28.いたずら妖精 |
「ただいまー」 返事がないことをわかっていながら声をかけ、玄関を閉める。まだ昼間なので、无限大人も小黒も帰ってきていない。 美香をソファに下ろして、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れようとして、ふと気づいた。 「……限哥?」 リビングの大きな窓のそばに、无限大人が静かに佇んでいた。 「あれ? もう帰ってきてたんですね。おかえりなさい」 「小香」 无限大人はゆっくり振り返って、 「別れよう」 静かにそう言った。 微笑をたたえた表情は確かに无限大人だった。 けれど。 「……え?」 なんと言えばいいかわからず、間の抜けた声を出してしまう。彼はただ笑っている。 「もう、いいだろう。ここまでだ」 答えあぐねていると、ソファに座っていた美香が泣き出してしまった。それに構わず、彼は続ける。 「お前のことが嫌いになったんだ。だから別れてほしい」 「……っぷ、ふふっ……!」 なぜだか楽しそうに話すその姿に、つい我慢できず、笑ってしまった。彼は虚を突かれたように身じろぎ、動揺を見せた。 「な、なぜ笑う? 今私は別れ話を」 「すみません! ちょっと待ってくださいね、美香が……この子が泣いてるので」 美香を抱き上げて、背中を叩いてなだめる。 「大丈夫よ、香香。たぶん、无限大人か小黒の知り合いの人だと思うから」 「何を言っているんだ。私は无限……」 「あはは。ごめんなさい。すごいそっくりですね! 妖精って、そういうこともできるんですねぇ」 「……っ! なんでわかったのっ!?」 突然、彼の声が女の子のように高くなったと思うと、无限大人の姿が解けるように変化し、犬のような顔をした妖精が現れた。クリーム色の髪はふわふわとしていて、垂れた大きな耳がかわいらしい。これが彼――彼女の、本来の姿のようだった。 「わ、かわいい。こんにちは」 「な、馴れ馴れしいこと言わないで! ……こんにちは」 「无限大人も小黒もまだ帰って来ないので、お茶でも飲みながら待ちますか?」 「いい、いらないわよっ!」 そう叫ぶと、彼女は窓を開けて飛び出していってしまった。 「あら……もういない」 美香はきょとんとしながら一緒に外を眺めていた。顔を見合わせて、笑い合う。 「だって、すぐわかるよね?」 見た目はどんなにそっくりに変身できても、立ち方や笑い方、私に呼びかける声、どれも彼とは全然違う。それになにより、美香が泣いているのに無視できるはずがない。 「でも、用事があったんじゃないのかしら……」 戻ってくる気配がないので、窓を閉める。帰ってきたら、二人に話してみよう。 館でようやくその姿を見つけて、音もなく金属を飛ばす。 「ふぎゃっ!?」 彼女の身体に巻き付かせて拘束すると、彼女は床に倒れて潰れた蛙のような声をあげた。 「うわっ!」 そのまま足を上にしてつるし上げる。彼女の大きな耳がめくれ、地面すれすれに垂れ下がった。 「なにすんの……あっ!」 彼女は私が誰かに気づくと、さっと青ざめた。 「あっ……、う……」 「……言うことがあるだろう」 低く声を抑えて問う。彼女は口を開閉するばかりで、声を発することもできないらしかった。 「なぜあんなことをした」 小香に、知り合いの方が来ましたよと言われたから誰だろうと聞いていたら、とんでもないことを言うので肝が冷えた。 まず、勝手に家に侵入している。さらに、私の姿を真似ている。その上、彼女に別れ話をするなど。 「何が目的だ」 彼女――紫芳は、睨み付ける私を見上げて泣きそうになったが、ぐっと歯を噛みしめると、反抗的に顔を逸らした。 「だって! おかしいもん!」 きっと私を睨み返すと、紫芳は開き直った。 「どうして、ただの人間が! なんの力もないくせにっ! 当たり前みたいな顔して図々しい! むっ!!」 金属の輪を飛ばし、耐えがたい言葉を抑え込む。 「それ以上彼女を貶すのは許さない」 しかし、なぜ彼女がこんなことをするのかわからない。人間嫌いではなかったはずだ。若水や紫羅蘭ほど積極的ではないが、人間と関わることを楽しんでいると思っていた。しかし、それは私の思い込みで、実際は違ったのだろうか。もし彼女に害意があったらと思うと、単なる悪戯だと看過できない。簡単に家に侵入されたのは私の落ち度だ。常にそばにいられない己の無力さを突きつけられる。どんなに力があっても、いざというときにそばにおらず、助けられなかったならなんの意味もない。 紫芳はもがくのをやめ、懇願するように私を見上げる。反省したか、もしくは拘束を緩めるため、振りをしているだけか。 「もう、二度としないと誓うか」 もし破れば二度はない。紫芳はじっと丸い瞳で私を見上げ、一度だけ、しっかりと頷いた。 その瞳を見つめ返し、もう揺れないのを認め、金属をすべて外してやる。紫芳は受け身を取れず地面に落ち、萎れたままその場にゆっくりと起き上がってしゃがみこんだ。 「……やりすぎました。ごめんなさい」 どうやら、本当に反省したようだった。私は怒りを収めるため息を吐く。 「どうして、こんなことを」 「だって……」 改めて訊ねる。なるべく責める色を滲ませないようにしたつもりだが、紫芳はちらりと私を見上げ、また目を逸らした。 「无限大人には……不釣り合いだもん……」 「彼女が? まさか」 服の裾を握り、掠れた声で言うのを聞き咎め、眉を顰める。 「私には過ぎた人だよ」 「だって! ただの人間っ……!」 金属を見えるように浮かべると、紫芳ははっとして口を噤んだ。しかし、その表情は依然として不服を訴えていた。 「彼女は君の変化を見破ったんだろう」 そう指摘すると、彼女は悔しそうに歯を噛んだ。 「見た目はそっくりなのに、まったく違うから面白かったと笑っていたよ」 すぐに私ではないと見抜いてくれたのはとても嬉しいが、知らない妖精に対してあまりにも無防備なところが気にかかる。もし、それが紫芳ではなく、別の、彼女を害そうと企む妖精だったらと思うとぞっとする。しかし、彼女は私の心配をよそに、あなたか小黒の知り合いかと思ったからと笑ってみせるばかりだ。結果的にそうだったからよかったものの。 「……私の変化、ほとんどバレないのに……」 紫芳は納得いかない様子でぼやいた。 「確かに見た目はそれなりだが、まだ詰めが甘い。観察眼が足りないな」 「むっ……!」 「私になりきるなら、立ち居振る舞いも真似てみなさい」 「うぅ……」 耳を垂れて、紫芳は唸るが反論できない様子だった。 「……しかし、いくら別人と気づいていたとは言え、まったく動揺しないとは……」 たまに、彼女の胆力はとんでもないのではないかと思わせる。確かに彼女は非力で、戦うことも、能力を使うこともできないが、だからといってただか弱い存在というわけでは決してない。 もし、彼女そっくりの人が現れたとして、私は気づけるだろうか? ふとそんな疑念が浮かぶ。 「……試してみる?」 私が答える前に、紫芳は小香に姿を変えた。目の前に立つ女性は間違いなく小香で、思わず息を呑む。 「……小香」 つい名前を呼ぶと、紫芳はわずかに目を細めた。 「……きらい」 「え」 「あなたのことなんか……っ、き、きら、……もう! 知らない!」 「っ……!?」 小香……いや、紫芳はそう叫ぶと、脱兎のごとく飛び出していってしまった。私は追いかけようと思うことすらできず、その場に立ち尽くしていた。 きらい。 その言葉が頭の中で渦を巻く。 眼の前で変化したのを見たというのに、彼女ではないことは承知の上だと言うのに。 どうしようもないほど胸がひどく傷んだ。 彼女の顔で、彼女の声で、嫌いと言われることが、想像以上に恐ろしいことだと身を持って知った。 世界の終わりとはこのことか。 彼女を失うのかと思うと、心臓が凍りついた。もし許してもらえるなら、彼女を失わずに済むのなら、なんだってする。恥も外聞もなく懇願しよう。どうか私を嫌わないでほしいと。そばにいてほしいと。 あの一瞬で、そこまで思い詰めてしまった。 深く息を吐いて、なんとか心を落ち着かせようと試みるが、うまくいかない。 早く仕事を終わらせて、帰るしかない。 彼女の元へ。 「おかえりなさい、限哥!」 リビングで无限大人を迎えると、なんだか无限大人はすごくほっとしたような顔をした。今朝仕事に行くため家を出て、日中離れていただけなのに、まるで長年会えなかった相手にようやく会えたとでもいうくらいの表情だった。 「どうしたんですか?」 「うん、君が笑顔で私を迎えてくれる幸せを、噛み締めている」 「あはは。それを言うなら私だってそうですよ!」 限哥が私たちの元に帰って来てくれるのが、どれほど嬉しいか、と言って、小黒や美香へねえ、と同意を求める。无限大人はただ笑みを深めた。やっぱり、ちょっと疲れてるみたい。 ご飯を食べ終わって、お風呂に入って、美香を寝かしつけ、无限大人と寝室に戻る。ようやく二人になれたので、甘やかそうかな、と思ったら、珍しく彼の方から甘えてきた。 「……小香。君は、強いな」 「どうしたんですか、急に」 「情けない私を笑ってくれ」 「笑いませんよ! 限哥は情けないなんてこと絶対ないですから」 「そんなことはないよ」 「あ、でも、こうやって甘えてくれるのは嬉しいです。私の前では、弱音吐いたり、力を抜いてほしいから」 无限大人が私の腰にまわした腕に力を込めた。顔は肩に埋められているので、表情は見えない。そっとその髪を撫でた。 「君に嫌われたら、と思うと、動けなくなってしまった」 「ふふ、そんなことあるわけないじゃないですか」 この前と逆の立場だ、とおかしくなる。无限大人に別れ話されたんですよ、と冗談めかして言ったら、そんなことは絶対にしない、とひどく真剣な表情で否定された。きっと、私がまるで気にしていないのは、无限大人の想いをそれだけ信じられるからなんだと思う。少しも疑う隙もないくらいに、絶対的な愛を、无限大人は与えてくれているから。 「そうだ、妖精の子、会えました?」 「ああ。紫芳という。確かに少し悪戯なところがあるが、こんな悪質なことをする子ではないんだが……」 「悪戯かぁ。私のこと、からかいたかったのかな? だったら、全然引っかからなくて申し訳なかったかも」 「君が申し訳なく思う理由など一片もない」 力強く言われてしまって、苦笑するしかなかった。 「……少しも揺らがないでくれるのは、嬉しいな。それだけ、私の想いを信じてくれていると、自惚れても?」 「そうですよ! 限哥が絶対言わないことだから、面白く感じられたんです。ふふ」 无限大人はようやく顔を上げて、私の顔を見つめると、眉を下げて笑ってみせた。 「今度私を真似るなら、いかに君を想っているかまで、きちんと真似してもらわなければな」 「それはっ……、なんか、照れます……」 无限大人の顔をして、甘い言葉なんか言われたら、恐らくそのほうが動揺してしまう。无限大人は力を抜いて肩を揺らした。 「かわいいな、君は」 「ふふ。機嫌、治りました?」 「……いや。まだかな」 无限大人はそう言いながら、顔を近づけてくる。 「まだ、甘やかしてもらわないと……」 唇が触れそうなところで、止められる。そのまま物言いたげにじっと見つめてくるので、観念して私からキスをした。 「しょうがないですね。元気になってほしいから……」 首に手を添えて、何度もキスをする。 「どれくらい甘やかしたら、足りるかな?」 「いくらでも、ほしいよ」 无限大人は私を抱きすくめると、熱くて甘いキスをくれた。 紫芳さん、いつかちゃんと、お茶を飲めるといいな。いろんな話を聞いてみたい。きっと、私の知らない无限大人のこと、知ってるだろうから。教えてほしい。彼女が魅力的に感じた、无限大人の側面を。 そんな考えが、无限大人の熱によって、端から解かされていく。 甘い夜が、シーツの上に広がった。 ← | → |