26.新緑の衣

 久しぶりに贔屓にしている服屋に訪れると、もう夏物が並べてあった。ここの経営者は妖精であり、従業員もみな妖精で、彼らが作ったものを販売している。ここに足を運ぶのは彼らの様子を見るためでもあるが、品質もよく、種類も豊富で、物にも満足している。彼らはいいものを作る。
「最近はお一人でいらっしゃいますね」
「ああ、学校が忙しいからな」
 よく小黒を連れて来ていたから、それを覚えている店主が言及してきた。以前はどこに行くにも一緒に行きたがっていたことを思い出し、つい笑みが溢れる。
「つい先日から、夏に向けて新作を並べておるんですよ」
 店主は何着かを手に持って、こちらに見せてくれる。薄い生地のいかにも爽やかな深衣だ。
「特に、この青藍の色がきれいに染め上がりましたので、職人自慢の一枚ですよ」
「ほう」
 確かに、目の覚めるような鮮やかな色だ。ふと、その色を見て小香の姿を思い浮かべた。彼女に贈った翡翠の指輪の色によく似ていたからだ。彼女はその色を見て、まるで私の瞳の色のようだと嬉しそうに言っていた。自分ではどうか判断しかねるが、彼女が喜んでくれるならそれ以上のことはない。
「この色は、これ一着だけか?」
「他のデザインがよろしいでしょうか?」
「女物があれば、と思ったんだが」
「ああ、奥様にですね」
 店主はすぐに笑みを浮かべて心得たように頷いた。
「実は、まだ布は残っているのですが、仕立てはまだでございまして。そういうことであれば、こちらと揃いのものをひとつお作りいたしましょう」
「いいのか?」
 いままでこの店を利用してきて、衣装の注文ができるとは知らなかった。店主は驚く私にははは、と快活に笑って見せる。
「いつもお世話になっているお礼ですよ。きちんとお祝いもできておりませんでしたし。よければお受け取りください」
「そうか」
 確かに長く利用してはいるが、そこまで恩に着てもらうほどではない。だが、せっかくだから好意を素直に受け取ることにした。なにより、彼女にいい贈り物ができる。
「なら、頼んでもいいか」
「もちろんでございます。仕立てについてご注文はございますか?」
「そうだな……」
「ああ、失礼いたしました。立ち話もなんですし、こちらへどうぞ」
 店主は店の奥にある卓子に私を座らせて、茶を淹れにいった。少し寄ってすぐに帰るつもりだったが、遅くなりそうだ。小香に連絡を入れておこうと、懐から端末を取り出す。
「お待たせいたしました」
 店主は茶を置くと、そばの棚から冊子を取り出して開いた。そこには様々な漢服の写真があった。
「よければ参考になさってください」
「うん」
 頁を捲り、衣装を見るものの、どれも彼女に似合いそうだと思える。ひとつに絞り込むのはなかなか悩ましい。
「ふむ……」
「ゆっくりお考えください」
 そう言い残して、店主は離れていく。客が来たから対応に向かったようだ。顔は上げずにそれだけ察して、吟味する。彼女はどんな形を気に入るだろうか。以前着ていたものを思い出す。確か写真があったはずだと端末を探した。
 まだ数年前のことだが、ずいぶん前のことに感じる。まだ出会ったばかりのころだ。漢服を着ている姿を初めて見たとき、美しいと思った。今思えば、そのときから彼女をひとりの女性として意識していたように思う。もう一度その姿が見たくて、漢服を着て出掛けることを提案した。
 彼女は渋りながらも、小黒にも見たいと言われて、ようやく頷いてくれた。それからなかなか機会がなく、漢服姿を見ることがなかった。考えてみれば、漢服姿を見たいなら、贈ればよかったのだと今気づく。
 風にはためく裾や袖を優雅に揺らし、微笑む彼女の姿が今も明瞭に目に浮かぶ。
「いかがでしょうか?」
 いつの間にか店主が戻ってきた。
 私は決めたひとつを指差す。
「なるほど、対襟の直裾深衣でございますね。かしこまりました」
「よろしく頼む」
「出来上がりましたら、ご連絡いたします」
「ああ。……そうだ」
 ふと思いついて、店主に言った。
「そもそも、妻を紹介していなかったな。服を取りに来るときに、連れてこよう」
「それは嬉しいことです。无限大人の奥様には、ぜひお会いしたいと思っておりましたから」
「すまない」
「いえいえ」
 長く世話になっている店主に紹介することを失念していたばつの悪さと、彼女にこの店をもっと早く紹介しておけば、という後悔があった。
「お忙しい身ですから。こうしておいでくださるだけでありがたいものですよ」
 店主は柔和に微笑む。彼も出会ったころは、人間への敵対心が強かった。しかし、館に来て、人間を知るにつれ、人間に対する考え方が少しずつ変わっていった。
 今では、行き場のない妖精を迎え入れて、働き方を教える立場になっている。今の穏やかな老爺の姿を見て、その変化はきっと悪いものではなかったはずだ、と思う。
「では」
 注文を終えて、店主に見送られながら店を後にし、家へと帰った。

 買い物に行こう、と彼女を誘い、美香を連れて車に乗る。
「こっちの道、あまり来ませんよね」
 通る道がいつもと違うことに気づいて訊ねた彼女に、ただ笑ってみせる。彼女は不思議そうにしながら、深くは聞かず、美香をあやした。
「あ、漢服屋さんですか?」
 車を止めて降りたところに立つ店を見て、小香は弾んだ声を出した。
「ずいぶん前から世話になっているんだ」
 美香を抱いた小香を店に案内しようとすると、車の音を聞きつけた店主が顔を出した。
「无限大人、奥様、ようこそおいでくださいました」
 丁寧に小香に頭を下げる店主に、小香も頭を下げて名前を名乗った。
「この子は娘の美香です」
 そして、腕の中の美香を抱き直して、店主に顔を見せるようにした。店主は小さな目を丸くして、その顔を覗き込んだ。
「おお、この子が无限大人の……」
 美香は店主をじっと見つめて、きゃっきゃと笑い声を立てた。
「ああ……本当に、似ていますねえ」
 そう言いながら、店主は目を潤ませた。
「血の繋がった子というのは、こういうものですか……」
 妖精は子を成さない。霊質から生まれ、霊質に還っていく。だから彼も、私の子というものがどういうものか、実感として湧きにくかったのだろう。実際に、美香が私の特徴を有し、しかし確かに私とは違う存在であることをその目で見て、感じるところがあったようだ。
「すみません、少し感情的になってしまいました。美香さんがあまりに愛らしくて……」
 店主は目元を拭うと、笑顔を作って私たちを中へと促した。
「まずはお茶を淹れましょう」
 店主は私たちを卓子に座らせて、奥へ下がった。小香は興味深そうに店内を見回している。
「たくさん漢服がありますね!」
「ここの妖精たちの作ったものだよ」
「そうなんですか! じゃあ、限哥の着てる服は、ここのだったんですね」
 しみじみとした様子で小香は並べられた漢服を眺めている。
「もっと早く連れてくればよかったな」
「え?」
 その横顔を見つめながらぽつりと呟く。小香はくるりとこちらを振り返った。
「君に漢服を着てほしいと思っていたのに、思い至らなかった」
「あはは。でも、素敵なお店ですね! 紹介してもらえて嬉しいです。こんなに漢服のあるお店、初めてかも」
「あとでゆっくりご覧になってください」
 茶を淹れて店主が戻ってきた。小香が茶を飲んで一息ついたところで、店主に目配せをする。店主は頷き、立ち上がると、奥から服を二着持って戻ってきた。
「奥様、よろしければ立ち上がってご覧ください」
「わ、きれいな色ですね」
「君に似合うと思って」
 立ち上がった小香に、店主は漢服を添えてみせる。小香はえ? と私の方に目を向けた。
「いい色だろう?」
「はい。きれいです。えっと……?」
「気に入ってくれただろうか」
「あの、とても……あの、それは……」
「无限大人から、奥様への贈り物でございますよ」
 そわそわしている小香に、店主が事の次第を説明してくれた。それを聞いている小香の頬がみるみる上気し、幸せそうな笑みが花開くのを見て、胸がじわりと暖かくなる。
「わぁ、そんな、わざわざ……私に……?」
 夢見るような瞳で漢服を見つめる表情はとても愛らしく、仕立ててもらってよかったとはっきりと思った。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです……!」
 彼女は目を潤ませて、薔薇色の頬に幸せに満ちた笑みを浮かべた。その笑みが見られただけで、私には十分すぎるほどだ。
「試着なさいますか?」
 店主が言うと、奥から女性の店員が現れた。着付けを担当している妖精だ。小香が問うように私を見るので、頷いて見せる。
「では、頼もうか」
 小香が着替えている間、美香と一緒に待つ。どんなふうだろうかと想像しては、仕切りが開くのが待ち遠しかった。
 ほどなくして、店員のお待たせしましたという声とともに仕切りが開かれた。
 そこに立つのは春の女神か、新緑の天女か。
 この世のものと思われず、言葉が出なかった。
「ど……どうですか?」
 しかし、発された声はいつもの小香の愛らしい音色で、ああ、ちゃんとここにいる、私の妻だ、と安堵する。
「このまま天に帰ってしまうかと思った」
「え!? どういうことですか!?」
 美香はひらひらとした袖が気になるようで、手を伸ばす。
「ふふ、香香、どうかな? 似合う?」
「まぁ、あう!」
 そろそろママ、と発音できそうだが、なかなかはっきりと聞き取れるところまでは来ていない。
「じゃあ、次はパパね」
 小香に美香を預け、私も着替えた。着慣れているから、着付けの手伝いは不要だ。仕切りを開けると、期待に満ちた小香と美香の眼差しが待ち構えていた。
「わぁ! かっこいい……というか、美しい……!」
 小香と美香はそっくりな、きらきらとした瞳で私を見つめる。美香は瞬きも忘れたようで、大きな瞳が零れそうなほど見開いて、じっと覗き込んでくる。
「香香の前では、あまりこういう格好をしていなかったか」
「そうかもしれませんね。でも、いままでの漢服の中でも、特に素敵です!」
 小香は写真撮らなきゃ! と鞄を漁り始めた。
「私が撮りますよ」
 店主が申し出てくれるので、私と小香は並んで立つ。店主は端末を構えようとして、手を止めた。
「ああ、せっかくだから外で撮りましょう」
 その方が色がきれいに映えますよ、というので、小香と外へ向かった。隣に並ぶ小香の裾の翻るのが視界の端に見えて、もっと見たくなる。小香もこちらをちらりと見てきて、目が合った。お互い、微笑み合う。
「そこがちょうどいいですね、さあ」
 柳の木の隣に立つ。小香が身を寄せてきた。美香はまだ私を見ている。
「美香さん、こっちですよ」
 店主が何度か呼んでもなかなか美香はカメラの方を向かない。私は金属を飛ばして、美香の注意を惹いた。美香は、きらきらと光を反射する金属を見るのが好きだ。うまくカメラに向いたところを、店主が撮影してくれた。
「いい写真が撮れましたよ」
「ありがとうございます! 本当だ、素敵!」
 写真を確認して、小香は嬉しそうに笑う。確かに、いい写真だ。揃いの漢服を着て佇む私たちを見て、夫婦だと思わぬ人はいないだろう。
「もう少し大きくなったら香香の分も用意して、小黒も一緒に撮りたいですね」
「そうだな」
 その日はきっとそう遠くないだろう。
 帰る段階になって、小香は自分の袖を引っ張りながら呟く。
「漢服、すぐに脱いじゃうのもったいないな」
「せっかくですから、近くの公園を散策なさってきたらいかがでしょう」
 店主はそう言って、公園の場所を教えてくれた。
「いいですね! 歩きましょう、限哥」
「ああ、いいな」
 私もこのまま帰るのは惜しいと思っていた。もう少し、小香の天女姿を堪能したい。
 店主に礼を言って、店を出て、公園に向かった。

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