第二十一話 蓮
「まだ信じられないんだ」
洛竹は格子の向こうで、戸惑いを隠さずに言った。
あれから少しして、洛竹との面会も叶うことになった。洛竹はまず、風息のことをナマエに訊ねた。ナマエは気が重く感じたが、声を震わせないように努めて、あの日何が起こったかを洛竹に説明した。洛竹は眉根に皺を寄せて聞いていたが、ナマエが話し終わると、長い溜息を吐いた。
「館長に風息が……って聞いて、でも、聞いただけじゃ全然実感わかなくて。どこかの牢に、同じように収監されてるんじゃないかって……思ってた。思いたかった」
洛竹は拳を握り、腹の辺りで堪えるように力を入れる。
「でも、ナマエ姉の顔を見てたら……わかった。ナマエ姉がそんな嘘吐くわけないもんな……。風息、本当に、一人で……逝っちまったんだな」
「……ええ」
ナマエは言葉に詰まり、頷くことしかできなかった。洛竹は顔の前に腕を上げ、しゃがみ込む。そして呻くように嗚咽を絞り出した。
「風息……っ、なんでだよ……っ」
目元を拭い、拳を地面に叩きつける。
「失敗したけど、それで終わりじゃないのに。俺たちだっているのに……! なんで置いてくんだよ。なんでだよ!」
なんで、と弱弱しく言って、洛竹は項垂れた。手のひらで顔を覆い、喘ぐ。指の間から零れた大粒の涙が乾いた地面にぽつぽつと沁み込んでいった。
「……ごめん、ナマエ姉、俺……だめだ」
「いいのよ」
ナマエは洛竹の震える肩を抱き寄せられないことを歯がゆく思った。目の前で弟が嘆き悲しんでいるというのに、自分は涙も出ない。ただ息が詰まるような重苦しい喪失感が伸し掛かってくるだけだ。
風息がもういないということを、受け入れられていないのはナマエの方かもしれない。
あのとき、目の前で風息の身体を貫き伸びていく木の枝を確かに見た。育ちきった樹のどこにも、もう風息の存在はなかった。
大樹となって故郷に根を張り、もう動くことはない。
弟たちと出会ってから、これほど長い時間離れ離れになることはついぞなかった。
虚淮と出会って、家族となり、虚淮が風息を連れてきて、洛竹と天虎が加わった。
彼らと過ごした日々は、ナマエにとって一番穏やかで、喜びに満ちていて、健やかな毎日だった。小さく無邪気だった子供が、毎日毎日少しずつ成長していき、ある日気が付く。前にできなかったことができるようになっていること。届かなかった枝に手が届くようになっていること。己の手より、彼の手の方が大きくなっていることに。
あの日々を遠く感じる日が来るなんて、思いもしなかった。見捨てられた離島を見付けたときには、また同じように穏やかな日々を暮らせるのではないかと期待した。
ナマエの身体は島に満ちる霊力で活力を取り戻していたし、天虎は美味しい果物の生る場所をすぐに見付けたし、洛竹は島の動物たちとすぐに仲良くなった。虚淮も静かに修行できる場所を見付け、喜んでいた。風息だって、そんな兄弟たちの姿を見て、思うところがあったに違いないのに。
彼は余計に焦っていたように思う。
奪われたことを忘れ、静かに息を潜めて、見つからないことを祈りながら生きることを、彼はよしとしなかった。平穏に流されようとする仲間たちの姿を歯がゆく思っていたのかもしれない。
そんな中で見付けた“領界”という力が、どれだけ風息にとって魅力的に、強い影響力を持って訴えかけただろう。
これがあれば、望みが叶う。
風息はその力を欲した。
それを持つのが、まだ幼い子猫の身体であることを知りながら。
風息に連れてこられ、ここに一緒に住まないかと言われたときの小黒の輝いた表情をよく覚えている。小黒は、あの小さな身体で辛い孤独を味わったのだ。そこに差し伸べられた手が、どれほど救いとなっただろう。
風息の選択は、到底許せるものではない。
妖精を傷つけ、人間界を破壊した。
だが、その罪は命で贖わなければならないほどのものだったろうか。
――いや、それは結果論だ。
本来なら、小黒は領界を奪われ死ぬはずだった。彼が救われたのはたまたまだ。少なくとも、風息はそのつもりだった。
けれど、だからといって。
この結末はあまりにもひどすぎる。
ナマエに、風息を責める言葉など口にできるはずもなかった。彼は自身の背負っているもののために暗くも辛い道を選ばざるを得なかった。その背中をずっと見てきた。
いっそ誰かを恨めたら楽になるのかもしれない。怒りをぶつけ、涙を流し、叫べば、どうしようもない悲しみを誤魔化せるのかもしれない。だが、ナマエには恨むべき相手などいない。森を奪った人間たちのことだとて、恨もうにも恨めない。ただ、やるせない。
ただ彼がいない、その不在を嘆くだけだ。
この悲しみを癒すすべを、ナマエは知らない。
失う悲しみなら、知っているつもりだった。けれど、まるで自分の魂の一部を失ったかのような痛みは知らなかった。
せめて兄弟たちが傍にいてくれればいいのに、彼らもまた一人でこの痛みに向き合わなければならない。
「風息……っ」
洛竹の嗚咽が牢内に空しく響く。
洛竹が落ち着くまで、ナマエは傍にいることを許してもらった。洛竹の精神は虚淮よりは落ち着いているという。もしかしたら、洛竹の方が先に解放できるかもしれないということだった。まだ全員が揃う未来は遠いが、少しだけ希望が見えた。
「ナマエ、これあげる!」
小黒がそう言ってポケットから取り出したのは、六角形の石だった。
任務が終わり、無限と小黒が館に戻ってきた。二人はナマエの元にも顔を見せてくれ、小黒はプレゼントがあるんだ、とにこにこしながらナマエに握りこぶしを差し出したのだった。
「きれいでしょ?」
「ほんとうね」
表面は磨かれたようにつるつるとしている。青碧色に、白い縞模様が入っている。
「この形はね、雪の形なんだって。師匠が教えてくれたの。それを聞いて、ナマエにぴったりだなって思ったんだ」
言われてみれば、確かに六花の形に見えてくる。手のひらの上に乗せた石の美しさと、なにより小黒自身の嬉しそうな表情に、沈んでいたナマエの心が引き上げられていくようだった。
「私を思い出してくれたなんて、嬉しいわ。ありがとう、小黒」
うまく笑えていればいい、とナマエは思う。ナマエが辛い顔をしていれば、小黒は目ざとく気が付く。そして心配そうに眉を下げ、顔を覗き込んでくるだろう。そんな風に心配を掛けたくはない。だが、無邪気な彼に引っ張られて微笑むほど、余裕はなかった。
「また綺麗なものを見付けたら、おみやげに持ってくるね!」
「……ええ」
ナマエは小黒に頷いてやる。どこまでも無邪気で、純粋な子だ。
「あのね、今度は放河灯っていうのを見に行くんだよ」
「放河灯?」
「灯籠を川に流す、人間の行事だ」
小黒の言うことがよくわからず、聞き返したナマエに無限が答えた。
「人間には先祖がいる。自分の親の、さらに親の、と遡って血の繋がりのあるものの魂を弔うための日だ」
「弔う……」
ナマエは口の中で繰り返しながら目を細めた。人間は死した者を奉り、敬い、祈りを捧げるものだということは知っている。だが、実際にどんな風に行われているのかをきちんと見たことはなかった。
「……死者の眠りの安息なることを祈る」
無限はナマエに説明するために、訥々と言葉を重ねる。
「それは……家族で行うものなのでしょうか」
「そうとも限らない。もしよければ」
ふと思うことがあって、訊ねたナマエに、無限は答え、重ねて聞いた。
「あなたも来るか」
「よろしいのでしょうか」
死者の弔い、という言葉が気にかかったのを気付かれただろうか、と少し驚きながらナマエは問い返す。
「……心の整理に、なるかもしれない」
「……そうですわね……」
無限がナマエの胸の内を想像し、まだ彼の喪失を悼んでいることを見抜いているとしたら、ナマエは少し落ち着くような心地になった。ナマエの魂の一部が奪われたあのとき、彼は一番近くで見ていてくれた。気丈に振る舞っているつもりではいるが、きっと彼の目は誤魔化せていない。時折、思案深げな視線を向けてくるのはきっとナマエの胸中を慮ってのことだろう。
しかし、心配をかけてしまう、という懸念よりもナマエを案じてくれているその心根の暖かさに安心してしまう。
ナマエはどうやら、弟たちや、小黒とも違う、不思議な信頼感を無限に抱いているようだ。
「もし、よろしければ……ご一緒したいですわ」
ナマエは心を決めて、頼むことにした。
小黒が期待した目を無限に向ける。無限はその目に応えてやってから、ナマエに頷いた。
潘靖はナマエが館の外に出たい、と許可をもらいに来たことに少なからず驚いた。まだ、そこまで立ち直っているとは思っていなかった。表面上は穏やかに過ごしているが、平素の彼女に比べて、表情が暗く曇っていることは察しがついていた。館の他の者は気付かずとも、潘靖は気付いた。過去――といっても、彼女と言葉を交わしたのはごくわずかな回数だが――潘靖の知る彼女は、もっと柔らかな表情を浮かべていた。
だが、その理由を聞いて納得した。妖精には、人間のように死者の魂、という概念がなく、弔うという形式も持たない。近しい者を失う機会というのが、それだけ人間に比べて少ないのだ。それに、人間とはそもそもの命の成り立ちが違う、ということもある。
人間はけものたちと同様に雌雄で血を混じらせ、自分の血を分けた子を産む。
妖精は霊質が集まり、物質霊と結びつくことで肉体を得て、意識を生じさせる。
妖精が死ねば身体を形作っていた霊質がまた解け、世界に循環する。
彼女は、人間のすることを真似て、気持ちを整理したいのだろう。無限もまた、ナマエの表情が晴れないことを気にかけていた。彼女が倒れたと聞いたときの焦った表情は記憶に新しい。任務が終わってからわざわざこの館を訊ねるのも、報告は二の次といった風だ。
風息を追いかける任務に従事していたとき、彼女と長らく時間を共にしたという。そのときに築いた絆がそうさせるのだろうと潘靖は考える。
珍しいことだった。
彼が避けていたこの館に甲斐甲斐しく足を運ばせることもそうだし、なによりこれほど彼が個人に心を傾けることは近頃なかったことだ。
小さな弟子を迎えたのも100年以来ではあるが、武芸を学ばせるためではなく、ただ会いに行くだけ――少なくとも潘靖にはそう見えた――友達にでも会いに行くような足取りで彼の方から向かうのは、潘靖が知る限りあまりないことだった。
表情をあまり顔に出さず、超然としているため不愛想に見えるが、あれで胸中は感情豊かで世話焼きなところがあることを潘靖は知っている。その性分が、どうやら愁いに沈んだ彼女を放っておけないということらしい。
なんであれ、今のナマエにとってもそういう存在は得難いものだろう。お互いのために、きっとよいことだ。
無限がついているなら、ナマエが外に出ることにも異論はない。
潘靖はナマエに許可を与えてから、無限一人を引き留めた。
「無限様、あなたにはお伝えしてもいいかと思うのですが」
「なんだ」
怪訝な顔をする無限に、潘靖はナマエが治癒系であることを打ち明けた。
「彼女は過去、老君が目を掛けていた方でもあります。それは、単に彼女の力が珍しいからではなく、彼女の力を狙うものがあるからです」
「力を――」
無限は僅かに目を瞠った。
「今、彼女の力について知っているものはほとんどいないはずです。ですから、そう遠くへ行かない限り問題ないかとは思いますが」
鳩老のように、どんな術を持っているか判別できる妖精もいる。万が一そういう相手に出会った場合、ナマエが狙われる可能性が出てくる。
「その懸念を、お伝えしておきたかったのです」
「……わかった。気を付けよう」
少し間を置いてから、無限は「……感謝する」と付け加えた。わざわざ礼を言われることではないので、潘靖は片眉を上げたが、無限はそれ以上言わず、話は終わったと部屋を辞した。
ナマエは久しぶりに館から外へ出た。無限はナマエを河原へ導いた。太陽はすでに沈み、星が輝き始めている。桟橋には小舟が泊まっていた。川にはすでに何艘も小舟が浮かんでいる。小舟から、光がひとつ、またひとつと水面に浮かべられていた。
小黒が小舟に飛び乗り、無限がナマエに手を差し出す。ナマエはその手を頼りに、小舟に乗り込んだ。ナマエが足を乗せると、小舟は微かに揺れる。小黒は器用にバランスをとって、先頭の方へ跳ねていった。無限はナマエが腰を下ろしたのを見届けると、櫓を取り、ゆっくりと漕ぎだした。
川の中ほどまで来ると、無限は漕ぐのをやめ、用意していた蓮の花の形の灯籠を手に取った。マッチを擦り、中央に火をつける。興味津々でそれを見ていた小黒に、ひとつを渡した。
「これを、そっと浮かべるんだ」
「うん!」
無限がひとつを川面に置くと、小黒も真似をして縁から腕を伸ばし、ぽちゃ、と灯籠を手放した。灯籠はくるくると回りながら、ゆっくりと流れていく。その流れの先には、他の人たちが流した灯籠が星を写し取ったかのように輝いていた。
あの灯りひとつひとつに、誰かの眠りが安らかであるようと祈りが込められている。
ナマエは神妙な気持ちでそれらが流れていくのを見送った。
「あなたも」
無限は火を入れた灯籠をナマエに渡す。
ナマエはそっとそれを受け取って、川の流れに乗せた。
あれは風息の魂の火だ。
ふと、強い風が吹き、火が揺らいだ。
ナマエは思わず水を操り、火を守る壁にする。火はまたまっすぐに、煌々と燃えた。
ナマエは音がしないよう、そっと水を戻す。周囲は暗いし、近くには人もいないので、おそらくは問題ないだろう。だが、軽率な行動だった、とナマエは内省した。無暗に人前で力を使い、妖精の存在を知られることはいいことではない。だが、それでもあの火が消えてしまうことはナマエには耐え難かった。
人間の魂は死ねば冥府へ行くという。水の底は冥府への入口だ。この時期、魂は家族の元へ帰ってくる。そして、帰り道を照らすために流すのがこの蓮花灯だ。
妖精にももし魂があるのなら、風息は冥府へは行かず、あの大樹に留まるだろう。だから、この火は風息への手向けではなく、ナマエの悲しみを託したものだ。
あの大樹が伐採されてしまうことなく、あのまま、そこに住む人間たちと、ナマエたち妖精を、ずっと見守っていてほしい。
風息にはもう心配事も苦痛もなく、ただ穏やかに青空に枝葉を伸ばして呼吸をしていてほしい。
先に逝ってしまったことは寂しいことだ。今だってまだ彼の髪を撫でてやりたい思いでいっぱいだ。どうしてここに留まってくれなかったのか、手を放していってしまったことがうらめしい。
けれど彼はそれを選んだ。
その選択を、ナマエは尊重してやりたい。
身分を隠し、息を殺し、日陰で生きていくことではなく、大地に根差し、光と雨とを存分に身に受けて、龍遊の森そのものとなることを選んだことを。
まだ、悲しみが強く、まっすぐには受け止めてやれないけれど、いつかは、きっと。
ナマエの頬を、一筋涙が流れていった。
「これは、私の家族のために」
無限は、四つの蓮花灯に火をつけ、うち二つを小黒に渡し、最後に流した。
無限にも家族がいたということを、ナマエはぼんやりと想像する。
父と母と、兄弟だろうか。
「両親と、妻と子だ」
ナマエの疑問に気付いたわけではないだろうが、小黒とナマエに聞かせるように、無限は言った。
「無限様の、ご家族……」
人は子を作り、世代を繋いでいく。無限もその系譜に属する存在だということが不思議だった。本人が言うように妖精に近くなっているとはいえ、やはり根本的には違う生き物だ。
しかし、子の分、ということは、無限は親として先に子を失ってしまったということだろうか。そう考えて、ナマエはふと無限の寿命が伸びていることを思い出す。それほどの力を持つ人間は稀だ。無限の子は才を継がなかったのかもしれない。それなら、子はまた親となり新たな子を産み、血を繋いでいくはずだ。その子たちもまた寿命を迎え、無限はずっとそれを看取っていく――。
そこまで考えたとき、ナマエはじっと無限の顔を見つめていたことに気が付いた。
無限はなんでもないように立ち上がり、言った。
「そろそろ、戻ろう」
見つめていたことを、気付かれなかっただろうか。あれほど敏い人なのに?
ナマエは気まずさを誤魔化すように、遠ざかっていく灯りへ目を向けた。もう、ナマエが流したものがどれかわからない。
「きれいだね」
同じくそれを見ていた小黒がぽつりと言った。
「……ええ」
小さくなった灯りは、水面に映った星明りと分かちがたく、ちらちらと瞬いていた。
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