14.散歩

 近頃は寒さも和らぎ、花の匂いがするようになってきた。春が近付いている。
 香香は无限大人によってしっかりともこもこに包まれて、ベビーカーに乗った。近くの公園まで散歩だ。
「そろそろ桜の時期ですね」
「うん。香香を連れて見に行きたいな」
 そうだ、と无限大人は思いついた顔をする。
「せっかくだから、日本の桜を見たいな」
「日本ですか? でも……」
 みんなに日本の桜を見てほしいけど、そう気軽にいける距離じゃないし、香香もいる……と考えたところで、ひとつ方法があったことを思い出した。
「あ、もしかして……」
「日帰りで行ける」
「そう気軽に使っていいものなんでしょうか」
「いいんだよ」
 无限大人はちょっといたずらっぽい顔をする。その表情がかわいくて、つられて笑った。
「じゃあ、香香初めての日本ですね」
「ご家族にも会わせたいな」
 まだお母さんにしか会っていない。もう少し大きくなってから、と思っていたけれど、飛行機に乗らずに済むならいつでも行ける。
「日取りを決めて館長に伝えよう」
「お願いします」
 故郷を出ると決めたときに、そうしょっちゅうは帰れないだろうと覚悟していた。こんな手段を用意してもらえるとは思っていなかったから、とてもありがたい。
「日本では、転送門は使わなかったか?」
「あるのはありますけど、私は使う用事がありませんでしたから」
 日本の中の館を行ったり来たりということはなかったから、燕京――北京のものが初めてだった。
「あのときは、未知の体験だったので……せっかく无限大人に手を貸してもらったのに、その感触もほとんど覚えてません」
「はは、そんなこともあったな」
 転送門とはいえ、見た目はただの壁だったから、通るのを躊躇している私に、无限大人は優しく手を差し伸べてくれた。
「妖精の近くにいると言っても、その力を使うところを見る機会はあまりありませんでしたから、そういうことに慣れてなかったんです。あ、でも」
 ふと、思い出したことがあって、自然と笑みが溢れた。
「子供のころ、両親に連れられて館に遊びに行ったとき、山羊のような妖精が、花を手のひらに咲かせてくれたんです」
 自分の手のひらを、そのときのように広げてみる。
「それがとてもきれいで、嬉しくて、妖精が大好きになりました」
「そうか」
「衆生の門では水を練習してるけど、木属性を鍛えたら、私も咲かせられるでしょうか」
「ああ。きっと」
 ひとつを思い出すと、他のこともいろいろと蘇ってきた。館の妖精たちは、私のことをとてもかわいがってくれた。両親や祖父母の血縁だから、ということもある。彼らは両親たちといい関係を結んでいた。小香、と呼んでくれていた声を懐かしく感じる。みんな、邦を離れる私を応援し、暖かく見送ってくれた。公園の中を並んでゆっくりと歩きながら、館の妖精たちのことを无限大人に話した。香香は无限大人の押すベビーカーの中で、大きな目をさらに大きくして、一生懸命外の世界を見物していた。
「あ、梅がもう咲き始めてますね」
 枝の先に、ちらほらと白い花がついていた。まだ匂いがするほどではないけれど、それだけで華やかに感じる。
「ほら、香香、梅の花だよ。きれいだね」
 香香を抱き上げて、花の近くに顔を寄せてやる。香香は寄り目になって花を見つめた。
「シャッターチャンスだな」
 无限大人はポケットから端末を取り出して、私達をカメラで撮った。
「香香には、外は初めて見るものでいっぱいだね。どんな気持ちなのかな」
 もし、言葉がしゃべれたら、いっぱい教えてくれそうなのに。お話できるようになるのは、もう少し先だ。そろそろ座れるようになって、そのうち立てるようになるはずだった。
「君に似た大きな目で、興味深そうによく世界を眺めているね」
 香香の目の色は无限大人と同じ――香香の方が少し明るい――翡翠だけれど、その形は私と同じだ。髪の色も私に近い。二人の血を継いでいるのがよくわかって、嬉しくなる。
「无限大人にも、子供のころがあったんですよね」
「そうだな。ずいぶん前だが」
「どんな赤ちゃんだったんだろうな。きっとかしこい子でしたでしょうね」
「どうだろう。静かな方だったとは思うが」
 无限大人は少し首を傾げて、遠い記憶を探すように視線を遠くへ向けた。
「いいな。赤ちゃんのころの无限大人、見てみたかった」
「ふふ。あのころに君と出会っていたら、どうだったろうな」
「きっと、好きになっていたと思います」
 そう言ってから、はたと気づく。无限大人は、奥さんと子供がいた。もし私が先に出会っていたら――?
「……いえ、やっぱりやめましょう。今このときに出会えたのが、きっと一番よかったんです」
 もし、違う時期に出会っていたら、こんなに近くなれたかどうか。たぶん、ううん、必ず、私は无限大人を好きになる。それは断言できる。でも、こんなふうに、家族になれたのは、やっぱり今だからこそという感じがする。
「今が一番、幸せですから」
 无限大人に出会ってから、何度も、今が人生で一番幸せだと思った。そしてそのたびに、それ以上に幸せにしてもらった。幸せは天井知らずだ。小黒がいて、香香がいて、幸せは二倍、三倍、と、どんどん膨らんでいく。
「これからもっともっと、幸せになりましょうね」
 香香を抱きながら、无限大人に寄り添う。无限大人は私の肩に手を回し、そっと抱き寄せた。
「当然だ。君たちを幸せにしようとすればするほど、私の方が幸せをもらっている。ありがたいことだ」
「パパが大好きだもんね、香香も私も、小黒も」
「む……」
「ふふ。无限大人!」
 パパと呼ばれて少し不満げにするので、名前を呼び直す。无限大人はそうだ、とばかりに大きく頷いた。
 太陽が私達を暖かく照らし、冬の寒さは遠のいていた。

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