第三十四話 守
「手伝ってくれないか。あんたもあいつが憎いだろう」
言葉を失っているナマエに、瑞英は一歩近づいて、熱を込めて語り掛ける。
「無限が殺した妖精は、あんたの弟だったんだろう?」
「……っ違います!」
瑞英が伸ばしてきた手から、ナマエは思わず後ずさる。
「風息は、無限様に殺されたわけではありません!」
「……無限様、ね」
瑞英は暗い目をして、鼻で笑った。
「あんたはそっち側なのか。故郷を盗られたのに、どうして館側にいけるんだ?」
「そんな……、あなたは、執行人でしょう……!?」
瑞英の言葉に混乱して、ナマエは信じられないと目を見開く。
「それなのにどうして……!」
「言っただろ。親同然の人が館に捕まったんだ。ただ人間を食っていただけだ。それを一方的に断罪して、力にモノを言わせて、押しつぶした」
「あなたは……館を、憎んでいるの……?」
ナマエは愕然として瑞英の影の落ちた顔を見る。
「嫌いだよ」
その声は冷たく、対話の余地は欠片もなかった。
「妖精を抑圧し、館に閉じ込め、人間に媚びを売る。同じ妖精相手に、その牙を奪って人間のペットにでもしようとしている。そんなこと許せると思うか?」
館の考えに反発している妖精の存在は知っていた。風息たちはもちろん、館に来るまでに、様々な妖精たちを見て来た。だが、執行人をしながら、その腹の中で憎悪を募らせている妖精がいるとは、考えてもみなかった。
「そうさ、私もその館の手先さ。館に従わない妖精を力でねじ伏せて来た。それ以外に生き方を知らなかった」
瑞英は唾棄する。弱い自分を自嘲し、嫌悪している。ナマエにはそう見えた。
「力があれば。あいつを倒すことができれば。龍遊の事件で、初めてそう考えたよ」
そしてあんただ、と瑞英はナマエをまっすぐに指さす。
「そのたっぷり貯め込んだ霊質。それがあれば、あたしは誰にも負けない」
ナマエは一歩後ろに下がり、身を守るように腕を胸の前に上げる。
「どうして、無限様を狙うのです」
「あいつが人間と館のバランスを保っている要だ。あいつがいなくなれば、館は弱体化し、妖精たちを解放できる」
一歩、瑞英が前に進み出る。
「最強だかなんだか知らないが、どうして妖精の諍いに人間が首を突っ込んでくる? あたしたちはいつまで押さえつけられている?」
ナマエは背後に木を感じて、その場に力を入れて立ち止まり、瑞英を見つめ返した。
「館は――無限様は、人間と妖精の共存のために働いています。そのような言い方は、見過ごせません」
凄む瑞英の鋭い瞳を、ナマエはまっすぐに見返す。不思議と身体に力が漲るようだった。治療のあとだが、霊質を使いすぎたということはない。いざとなれば、とナマエは手に力を込める。
瑞英は手のひらから十数公分の棘を出し、ナマエの喉元に突きつけた。これが彼女の術か、とナマエは息を飲む。
「なら、どうする?」
棘の先端が咽喉に当たり、きん、と高い音を出す。ナマエは視線を逸らさず、答えた。
「おやめください」
「こんなチャンスはもうない……あんたを食う! そして無限を倒すッ!」
棘が咽喉を裂こうと動いた。ナマエは首を右に反らして避けながら、足元に氷の柱を生やす。瑞英を氷漬けにするはずだったが、瑞英は機敏に避けて後ろに跳び、横から回り込んで手から棘を何本も飛ばしてきた。ナマエは袖を一振りして棘を叩き落とし、空へ飛ぶ。瑞英も後を追ってきた。
「妖精を食うのは初めてだ! どんな味がするんだい!?」
ナマエの足を狙い、数本の棘が飛んでくる。ナマエは軌道をずらすことで交わし、さらに高度を上げ雲に入った。
「水分の多いここが得意フィールドってわけか!」
瑞英は迷うことなくナマエの後を追いかけて雲に入る。
ナマエは瑞英を迎え撃ち、氷の槍を投げる。瑞英は身体をしならせてそれを避け、棘を飛ばしながら接近してきた。
何本かの棘を迎撃し損ねて、頬に当たって肌が削れた。
「いくら打っても無駄です。私は氷の身体、痛みはありません」
「へえ、便利そうだな。なら、どこまで削れる?!」
瑞英の右腕からずらりと棘が生え、腕を鞭のように振るってナマエの方へ飛ばしてきた。ナマエは氷の礫でそれを撃ち落とす。間髪を入れず左腕から棘が飛んでくる。ナマエはそれを右肩で受け止めながら、瑞英の足元に氷を伸ばした。瑞英は凍った右足を左足で蹴って氷を砕き、ナマエの上へ飛び上がる。ナマエは雲の外へ押し出された。瑞英は速度を上げ、ナマエの右肩に左手の平から生えた棘を刺す。そのままぐいっと押し込み、地面へと落下していく。
このまま地面に激突すれば、身体が粉々になる。
ナマエは藻掻いたが、瑞英の棘は深く食い込んでおり、外れない。
「かき氷にしてやるよ」
「っ……無限様」
瑞英はナマエを取り込み、無限を殺すつもりだ。そんなことは絶対にさせない。無限を害する人がいるなら、ナマエは身体を張ってでもそれを止める。ましてや、自分の存在が無限を害する人の力になってしまうなど、あってはならない。
ナマエは瑞英の腕を掴み、そこから氷を生やした。空気中の水分を集めても足りない分は霊質を削る。氷は瑞英が逃げる間もなく大きくなり、二人を飲み込んだ。
一塊の氷の山が、地面に激突し、粉砕する。その拍子にナマエの右腕が肩から砕け、瑞英の縛めから逃れた。激突した衝撃で動けずにいる瑞英の下から抜け出し、砕けた氷をかき集めて瑞英の身体を封じ込めた。
「っはぁっ、はぁ……っ!」
「つめてぇ」
瑞英は左目を瞑り、凍り付いた身体を見下ろす。
そして気を整えるように両目を瞑り、全身から棘を吹き出した。棘は氷を打ち破り、すぐに瑞英は自由を取り戻す。
――これでは、勝てない。
ナマエは焦りを抱く。無限との仕合で見た通り、瑞英は攻めることを諦めない。だが、ナマエも負けることはできない。
――無限様を、殺させはしない!
ナマエは瑞英に背を向けると、最高速度で飛び出した。
「逃げようってか! 賢いね。だが、私の方が速い!」
瑞英を引き離すことはできなかった。瑞英は両腕に棘を生やし、ナマエに狙いを定める。すべてが的中すれば、これまでの戦いで脆くなったナマエの身体は砕け散ってしまうだろう。
「死ね!」
瑞英の目前に、紫色の炎が燃え上った。
「なにっ……」
棘はすべて消し炭になり、立ち上る煙の向こうに浮かぶ妖精に、瑞英は目を見開いた。
「あんたは」
「諦聽!」
ナマエは驚いて振り返る。諦聽は少しナマエの方を振り返ると、頷いて見せた。
そして瑞英に向き直る。
遠慮なく炎を吹きかけてくる諦聽に、瑞英は防戦一方だ。
炎に手足を焼かれ、動きが鈍くなったところを三頭の鷹犬たちが噛みつき、押さえつけた。
「くっ……」
「じきに館から応援が来る。大人しくしていろ」
「なんであんたが手を出してくるっ……」
「老君はいつもナマエを見守っている」
歯噛みして絞り出すように唸る瑞英に答えながら、諦聽はボロボロのナマエに向き直る。
「遅くなってすまない」
「いいえ……。助かりました」
瑞英に敵わないと知って、転送門のあるところまで逃げることしかナマエにはできなかった。あのままでは追い付かれていただろう。
老君はここ数十年、自らの霊域に引きこもっている。その間も、ナマエのことを見守ってくれていたことを知ると、頭が下がる思いだった。
「くそ……。あと少しだったのに」
力が足りねえ、と瑞英は呻く。ナマエは悲しい気持ちで項垂れた頭を見下ろした。瑞英はナマエの境遇を知り、同じ志を持っているかもしれないと考えた。だが、ナマエは館に感謝しこそすれ、恨む気持ちはない。人間に対してもそうだ。森を奪われたことは悲しいが、今のバランスを変えようとは思わない。無限に出会い、館に来て、よりその思いを強くした。瑞英だって、館の悪いところばかり見たわけでもないだろう。破滅へ向かう姿がいやでも風息のことを思い出させてやりきれない。
「他に、やりようがきっとあります」
館はずっとそれを模索している。ナマエはその姿勢に信を置いている。瑞英はナマエを睨み上げて、けっと唾を吐いた。
「瑞英」
転送門のある方角から妖精たちが駆け寄ってきた。そのうち何人かが瑞英を鷹犬から引き受け、縄を掛ける。大きな帽子を被った一人は、ナマエと諦聽に頭を下げた。
「申し訳ありません。うちのがご迷惑をおかけしました」
「いや。問題ない」
「ナマエさん、その身体は……」
「立てますわ」
ナマエはふらつきながらも、立ち上がって見せる。動くのには問題なかった。
「老君に、お礼をお伝えください」
諦聽は頷くと、去っていった。
「私は陸吾と言います。あの子の師です。いったい、何があったんですか」
陸吾はナマエに詳しい話を聞くと、細い目を渋く寄せて、唇を噛みしめた。
「そうでしたか。そんなことを……」
そして、連行される後ろ姿を見つめる。
「あの子を育てたのは私です。確かに、そういう恨みを抱いていることは知っていた。だが、執行人としてよく働いてくれていました。だから、私もてっきりもう吹っ切れたものだと……。この目が曇っておりました。あなたにはお詫びのしようもない」
「いいえ。きっと、目が眩んだのです」
ナマエが治癒系だとさえ知らなければ、彼女はこのような賭けには出なかっただろう。牢に入れられることもなく、恨みを晴らす手段を見出すこともなく。いい執行人でいられただろうに。
ナマエは罅の入った左手を見る。
ナマエの力を求めるものは、人間だけではなく、妖精にもいる。
だから老君はいまも見守ってくれているのだろう。ナマエ一人では、きっと幼いころに死んでしまっていたはずだ。
左手は微かに震えていた。瑞英から向けられていた殺意を、無限を殺させたくないという強い思いで打ち返した。彼女が拘束されて安全だと知ると、いまさら恐怖が震えあがってきた。
しかし、ナマエは生き延びた。無限が危険に晒されることもない。
だから大丈夫、と自分に言い聞かせる。
自分の命が狙われただけだったら、ここまで奮起することはできなかったかもしれない。無限が殺されてしまうと思ったからこそ不思議と腹の底から力が湧き上がってきたのだ。
無限を殺す、と言われたとき、全身がぞわりとした。無限がいなくなることを考える暇もなく、怒りが湧いた。そうだ、あれは怒りだ。不当にも善き人を害そうというその理不尽な憎しみに対する怒りだった。ナマエはそれに突き動かされて、瑞英と真正面から戦った。人を傷つけることを意識して氷を放った。
これが、戦うということ。
身体が重いのは怪我をしたからだけではない。怒りという普段発しない感情を爆発させたため、心がより疲弊しているようだ。
信頼していた執行人に裏切られたという悲しみがそこに乗っている。転送門を通り、館に入っても、まだナマエの心はざわめいたままだった。
「ナマエ!」
慌ただしく戸が開かれ、小さな足音が部屋の中へと掛けてきて、ナマエに飛びついた。
「怪我したってほんとなの!?」
ナマエは片腕で小黒を受け止めて、その背中を宥めるように撫でてやった。その小さな体の暖かさに、ナマエのささくれ立っていた心が凪いでいく。
「びっくりしたわ、小黒」
「あ、ごめん。でも、びっくりしたのはこっちだよ!」
小黒はナマエの右腕がないことに気付くと、泣きそうな顔になった。
「痛い?」
「痛くないわ」
「痛いよ」
こんなの痛いよ、と小黒はナマエの肩を撫でながら涙を零す。その後ろから、無限が顔を出した。
「すまない、怪我をしているのに」
「いいえ、大丈夫ですわ」
そういって微笑むナマエだったが、無限も小黒のように険しい顔をしてナマエの姿を痛ましく眺めた。
「……だいたいの話は冠萱から聞いた。そばにいられず……すまない……」
「無限様はお仕事がありますもの。老君にはお世話になってしまいましたわ」
「ナマエ、しんじゃやだよ」
「この通り、生きてるわ」
大粒の涙が零れていく。ナマエはそれを指で掬って、大きな球体にまとめてみせた。
「だから、ほら、こんなに泣かないで」
「うう……」
水球を指先で弾いて見せると、小黒はぐずぐずと目元を腕で拭って鼻水を啜った。
小黒が膝から降りると、今度は無限がずいとナマエの方に顔を寄せて来た。
「む、無限様……?」
眉間に皺をよせたまま傷を確認し、削れた頬を手のひらで撫で、そのままナマエを抱きしめた。
「あっ……」
小黒もナマエも目を丸くする。無限は痛まないよう加減しながら、腕に力を込めた。
「心臓が、止まるかと思った」
そして、耳元で囁くように言う。
その声に、ナマエは胸がぎゅっとする思いがした。
「無事で、よかった……」
「無限様……」
ナマエもじわり、と感情が湧き上がってくる。この人だから、あれだけ力が湧いてきたのだ、と改めて感じた。
「ただ夢中でした。無限様をお守りするために」
無限はその言葉に驚いて、ナマエの顔を見る。ナマエは微笑み返した。
「私は、無限様をお守りするために、強くなります」
無限も小黒も、口をぽかんと開けて宣言したナマエを見つめた。
無限はああ、と声を漏らし、口元を押さえながら首を振る。
「あなたという人は。それは私の台詞だ」
「けれど、無限様はもうお強くていらっしゃるし……」
言いさすナマエを、無限はもう一度抱き寄せる。今度は先ほどよりも優しく、暖かかった。
「あなたを失いたくない」
「はい。私も……そう思いました」
では、今の無限の気持ちはナマエが抱いたものと同じだろうか、と考えた。家族ではない、友人ではない、けれどかけがえのない存在。その関係を、なんと呼べばいいだろう。
「ぼくも強くなる!」
小黒はぴょんと飛び跳ねて、無限とナマエに抱き着く。無限は小黒の頭を撫でてやった。
「そうですわ、すみません。この身体ではしばらくお料理は作れませんわ」
ふと思い出して、ナマエは二人に謝る。何言ってる、と二人は呆れた顔をした。
「こんなときに、そんな心配はしなくていい。私が」
「大丈夫! 食堂で食べるから!」
「…………」
小黒に言葉を遮られた無限は不服そうにした。その表情を見て、ナマエはつい笑ってしまう。館には、食堂も用意されている。自炊をしない妖精はそこで済ませているようだった。
「きっと、二週間ほどで元に戻りますわ。それまで、ご容赦くださいまし」
「何か困ったことがあったら言ってね。なんでも手伝うよ」
「私もだ。遠慮せず頼ってくれ」
「ありがとうございます」
ナマエは二人に頭を下げた。こうして何気ない会話をできていることが何より嬉しい。もし食べられてしまっていたらとぞっとする。
瑞英が捕まった理由については、一部暈されて妖精たちに伝えられた。ナマエが治癒系だと知って悪いことを企むものが他にも出ては困る。ナマエはますます用心して力を使おうと決めた。瑞英のような妖精を、もう出したくはない。
「小黒、そろそろナマエを休ませてやろう」
「うん。また明日ね、ナマエ」
「ええ、おやすみなさい」
無限は小黒を先に部屋の外に出し、自分は残ってナマエと向き合った。何か言い忘れたことがあるのだろうかとナマエは言葉を待つ。
無限はナマエの残された左腕をそっと握った。
「私はあなたのことが好きだ」
「はい、私も……」
「いや、違うんだ。恐らく、あなたの好きと私の好きは」
好きですよと伝えようとしたら、遮られた。
違う、とはどういうことだろう。
「その違いを、あなたに知ってほしい。これから、伝えていきたいと思っている。聞いてくれるだろうか」
訊ねられれば、首を振るはずもない。
「はい」
頷いたナマエに、無限はひどく嬉しそうに笑った。
それは無邪気とも呼べそうな笑顔で、いつもの無限とはなんだか違う雰囲気をしていた。
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