30.守る力

 森の中の、少し開けた場所で相手は立ち止まった。もう仲間は全員捕らえた。残るは彼だけだ。
 追い詰められた彼は、背を向けて逃げることを止め、反転する。
 その瞳には強い怒りが込められていた。
「お前さえいなければ……!」
 多くの仲間を集め、森に人間を立ち入らせないよう抵抗するだけの力が彼にはあった。だが、絶対的なものというわけではない。
「私でなくとも、誰かが止める」
 このまま抵抗を続けても、工事が一年ほど延期になるだけで、仲間は失われていくばかりだ。だから、止めるしかない。人間が妖精を脅威だと認識してしまうのも問題だ。
「俺は守ってみせる! 命にかえても!」
 草木の中に隠されていた大量の金属が彼の力に呼び起こされ、鋭い槍となり、私を四方八方から取り囲んだ。
「ははは、死ね无限!」
 そのまま私を穴だらけにしようと飛び込んでくるのを、余さず能力で捕らえてひとまとめにし、鉄球に変えた。
「……えっ?」
 全力で出したものをあっさり丸め込まれて、理解が追いついていない彼を、鉄球から少し金属を切り離し、その身体に巻き付け、拘束した。彼は反応が遅れ、なすすべなく地面に転がった。
「くそ! なんだそのめちゃくちゃさは!」
「お前も、仲間のところに連れて行く。牢で反省……」
 そのとき端末の通知が来て、彼から目を離してすぐにチェックする。
 思った通り、小香からのメッセージだった。美香と一緒に撮った写真も添付されている。
『お散歩してたらお花咲いてました!』
 添えられた一文のとおり、美香の顔の横に小さな桃色の花が咲いていた。二人の表情を見て、自然と頬が緩む。
「…………」
 ふと、彼の視線を感じ、咳払いをして端末を懐にしまい、話を再開した。
「ごほん。牢で反省することだ」
「くそ……」
 目を離しても、金属は常に私の手中にある。油断して緩めてしまうことはない。彼にこれ以上暴れさせるわけにはいかない。
 私を睨み付ける彼の眉が、急に下がって、敵意が緩和したのを感じる。
「なんでだ。そんだけ強いのに、なんで俺たちを助けてくれないんだよ」
 あんたはどっち側なんだ、と問う彼に、私は顔を上げる。
「私は、館の執行人だ」
 彼はうなだれ、力なくこぼした。
「俺に力が足りないから……何も守れない……」
 力があれば。
 どれだけ力があれば、すべてを守れるのだろうか。



「香香、ご飯美味しいよ!」
 ほら、と小香は自分で美味しそうにご飯を食べるふりをしてから、はいあーん、と美香の口に匙を近づける。美香はぎゅっと口を引き結んだまま、顔を背けた。
「だめか。今日はそういう気分なのね」
 小香は肩を落として苦笑する。美香はときどき、こういう態度を取る。何が気に食わないのか皆目検討がつかないが、とにかくがんとして言うことをきかなくなる。小香はイヤイヤ期かな、などと困ったように、だが仕方がないと笑っていた。
「またお腹空いたら食べようか」
 一旦諦めることにしたようで、小香は自分の食事に戻る。美香の相手は私がしようと言ったのだが、お疲れでしょうと笑って匙を譲ってはくれなかった。なので、早めに食べ終わるようにして、食器もそのままに美香を抱き上げる。
「またママを困らせているね」
「ぷう」
 美香は嬉しそうに足をばたつかせて、私の髪を握った。
「限哥、まだゆっくりしてても」
「十分ゆっくりしたよ」
「ぼくも食べ終わったよ!」
 小黒も待ちきれないように椅子から飛び降りて、美香と遊ぼうとやってきた。
 私たちが遊んでいるうちに、小香も夕飯をきちんと食べられたようだ。
「う、あー!」
 美香が小香の方に手を伸ばすので、ママが恋しいのかと小香に預けようとすると、美香は小香の前の空の食器に触ろうとした。
「あ、お腹空いたかな?」
 小香が察して、残っていた離乳食を美香の口元に運ぶと美香はあっさりと口を開けた。
「食べた!」
 それを見て、小黒が嬉しそうに耳を動かす。
「やっぱりお腹空いてたんだ。なんで食べなかったんだろ?」
「どうしてかしらね? ねえ美香ちゃん」
 小香はときおり、美香のことをみかちゃんと呼ぶ。日本語の発音だ。普段も、たまに日本語で美香に話しかけているようだ。美香は将来、両方の言語を習得するのかもしれない。
 美香がご飯を食べている間に、小黒と肩を並べて食器を片付ける。小黒は卓子を拭こうとしたが、美香はまだ食べていた。見れば、半分も残っている。
「食べてはくれるんですけど、あちこち気が散るみたいです」
 小香が苦笑してみせるので、美香の様子を見ていると、確かに口を開けはするが、飲み込むのも時間をかけるし、視線をあちらこちらに彷徨わせて、食べることをないがしろにしがちだ。
「代わろうか」
「大丈夫ですよ。先にお風呂入っちゃってください」
 小香は美香にかかりきりで、こちらを見ずに答える。少し寂しさを感じつつ、小黒と風呂に入ることにした。

 眠る準備を整えて、寝室に戻る。美香の眠る時間も長くなってきたから、夜中に起きることは減ってきた。ぐっすりと眠っている美香に自然と笑みがこぼれる。
 そして、昼間の妖精の言葉を思い出した。
 私も、すべてを守れるわけではない。修行を重ねて、ずいぶん力をつけたつもりだったが、それだけではまるで足りないことを痛感する。この幼い命を襲う危険の中に、私の手で払えるものはどれくらいあるだろう。
 ベッドを見ると、小香がこちらに背を向けて横になり、クッションを抱きしめて端末を眺めていた。どうやら最近見ているドラマの続きのようだ。なぜか頼りない気分になって、温もりを求めて手を伸ばす。小香の腰に腕を回してそっと引き寄せても、彼女は何も言わずされるままだ。
「小香」
 いつもなら彼女のしていることを邪魔したりはしないのだが、今はこちらを見てほしい気持ちがあった。小香はドラマを流したまま、こちらを向いてくれた。
「どうしました?」
「うん」
 ただ名前を呼び、応えてもらえたことで、ずいぶん満たされた。小香は私が何も言わないので、またドラマに目を戻す。
 小香が視聴を終えるまでじっと温もりを感じていた。
 私の腕にすっぽりと収まる、小さくて柔らかい身体。ときどき彼女は肉付きを気にするが、何も気にすることはないと思う。しかしそう伝えると、彼女はそういうことじゃないんですと訴える。腰に腕を回したときの、柔らかく包み込むような弾力がとてもいいと思う。彼女のうなじに鼻を寄せながら、その抱き心地を堪能した。
 ようやくドラマが終わって、小香は端末を枕元に置くと、体勢を変えて私の方に向き直った。
「お待たせしました」
 そういって微笑むので、すぐに吻がしたくなる。唇を重ねると、小香の手のひらが私の頬を撫でた。
 ゆっくりと唇を食みあって、抱きしめる腕に少し力を込めてより密着する。優しく応えてくれる体温に心が安らいでいく。
 少し触れては離れて見つめ合い、また触れて、そうして穏やかな愛撫を繰り返す。
「限哥は、すごいな」
「ん?」
 ふと、鼻が触れるくらいの距離で、小香が呟く。
「今日改めて、館の記録を見る機会があったんです。ずいぶん長く遡ったのに、何度も限哥の名前が出てくるの」
 小香が私の過去に触れたのかと思うと、わずかに緊張が走った。おかしな記録が残っていなければいいのだが。
「こんなにたくさんのことに限哥が関わって、解決してきたんだなって……きっと、たくさんの人たちがそれに救われたんだろうなって」
 それらは果たして、彼らにとっての救いだっただろうか。
「限哥のしてることは、ほんとにすごいことなんです。誰でもできることじゃないですよ。ありがとうございます」
「……どうして、君が礼を?」
 館の法を執行するのが私の任務だ。人間である彼女はその範疇外にある。
「私がしたくてもできないことをしてくれているから。私がなりたい姿を、限哥はずっと示してくれているんです」
 きらきらとした瞳でまっすぐに見つめられ、胸が熱くなった。
「君の言葉は、どうしてこうも胸に染み込むのだろうね。どれだけ君が私という存在を肯定してくれているのかが、伝わってくるんだ」
「ふふ。言われ慣れてるでしょう」
「そんなことはないよ」
 辛いわけではない。迷ったわけでもない。
 きっと、ただ彼女の言葉が欲しかった。
 陽だまりの中にさらさらと吹く、温もりに満ちたそよかぜのような、愛情のこもった言葉を。
「ありがとう」
「どうして限哥がお礼言うんですか?」
 私の台詞を真似して、彼女はくすくすと笑った。心から愛する存在が腕の中にいてくれることに、感謝してもし足りない。
 私の力はまだまだ及ばない。
 それを自覚して、何ができるか、何ができないかを理解するのが肝要だ。
 家族の健やかな日々のために。

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