15エピローグ
遠くで予鈴の鳴る音がして、私ははっとして目を覚ました。
「……あれ」
身体が大きな樹の根っこに挟まっていて、起き上がるのに苦労した。
「鞄は?」
身に着けていたはずの鞄がなくて慌てて探すと、根っこから滑り落ちたような位置に転がっていた。とりあえず一安心。
「私……何してたんだっけ」
根っこから注意深く降りて、鞄を拾い、樹を見上げた。
家から学校に向かう道を、少しはずれたところにある神社の森。そこに生えている立派な古木だ。樹齢何千年かと思われるくらいどっしりとしていて、乾いた木肌に苔がしっとりと生している。
あるときこの森を見つけて、それからは通学路を少し変えて、毎日この樹のそばを通るようにしていた。
なんだかこの樹が好きなんだ。大きく広がった枝ぶりと、ごつごつした木の肌に、いままで重ねて来ただろう時間の流れを感じられる。この木を見上げるときは車の走る音が遠くなって、本当に深い森の中に入ってしまったような、とても静かな心地になる。
「寝ちゃった、のかなあ」
最近、夜更かしが続いていたから……って、そんな馬鹿な。いくら私がそそっかしくたって、外で寝たりしない。と、思う。思いたい。
焦る私とは正反対に、古木はいつも静謐そのものという感じだ。
いったいいつからここに立って時代の移り変わりを見守ってきたのかわからないけれど、神様でも宿っていそうな厳粛さがある。
濃い緑色の葉が、そのとき吹いた風に揺れて、さらさらと鳴った。
その吐息が耳元に吹き付けて、ほろりと涙が零れた。
「え……あれ?」
なぜだか涙は止まらなくて、いいようのない切なさが胸に広がった。それでいて、どこか暖かい懐かしさがじわりと染みていく。
まるで、長い夢を見ていたような。
止まらない涙を拭おうとポケットを探る。確かハンカチがあったはず、と右手に硬い感触が触れた。
指先でつまんで、掌に転がし、眺めてみる。
「……種?」
その瞬間、思いが心に雪崩れ込んできた。
風息。
ぼんやりとしていた夢が一気に色づいて、鮮やかに脳裏に展開されていく。
そうだ、私は、確かにあそこにいた。
今はもう、身体の中に術も力も感じられない。私の身体は、確かに“ここ”に帰ってきた。
でも、覚えてる。むっとするような焚火の匂いも、焼きたての肉の熱さも、指の間をすり抜ける水の冷たさも。
ちゃんと、覚えてる。
どっと押し寄せて来た感慨に押されて、その場に跪いてしまう。巻き上げられた土の匂いが微かに香った。
「風息……。私、ちゃんと、帰ってきたよ……っ」
とても長い、信じられないほど輝きに満ちた旅だった。
まだ痛みは生々しくて、すぐには振り切れそうもない。
でも、痛みも苦しみも、私が感じたもの全部、大切な宝物だ。絶対に忘れない。
古木の枝で、小鳥が鳴いた。
「あなたが、会わせてくれたのかな……」
風息の霊域に生えていた巨木を思わせる、老木を見上げてふと思ったことを呟いた。そして、手の中の種を見つめる。家に帰ったら、庭に埋めて、大切に育てよう。
私の家。私の居場所。
目を拭って、立ち上がり、スカートを直す。
鞄を持って、森に背を向けて、振り向いた。
古木はただそこに立っているだけだ。
だけど、もう寂しくはない。
「……遅刻しちゃうっ」
勢いをつけて駆け出した。
今までの生活に戻れると思うと、胸が弾む。でも、今まで通りの私じゃない。
いろんなことを経験して、ちょっとだけ成長した、今の私。
心に空いたひとつの穴。
この傷がふさがることは、一生ないだろう。
私はずっとこの痛みを抱えて生きていく。
絶対に忘れないから。
これから私が進む道は、この場所から伸びていく。
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