11そして車輪は回りだす
永遠にも感じられる時間が経って、夜になりようやく携帯に連絡が入った。風息からだ、と私は修行を止めて画面を確認する。待っている間やることもないので虚淮に教えてもらったことを思い出しながら修行していたけれど、集中力が欠けているせいか、はたまた場所の問題か、なかなかうまくいっていなかった。
「小黒、取り戻せたんだ……!」
喜んだのもつかの間、その後に続く文章にどきりとする。
「これから戦いになる、龍遊を出ろ……?」
龍遊。小黒たちが向かっていたのは偶然にも風息が教えてくれた彼の故郷だった。私は今、その端の方にある森の中にいる。
「出ろって言われても、行く当てないよ」
あの島や、廃工場に戻れないか自分の力を試してみたけれど、どうにもだめだった。やっぱり、場所じゃなくて人をイメージしないとうまく飛べないみたい。もっと修行したらいいのかもしれないけれど、島にも廃工場にももう、知ってる人はいない。今の私に行けるところは、きっと風息がいるところだけだ。
「風息……」
戦いになるって、やっぱり無限とってことだろうか。
そもそも、無限は風息を捕まえに来たと言っていた。小黒のことがなくても、風息は無限と戦う必要があるのかもしれない。でも、どうして人間が妖精を捕まえるんだろう。……怖い想像しかできない。心配な気持ちと言い知れぬ不安が湧き上がってくる。今日このまま、森で一人で夜を迎えるのも怖い。ここは慣れたあの島じゃないのだから、何が起きるかわからない。
島での、無限と風息たちの戦いの激しさを思い出す。あそこに私がいても、何ができるわけでもない。でも。
ここで一人でいるより、ずっといいよ。
私は意を決して、風息の元へ向かうため立ち上がった。
目を開けようとしたけれど、強い風が正面から吹きつけて来たので開けていられず、手で乱れる髪を抑え、気を付けながら薄く瞼を持ち上げる。
そこはビルの屋上だった。
「風息……」
そこにいるはずの姿を探して、視線を彷徨わせる。壁の傍に、葉子と阿赫、天虎がいた。洛竹が小さな男の子と一緒にいる。高いところにいた虚淮が洛竹の傍に降りて来た。それから……。
「ナマエ」
厳しい表情の風息がいた。
「どうして来た。来るなと言っただろう」
「ご……ごめんなさい。でも、他に行くところなんてないよ」
「…………」
風息は何かを堪えるように押し黙って、ちらりと洛竹たちの方を見る。洛竹と一緒にいるあの子は誰だろう。
「……今は時間がない。あとで話す。天虎たちのところにいてくれ」
「……うん」
天虎はぼろぼろの阿赫と葉子の様子を案じるようにして傍にいた。皆、戦ったあとみたい。二人とも目を閉じて、浅く呼吸をしている。やっぱり、無限と戦うことになったんだ。
「風息」
胡坐を組んで気を整えていた風息に話しかけたのは、あの小さな男の子だった。
「あいつが小黒だよ」
と小声で洛竹が教えてくれたけれど、私はすぐにその意味を理解できなかった。そういえば、皆が助けに向かったのは子猫だったはず……?
「あいつも妖精なんだ」
「あっ」
そうか。風息が黒豹の姿を披露してくれたことを思い出した。小黒も、あんな風に子猫の姿から男の子に変化できるんだ。
「あのね、館の人が嫌い?」
おそるおそるといった様子で男の子――小黒は風息に訊ねた。
風息は優しげな笑みを浮かべているけれど、どこか雰囲気に違和感を覚えた。それがなんなのか、うまく表現できないけれど。何か……空気が、ぴりぴりしている気がする。
「やつらはなんて?」
「館は妖精たちの場所だから、僕に住んでほしいって」
「……ふ。ここに住めと?」
風息は微かに笑って、立ち上がり、屋上の縁へと歩いていく。ふわりと縁に昇り、そこからの眺めを一望した。
「ここは、俺たちの故郷だ」
「え……」
それは、あの森で私に話してくれた物語だった。風息たちの故郷。今はビルが立ち並ぶ都会となっているここが、風息の目には緑豊かな大きな森に映っているようだった。私もそれを見たくて、目を凝らす。でも、人工的な明かりに目がちかちかするだけだった。
その森に、人間がやってきた。木を伐り、森を開いて家を建てる。人間たちと妖精は、最初はうまくいっていたと風息が語るから驚いた。初めから敵対してたわけじゃなかったんだ。
それを知れて、風息が人間たちとの生活を楽しんでいたと語ってくれたのが、嬉しくて、頬が紅潮する。けれど、幸せなときは長くは続かなかった。
「開発が進み、妖精たちは森から去っていった。だが、去るべきなのは人間の方だ」
風息の語り口は淡々としていたけれど、悔しさが滲んでいた。豊かな森を切り開いて、コンクリートで固めてしまった人間。そこに住んでいた動物や妖精を追い出し、水を、土壌を汚し、人だけが住み心地のいい場所に変えてしまった。
「館は人間の味方をした。俺たちは、ここを離れた」
風息はもう怒りを隠さなかった。
「人間は、いつか妖精を消す。呑気な館のやつらにはうんざりだ」
小黒に語っているその言葉は、私の胸を突き刺した。
森がなくなって、霊力もなくなれば、妖精は生まれてくることができない……。
種の絶滅。
一度絶えれば、もう二度と、取り戻せない。
息ができなくなりそうで、酸素を求めて喘いだ。この一呼吸すら、罪なのかもしれない。
「人間は侵略と破壊ばかりだ。……たとえ、いい人でも」
心がどきりと揺れる。風息の人間に対する思いはとても複雑なものなのかもしれなかった。人間のこと、ただ嫌ってるわけじゃない……のかな。もしそうなら嬉しいけれど、単純に喜べることじゃない。……私も、風息を裏切ると、そう、思われているのかもしれない……。
苦いものが喉の奥からこみあげてくるけれど、私にはそれを飲み込むことも難しかった。
風息は縁から降りて、小黒の前に跪き、その顔を覗き込んだ。
「お前は領界をどこにでも広げられる。そこではすべてが思いのままだ。お前が支配者だ。小黒、お前の力が必要だ」
「でも、僕まだうまく使えなくて……」
「手伝うよ。一緒に妖精の楽園を作ろう」
小黒は俯いてしまった。小黒も、人間に故郷を奪われてしまったんだ。小黒の力があれば、風息の願いが叶う。私はただ、風息が故郷に帰れればいいと思っていた。でも、もしかしたら、話はそんなに単純じゃない……のかもしれない。風息は願いを叶えるために、人間に何をするんだろう。
「だから、僕に親切にしてくれたの」
小黒のその言葉の詳しい意味はわからなかったけれど、愕然としたような、失望の滲む声音に心が震えた。風息が、小黒の期待を裏切った?
でも、風息がそんなことするはずない。そうじゃ……ないの?
風息はしばらく黙っていたけれど、やがて低い声で言った。
「……小黒、忘れるな。人間に故郷を奪われたこと」
「僕、忘れてないよ」
小黒の声はしっかりしていて、揺るがない意志が感じ取れた。こんなに小さいのに、風息に自分の考えを伝えるだけの強さがある。
「でも、間違ってる気がするんだ。風息、人間と関わるのはもうやめよう。きっと居場所はあるよ。そこに皆で住もう。あの島みたいなところ。あそこはいいところだった……」
「……まだわからないか」
風息が首を振った。
コンクリートがばきばきと割れ、木が小黒の足元から伸びていく。木は小黒にぐるぐると巻き付き、縛り上げた。予想していなかった状況に、咽喉がからからに乾き、顔から血の気が引いていく。
いったい何が起きているの?
「小黒。すまない。お前の力をもらう」
「風息……」
風息の手が小黒の前に翳されて、小黒から光があふれ出すとともに小黒が苦しみに叫んだ。その悲痛さにびくりと肩を揺らす。
「風息、やめろ!」
洛竹が風息を止めようと飛び出そうとして、それを虚淮が無言で抑え込んだ。洛竹の肩に縋りつくようにして、私は声を振り絞る。
「洛竹、だ、大丈夫だよ……力を借りるだけだから」
“強奪”で小黒の力をちょっと借りるだけ。きっとそうだ。
「私みたいに、また使えるように……」
「いや」
洛竹に伝えるというよりは、自分に言い聞かせるための言葉だった。でもそれも、虚淮に否定されてしまう。
「小黒の術は空間系。それを奪えば霊域が欠ける」
霊域は命の源。それが欠けるって……。
洛竹は虚淮の腕を振りほどこうと藻掻いた。虚淮は洛竹の力をいなしてしまい、まるで動じる様子がない。それでも洛竹は諦めず、声を張り上げる。
「風息、やめてくれ! 俺が説得する!」
それじゃ……そんな、小黒は。風息……が。
風息が、小黒を傷つけようとしている?
足から力が抜けてへたりこんでしまった。小黒の悲鳴が耳をつんざく。
風息の手は淀みなく小黒の力を奪う。小黒の黒髪からみるみる色が抜け、最後には真っ白になり、ぐったりとしてしまった。
「これが……領界」
風息はもう小黒を見ず、手に持った黒い球体にじっと視線を注いだ。小黒の悲鳴がまだ耳の奥で鳴っているのに、ひどく静かになってしまった屋上で、強く吹いているはずの風の音すら遠くなる。
どくんどくんと心臓が鳴って、耳の裏をごくりと血液が流れていく。その振動が頭にがんがんと響いて、喉が渇く。指先が震えてどんどん冷たくなっていった。小黒の小さな身体は、さっきからぴくりとも動かない。命を失った抜け殻――。そう思い至ると、ぞくりとして恐怖が身体を駆け巡った。恐怖。
私は、今、風息を怖いと思っている。
「今の術で、この場所はもうバレただろう。領界が展開したら、集合しろ」
「了解」
風息が皆に指示を出す声が恐ろしく冷淡に聞こえる。頭が混乱していて、何も考えられない。今、風息がしたことの恐ろしさが、身体中を震わせる。
「…………」
風息の視線が一度こちらに向けられた気がしたけれど、わからない。何か声を掛けられる前に、屋上に人影が舞い降りた。
あの黒髪の男は――無限。
彼は風息を睨みつける。風息は小黒の身体を虚淮に預け、皆バラバラの方向に飛び散った。無限は虚淮を追いかけて行った。
私はその場所に取り残された。
まだ信じられない。
本当に、風息が小黒を――殺したの?
でも、風息がそんなことをするはずがない。風息は私を助けてくれた。小黒のことも助けるために強い相手に挑んでいった。しっかり準備をして、達成できたのに。その子を……どうして?
ぽた、と手のひらに水が跳ねた。それが合図となって、涙が次々に溢れていく。どうして、風息。どうして。私にはわからない。だって私は、風息のこと何も知らない。
故郷の龍遊でどんなふうに過ごしていたか。
そこを人間に奪われて、どんなに辛かったか。
島を見付けるまで、どうやって暮らしていたか。
島を見付けたあとも、龍遊を取り戻すことをずっと考えていたのはどうしてなのか。
どうしても、龍遊じゃなくちゃだめだったのか。
そのために、仲間を傷つける選択をしなくちゃいけなかったの?
風息、そんなの……。そんなのって。
「お嬢さん、大丈夫かい」
ふいに声を掛けられて、顔を上げる。そこには青い肌をしたおじいさんがいた。
「心配するな。敵ではないよ。わしは鳩爺。館の妖精だ。お前さんは風息と一緒にいた人間の子だね?」
その声音は優しくて、大きな金色の瞳に見つめられていると心が落ち着いていくようだった。
「ほう、転送術に木属性か。珍しいな」
「……わかるん、ですか?」
嗚咽を堪えながら訊ねると、わしは目がいいんじゃ、とウインクされた。
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