1.静かな昼下り

 ベッドの上で、安らかに寝息を立てる娘の、小さくて柔らかいお腹をゆっくりと叩いていた手をそっと離す。それでも娘は起きず、気持ちよさそうに眠っている。閉じられた瞼から伸びる睫毛は長くて、ほっとしながら眺めていた。无限大人も意外と睫毛が長いし、私も長い方だから、二人から受け継いだのかも。
 よく寝ているけれど、私が動いたらすぐに起きてしまいそうで、なかなか動けない。でも、寝ているうちにいろいろとしたいことがある。どうしようかと考えていたら、无限大人がそっと、音を立てないようにドアを開いた。部屋が静かだから、美香が寝ているだろうと察したのだろう。
「代わろう」
「ありがとうございます」
 小声で話して、私は起き上がり、无限大人が入れ違いにベッドに横になる。娘はそれに気づかず、すやすやと寝続けている。赤ん坊というのはなかなか敏感で、少しでも私が離れようとすると、静かに寝ていたと思ったら火がついたように泣き出したりする。初めはどうしたらいいのか戸惑って、泣かないようにととにかくそばに居続けるしかなかった。无限大人が家にいてくれるときは交代してくれたけれど、私でないといやだとばかりに无限大人の腕で泣き続けることもあった。
 少しずつ、娘との付き合い方を学んで、大泣きしていてもそこまで狼狽えなくてもいいと理解していった。赤ん坊は言葉が話せないし、こちらの意図もわからないので、とにかく全身全霊で訴えてくる。その全力さに、こんな小さな身体のどこにこんなパワーがあるんだろうと驚くけれど、それをどう受け止めたらいいのかがわかってくると、理解してやれない申し訳なさが少しずつ薄れていった。
「すぐ戻るので」
「ゆっくりでいいよ」
 无限大人はそう言ってくれるけれど、あまり離れているのもどうしているか気になって落ち着かなくなるので、やることをささっと終わらせてしまおうと思う。リビングに行って无限大人の作ってくれたご飯を食べる。家事はもう无限大人がやってくれているので、言うほどやるべきことは多くはない。だいたい考えていたとおりの時間で部屋に戻ると、无限大人が立ち上がって、美香を抱きかかえて、あやすように揺すっていた。どうやら、一度目を覚ましてぐずっていたのを、寝かしつけてくれたみたいだ。
「今、ちょうど寝たよ」
「よかった。无限大人の腕の中で、気持ちよさそうですね」
「今回はパパで許してもらったよ」
「ふふ」
 最近、无限大人は自分のことをパパと呼んだりする。私が美香、パパだよ、なんて呼びかけたりする影響だ。小黒に対しても振る舞いがまるで父親のように見えることはよくあったけれど、美香に対してはより甘い顔をしていると思う。无限大人は、気づいてるだろうか。どんなに優しい顔をしているか。私は美香を愛しそうに見つめる无限大人の伏せられた瞳を見るたびに胸が切なく疼く。私たちの子を、こんなにも愛してくれているとわかるから。そして、顔を上げて、私を映すと、その瞳の色合いは微妙に変わる。その色は、ずっと私に向けられていたもので、けれど、以前よりもずっと深みが増した。
「君はもう少し休むといい」
「じゃあ、お言葉に甘えて……少しだけ」
 无限大人に美香を預けて、ベッドに入る。隣に美香がいると、何か起きてもいいように、と自然と身体に力が入る。今は无限大人がいてくれるから、リラックスできた。
 こんなに小さな身体で一生懸命生きているけれど、ちょっとしたことで体調を崩してしまうかもしれないという不安が常にある。まだまだか弱くて、首も座っていない。目も、まだ完全には開ききっていない。
 今年のお正月はささやかに済ませたけれど、春節のころにはもう少しお祝いする余裕ができているといいと思う。
「もうすぐ、君の誕生日だね」
「あ、そうでしたね」
 春節の時期がちょうど誕生日だった。
「美香にも、ママのお祝いをしてほしい」
「あはは。まだ何もわからないですよ」
 美香の顔を眺めながら楽しみだという様子で言う无限大人に、笑ってしまう。それに、ママと呼ばれるのはまだ慣れなくて、くすぐったい。
「きっとわかるよ。大好きな母親が生まれた大切な日なのだから」
「そうですか……?」
 无限大人がそう言うと、そうかな、という気がしてくる。赤ちゃんはお腹にいるころから耳はちゃんと聞こえているそうだから、もしかして本当にわかったりするのかも。
「君も生まれたばかりのころは、こんな赤ん坊だったんだな」
「そうですね。覚えてませんけど」
「見せてもらったアルバムに赤ん坊の頃の写真が載っていただろう。思えば、やはり面影があるよ」
「あっ、よく覚えてますね……」
 そういえばそんなこともあった。自分でも覚えていない、過去の姿を見られるのはどうも恥ずかしい。
「よく記憶しようとじっくり見たからね」
「じっくりはやめてください……」
「かわいかったよ」
「うう」
「今ももちろんかわいい」
「もー!」
 思わず大きな声が出そうになって、慌てて音量を下げる。美香は顔をしかめて腕を伸ばしたけれど、起きはしなかった。
「今日はよく眠っていますね」
「ああ。いい子だね」
 无限大人はまだ髪の生え揃っていない、柔らかな頭をそっと撫でる。
「あんなふうに、美香のアルバムも作ろう」
「はい。たくさん写真、撮りましょう」
 いつか大きくなった美香と、振り返って写真を眺めながら、こんなことがあったんだよ、と話してあげたい。
 无限大人はベッドに腰を下ろし、美香をそっと私の隣に寝かせると、自分もその反対側に横になった。真ん中にいる美香の寝顔を、二人で見守る。
「私も眠くなってきました」
「寝るといい。私が起きているから」
「はい……でも、ちょっともったいないな」
 美香が静かにしているこの穏やかな時間に、无限大人ともう少し話していたい。美香越しに无限大人を見つめると、无限大人は微笑み返してくれた。そして手を伸ばして、私の手を握る。
「小香」
 いつまでも、名前を呼ばれるだけでどきどきするこの心は、无限大人の声の震えにときめくのをやめないみたいだ。
「いつでも私はそばにいるよ」
「无限大人……」
 忙しいだろうに、なるべく家にいようとしてくれている。館長たちもそうするよう気を使ってくれている。无限大人がいてくれるから、私は安心して子育てに集中できる。
「晩安、小香」
 優しくおやすみを言われると、自然と瞼が重くなる。手を握ってもらったまま、美香の呼吸を感じて、身体から力を抜いた。そのまますぐに意識が沈んでいく。ただ暖かい二つの体温に包まれて、束の間の休息をとった。

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