21.甘い時間を

「限哥」
 最近は、言い直さず、そのままさらりと呼んでくれるようになってきた。まだ少し照れがあるようだが、ごく自然とそう呼びかけてくれるのが嬉しかった。やはり大人、と呼ばれると、一定の距離があることをいやでも感じた。彼女からしてみれば、その距離は当然のものなのかもしれないが、詰められない距離への寂しさがあった。
「なにか、いいことありました?」
 何も言わず、ただ笑みを浮かべていた私に、彼女は不思議そうな顔をする。つられたのか、彼女も微笑を溢した。私はいや、と首を振る。
「幸せだと、思って」
「限哥……」
 ソファに並んで座り、お茶を飲んでいるだけの、落ち着いていて、静かなこの時間。香香はよく眠っている。さっきまで荒れ狂う嵐のようにはしゃいでいたのが嘘のようだ。
 隣に座る彼女の手に手を重ね、二人の間に空いていた隙間を詰めて、寄り添う。彼女は目を伏せて、私の肩に頬を寄せた。
「ほんとに。幸せですね」
 触れ合うと、彼女の匂いがふわりと香る。甘く包まれ、胸の奥までそっと染み込む優しい香りだ。
「また、明日からしばらく任務になってしまうが……」
「その間何かあったら、また画像とか、動画送りますよ!」
 ふいに、この時間も長くは味わえないことを思い出してしまい、呟くと、彼女は顔を上げて勢いよく言ってくれた。
「香香が初めて喋った瞬間を、この耳で聞けなかったのは口惜しいが、君が知らせてくれたから助かった」
「動画撮れなくてすみません。いつも撮って待ち構えているわけにもいきませんものね」
「仕方ないな。香香がいつ何をするのか、予測するのは無理だ」
「そういう能力ってないんですか? 未来が見える、とか」
「未来か。どうかな」
「限哥が知らないなら、ないのかな」
 小香は残念そうだった。未来を見る能力、とは考えたことがなかった。人は占いなどで未来を予言したり、科学的な手法で未来を予報をしたりしている。確かに、それがあれば赤ん坊がいつどんな成長を見せてくれるかわかるだろう。
「しかし、予めわかってしまったら味気ないだろう」
「そうですね。喜びが半減しちゃうかも」
 未来が見えたら、と想像してみたが、そう面白そうにも思えなかったのでそう言うと、小香も同意してくれた。
「思ってもみないタイミングで、突然、いままでできなかったことができるようになって、それからは当然のようにそれをしてみせるんです。私はほんとに驚いて、ああ、香香がまた成長したんだなぁってしみじみして、とても嬉しくなりますから。この瞬間は、ネタバレなしで迎えたいですね」
「うん。写真や動画もいいが、まずは君自身がその目で受け止めてあげてほしい」
「はい。この目に焼き付けます」
 くすくすと笑いながら彼女は頷いた。
「明日からは、またしばらく離れ離れですから……」
 小香はふと声を潜め、私の腕に腕を絡め、身を寄せてくる。
「今は、もう少しだけ二人の時間を楽しみたいです」
「……ああ。そうしよう」
 私は彼女の腰に腕を回して抱き締め、額に口付けをする。そのうち小黒が帰ってきて、香香が目を覚ます。そうなったらまた賑やかな時間の始まりだ。
 小香は母親になったが、私にとっては以前と変わらず、愛しい我が妻だ。いつだって触れていたい。抱きしめたいし、吻をしたい。近頃は子育てにも慣れてきて、香香も大きくなり、少し余裕が出てきて、こうして二人で寄り添える時間が増えた。
「少し、気が早いが……」
「なんですか?」
「次の子は、男児もいいな」
「! 気が早いですっ!」
 思い浮かんだことをそのまま口にしたら、彼女は顔を赤くした。もう、恥ずかしがるようなことはないと思うのだが。
「でも……そうですね」
 小香は考えながら、口を開いた。
「限哥に似た、男の子も……いいですね」
 そして、想像したのか、口元を緩める。私に似た子、か。
「香香は、どちらかというと君に似ている部分が多いからな。男児であれば、私似になる可能性があるか」
「そうですよ。ちっちゃい限哥……絶対かわいいなぁ」
 小香が何を想像しているかよくわからないが、ずいぶん楽しそうだった。
「でも、女の子で限哥に似てても、美人さんになるだろうなぁ」
 さらに想像を広げて、小香はにやけている。私にはうまく想像ができない。私に似た女児となると、どんな成長をするだろう。
「ちょっと見てみたいかも……」
 小香は寝ている香香の髪をふわふわと撫でる。生まれたときに比べると、かなり量が増えてきた。柔らかな髪質は、小香そっくりだ。
「こればかりは、授かるものだからな」
「そうですね」
 香香を撫でるために少し離れた小香の腰を両腕で引き寄せ、しっかりと抱きしめる。肩をすくめて笑う小香の口に唇を寄せる。小香はまだ笑いが収まらない様子で、触れた唇はくすくすと揺れていた。
 温かな体温を確かめて、柔らかな肌を撫で、その存在を全身で感じ取る。何度触れても、いくらでも愛おしさが溢れてきて、胸を満たしていく。
「小香」
 頬に触れ、瞳を見つめ合う。指を絡め、甘い胸の痺れに酔った。
「好きだよ」
「……私も、ですよ」
 小香は微笑して、自分からそっと唇を寄せた。それを受け止めて、ぷくりとした唇を食む。まだ香香は寝ていて、小黒が帰ってくるまでは時間がある。頭の片隅で残り時間を意識しながら、二人の時間をゆっくりと味わった。

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