、美香がぐずりだしたかと思うとすぐに大きな泣き声に変わった。小香が身じろぎをして、顔を上げる。赤ん坊の声にすぐに反応する母親らしさに微笑ましくなりながら、まだ寝ぼけているその肩をそっと撫で囁いた。
「君は寝ていて」
「でも……」
 小香が起き上がろうとする前にベッドから降り、美香を抱き上げる。美香は変わらず泣き続ける。おしめではなさそうだ。お腹が空いたのだろうか。そう思ったが、背中を叩いてやるうちに声が小さくなり、また眠りについたようだった。しばらくはそうしてあやし、起きる気配がないことを確認してから、またベッドに寝かせた。美香は気持ちよさそうに目を閉じて、そのまま眠り続けた。
「寝ちゃいました?」
 小香が小声で尋ねてきた。ベッドに横になったまま、こちらの様子を見ていたようだ。
 その瞳が優しく、慈愛に満ちていて、胸が締め付けられるような感覚を覚える。母となった彼女の瞳の色から伝わる愛情はますます深く、大きくなっていて、私はすっかりその中に包み込まれている。そう感じられることがあまりに幸福で、得難いことに感謝の念が湧いてくる。
「うん。ぐっすりだ」
 私も小声で答えて、小香の隣に戻る。肘をついたらベッドが軋んだので、美香が起きないかとひやりとした。小香が大丈夫、と教えてくれるので、できるだけ静かに布団に潜り込む。
「起きてたんですか?」
「うん。少し前に。目が覚めてしまった?」
「ちょっと……。昨日は早めに寝ましたし」
「そうだったね。だが、いつもなら寝ている時間だろう」
 彼女の平時の睡眠時間としては、少し足りないだろう。小香の身体をそっと抱き寄せ、頭を撫でてやる。
「もう少し寝ていたらいい」
 小香は嬉しそうに頭を私の胸元に擦り寄せる。
「はい……でも、もったいないかも」
「ん?」
「せっかく限哥も起きてるのに」
「ふふ。では、私ももう少し寝ようかな」
「二度寝って、珍しいですね。眠れますか?」
「うん。まだ少し眠いかもしれない」
「ほんとに? じゃあ、一緒に寝ますか?」
「そうしよう」
 そう答えたけれど、私も彼女もすぐには目を閉じなかった。見つめ合う形になって、お互い笑みがこぼれる。
「目を閉じないと、眠れないよ」
「限哥こそ。でも、目を閉じたら限哥の顔が見れなくなっちゃう」
 小香が私の瞳や唇をじっと見るので、触れたくなり、吻をした。唇が触れると、彼女は目を閉じた。それを見て、私も目を閉じ、触れる温もりを感じる。
「んっ……」
 重ねているうちに触れ合いは深くなり、身体の奥が熱を帯び始めた。
「――……」
 言葉なく、ただ彼女を見つめる。彼女も期待に満ちた視線をこちらに返してくる。潤んだ瞳は熱っぽく、頬に触れるとそっと目を伏せた。
 日が昇るまでもう少し、彼女をこの腕の中で愛でる時間を、堪能したい。

 いつも起きる時間より遅く、彼女が寝室から出てきた。
「おはようございます、すみません……」
 寝ちゃいました、と申し訳なさそうな彼女に笑顔を向ける。
「おはよう小香!」
 私が声をかける前に小黒が鞄と帽子を手に部屋を飛び出してきて、身支度を整えながら玄関に慌ただしく走っていった。
「いってきます!」
 その後ろ姿を小香も慌てて追いかけていき、いってらっしゃいと玄関先で声をかけるのが聞こえた。スープを温め直すため火をつけてしまったので、厨からドアが閉まる音を聞いて小香が戻ってくるのを待っていた。
「すみません、ご飯作ってもらっちゃって……小黒や美香の世話も」
「いいんだ」
 小香はご機嫌にベビーチェアに座っている美香のところへ行き、謝るようにその頭を撫でた。
「まだ時間はあるからね」
 温まった朝食を卓子に並べる。小香はその匂いを嗅いで、表情をほころばせた。
「起きたら限哥の料理が待ってるの、嬉しいな」
「ふふ。いつでも作るよ」
「あ、違うんです、催促じゃなくて!」
 小香は弁明するように手を振るが、むしろ催促してもらえたら嬉しいというものだ。その日の任務によっては朝の時間が取れず、毎日というわけにはいかないのが申し訳ないくらいだ。
「わかるよ。私も、朝君が料理を用意してくれている姿を見るのが好きだから」
 小黒や美香の世話を焼きながら、厨をあちらこちらへ忙しなく動く姿を眺めるのは幸せだ。もちろん、眺めているだけでなく、私もできることは手伝うが。
 彼女はマグカップを両手で抱えながら、照れくさそうに笑う。
「えへへ……」
「身体は大丈夫?」
 ゆっくり寝られていたのであればいいが、もしそれが先程無理をさせてしまっていたせいならと心配になり訊ねると、彼女はぽっと赤くなり、大丈夫です、とへにゃりと笑った。
 片付けを終えて、エプロンを外し、ご飯を頬張る彼女の頬に軽く口づけをした。
「では、行ってくるよ」
「あわ、はい……」
 できれば唇に触れたかったが、それは帰ってきたときに取っておこう。美香の額にも口づけをして、用意をして玄関に向かった。食事を続けてくれていて構わないのに、彼女は立ち上がって、玄関まで見送りに来てくれた。
「今日は早く帰れるだろうから、何か買ってくるよ」
「わかりました。じゃあ、買ったら教えてください」
「うん。では」
「いってらっしゃい!」
 眩しいほどの笑顔に送り出されて、清々しい気持ちで家を出る。
 この家に、今の私のすべてがある。
 その幸せを感じながら、歩き出した。

| →