29.選ばれなかったのは

「私がやろう。君は座っていて」
「じゃあ、お願いします」
 无限大人は赤ん坊を片手で抱えて、キッチンへ移動する。私はじっと椅子の上に身を固くして、黙り込んでいたけれど、あの人はまるで気にしていないように、楽しそうな笑顔を浮かべて私を見てくる。
 本当はこんなところ、もう来たくなかった。
 でも、許してもらう条件が、『きちんと謝ること』だったので、重い足を引きずるようにしてでも来るしかなかった。
 无限大人を怒らせてしまった。
 今も胸に重くて冷たい岩が覆いかぶさっているようで、苦しい。怒った无限大人は本当に怖かった。无限大人に敵意を向けられて、足元の地面が崩れてしまったのかと思うほど恐ろしくて、縋れるものがなくなり、突き放されたという絶望に飲まれた。
 无限大人は、私を助けてくれた人だ。感謝してもし足りない。その恩を返すためなら、命だって捧げられる。なのに、その人が大切にしている人がいると知って、心がざわざわした。无限大人は私を助けてくれたけど、それは私が困っていたからで、それは彼の仕事で、だからその行為に特別な意味はない。わかってる。でも。私は確かに救われたんだ。そして、彼を特別だと感じてる。
 彼は困っているなら妖精だって人間だって誰でも助けるから、そういう意味ではみんなが平等だ。誰かを特別扱いすることはない。そう思ってなんとか納得していたのに。
 話を聞けば聞くほど、无限大人が選んだ人はなんにもない人だった。何か特別困っていたことがあったわけじゃない、无限大人の助けになるくらい強いわけでもない。弟子を取ったと聞いたときも、どうして私はダメなのかと苦しくなったけど、その能力が无限大人と同じだと知って、それなら仕方ないとむりやり辛さを飲み込んだ。でも、あの人については、納得できる理由がひとつもない。館でしてる仕事だって、あの人にしかできないことじゃない。たくさんの人が同じ仕事をしている。
 何か、同情を引くようなことを言って、无限大人を騙してるんじゃないかとしか考えられなかった。无限大人が選んだ相手は間違ってる。无限大人が間違うわけがないのだから、悪いのはあの人だ。
 相手は弱い人間だ。无限大人の姿を借りて少し脅かせば、すぐに自分から逃げ出すんじゃないかとひらめいた。
 いままでも、私が騙った言葉に、人々は簡単に疑心暗鬼になって、お互いを攻撃するようになり、破局した。甘い言葉を囁やきあう恋人だって、相手を信じられなくなって、暴言を吐くようになった。人間なんて、そんなものだ。逆に、嫌われていると思っていた相手にちょっと優しい言葉をかけられただけで、ころりと本当は自分のことを好きなのかも、と自惚れたりする。そんな人間たちの反応を見るのが面白くて、いろいろといたずらをした。
 だから今回も、うまくいくと思った。
 无限大人の姿で、嫌いと言えばショックを受けて、いくら无限大人が否定したとしても、もう信じられなくなって、自分から无限大人の元を離れるはず。
 そのはずだったのに。
「限哥、それはダメですよー!」
「うむ……しかし、そうはいってもだな……」
「あはは。もう、そういうとこですってば」
「そうか……?」
 どうして、この人は揺らがないんだ。能天気に笑っているのがうらめしい。无限大人も、そんな弱った表情をするなんて、いままで見たことないんですけど。
「ね、紫芳さんもそう思わない?」
「……えっと……」
 ごく自然にあの人はこちらを向いて、同意を求めてくる。正直、无限大人の普段の姿勢について、その指摘は頷ける……けど。同調するのはしゃくだった。
 お茶を飲んでごまかすことにする。あの人は深く追求せず、また无限大人に直したほうがいいと話し始める。
「限哥は本当に強いから、やっぱり接する前に怖い、と感じてしまう妖精はいるんでしょう。限哥も、話をして誤解を解く前に、そういう印象を持たれても仕方ないと諦めることがあるでしょう?」
「……無理に話しかけても、嫌な気分にさせるかと」
「それは思慮深い限哥の気遣いですね。中には、その方がいい妖精もいると思います。でも、今回は声をかけてみてもよかったんじゃないでしょうか?」
 ゆったりとした口調で語りかけるあの人に、无限大人は少し目を逸らし、口をすぼめる。
「……うまく話す自信がない」
「いつもの限哥で大丈夫ですよ。私たちには、こんなに優しく話しかけてくれるじゃないですか。きっと、伝わりますよ」
 无限大人の手に自分の手をそっと重ねながら、あの人は諭す。
 无限大人に説教なんて、と思うけど、その口調が優しくて、正しさを押し付けるわけじゃなく、とても言葉を選んで、相手が萎縮しないよう、柔らかに掬い上げていくのがわかった。
 消極的な表情だった无限大人(こんな頼りなげな表情を見るなんて!)も、話すうちに少しずつその気になっていき、最後には頷いた。
「君がそういうなら、できそうだ。やってみるよ」
「頑張ってくださいね!」
 笑顔であの人を見つめる无限大人の瞳は、優しいどころか、もっと深い感情に満ちているのが嫌でもわかった。
「あ、ごめんなさい。お茶のお代わりを淹れますね」
「私がやろう」
 私の茶杯が空になっていることに気づき、あの人が立ち上がろうとする前に无限大人が立って、私の茶杯を持ってキッチンへ行ってしまった。さっきからずっと、二人の世界に入られてしまったので、私はお菓子を食べながらお茶を飲むしかすることがなかった。
 あの人は、笑みを浮かべて私を見た。
「无限大人、優しくて素敵ですよね」
「……」
 そんなこと、改めて言われなくたって当然の事実だ。私は眉をしかめて顔を背ける。
「だから、確かに私でいいのかな、と思う気持ちがないとは言わないんだけど」
 それに構わず、何も気づかないかのように、あの人は話しかけてくる。
「そんなふうに不安になる前に、あの瞳で……私のすべてを見つめて、受け止めてくれるから、疑う暇もないのよね」
「惚気ですか、それ」
「あは、そうかも」
 嫌味を込めて言い返したけど、あの人はくすぐったそうに笑ってお茶を飲んだ。
「でも、傍から見てたらやっぱりどうしてってなるのかもしれないね。それはしょうがないかな」
「……自覚があるんですね」
「それは、だって无限大人は執行人の中でも特にすごい人だもの。あなたみたいにすごい術を持つ妖精には、おかしく見えるのかな」
「……」
 おかしいよ、と言いたかった。この前までは、断言できた。でも、この人に変化を見破られて、无限大人とのやり取りを見て、できなくなったことを自覚する。悔しいけど。
「私は、一緒に戦ったりはできないけど、こうして家族になって、无限大人が安らげる場所……帰る家になりたいと思ってる」
 帰る家、と言われて、都会を彷徨っていたころを思い出した。人間があちこちにいて、誰かのものじゃない場所なんてどのにもなくて、ゆっくり一晩眠ることもできなかった。誰かが捨てたものを拾って、ただ死なないために生きていた私を見つけてくれたのは无限大人だ。
 私に、館という家を教えてくれた。
 でも、そこに无限大人はいない。
 私とは、一緒にいてくれない。
 なのに无限大人は、ここを選んだんだ。
 この人の、隣を。
「紫芳」
 視界が歪み、熱いものが頬を濡らした。その切ない熱さとは別の暖かさが、丸めた肩にそっと触れた。
「无限大人にすごく怒られたかもしれないけど、私は気にしてないから大丈夫だよ。无限大人も、もう怒ってないからね」
「……っ、ごめん、なさい……。いたずら、して……っ」
 嗚咽とともに謝罪する。考える前に言ってしまって、伝えたら胸につかえていたものが溢れて涙になって流れていった。
 无限大人がとられて、悔しかった。選ばれたのが私じゃなくて、悲しかった。だから嫉んだ。八つ当たりだ。私、最低だ。
 小香は、私が落ち着くまで肩を撫でてくれた。

 无限大人が戻ってきたのは私が泣き止んだころだった。赤ん坊を抱いて、淹れたてのお茶を持って私のそばに来た。私の赤くなった目や、萎れた耳を見ても、表情を変えない。ただ、前みたいに優しく笑ってくれていた。
「遅くなってすまないな。美香のおむつを変えていた」
「おむつ?」
 こんな小さな生き物の世話を无限大人が甲斐甲斐しく焼いている姿はどうもちぐはぐに感じた。
 赤ん坊は、私の方に大きな瞳を向けている。観察されている気がして、落ち着かない。
「抱っこ、してみる?」
「え、でも」
 小香に言われて、不安になって肩をすくめる。なんだか柔らかくてか弱そうだから、どう触れたらいいのかわからなかった。赤ん坊は私の方に手を伸ばしてきた。无限大人は、そっと赤ん坊をこちらに近づけてくる。赤ん坊の指が私の髪に触れて、きゅ、と握った。
 至近距離で見て、その瞳が无限大人そっくりなことを知り、すべてを悟った。
 この子がここに存在している、その意味を。
 无限大人の左手と、小香の左手に、それぞれ指輪がついている意味を。
 目を伏せて、細く息を吐く。
 ほんとに、バカなことをしたな。
「そろそろ、帰ります」
「そう? じゃあ……」
「一人で帰れますから」
 人間の姿になってみせると、小香はすごい、と手を叩いて笑った。持ってきていたハンチング帽を被って、おいとまする。
「また遊びに来てね」
 玄関まで見送って、小香はそう言った。心からそう言ってくれているのがわかって、私はただ小さく頷いた。

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