01落下速度はご自由に




 運が悪かった。
 いつも通り用心深く、目立たないように路地裏を選んで進んでいたところだった。
 力は使わず息を潜め、影と共に動く。
 同族がいればおのずとわかる。先んじてその存在をキャッチし、先手を打って行動できれば見つからずに逃げおおせるのはわけない。
 しかし、曲がり角で鉢合わせてしまえば、そううまくもいかない。
 こちらが向こうに気付くと同時に、向こうもこちらに気付いた。
 俺が誰かというところまではすぐに気づかないだろう。だが、背を向けて逃げ出す相手を、館の執行人が見逃すはずがない。
 今やり過ごしたところで、すぐに連絡が回され、出口をふさがれるだろう。その前に逃げるには、考える前に動くしかない。
「待て!」
 屋根を伝い、路地を跳ね、距離を稼ぐ。なかなか執行人との距離は開かない。しくじった。舌打ちして、蔦を伸ばす。一軒先の電信柱に巻き付けて、ジャンプする。相手の使う術はわからない。だが今のところ、俺の方が足が速い。
「応援を要請する――!」
 そんな声が思ったよりも近くから聞こえた。追い詰められる。今捕まるわけにはいかない。俺には、やることがある。

「どいてくださいいいいいい」

 蔦を手元に引き戻して次の電柱に伸ばそうとしたとき、頭上からいやに間の抜けた声が聞こえてきた。
 避けなければと考える暇もなく、“声の主”が俺の上に降ってきた。
「……はぁ!?」
「きゃああ!」
 それが生き物であれば避けるわけにもいかない。
 俺が両手を広げると、間髪を入れず人が落下してきてすっぽりと収まった。
「はぁー……! 死ぬかと思った」
「……お前」
 人間の少女だ。
 それを確認する時間があればこそ、俺は蔦を伸ばして移動を再開する。少女を捨ておくわけにもいかず、俺はそいつを抱えなおして連れて行くしかなかった。幸いそれほど重くはないから足には影響しない。しかしどこかで置いてこなければ。
 よりにもよって人間とは。
「あああのっ、下ろしてくださいー!」
 助かったと一息ついていた少女は、ずれたタイミングで騒ぎ出した。息をつく暇も与えず動かざるを得ない俺は、「黙っていろ、舌を噛むぞ!」としか答えられなかった。
 まずは追手から逃れなければ。
「ひいいいこわっ、ひえっ」
 しかし少女はひたすら悲鳴を上げ続ける。
 うるさい。……さっさと置いてくればよかった。
 だが今はその一行動すら致命的なロスになる。放り投げれば止まらずに済むかもしれないが、俺もそこまで鬼ではない。
 何の力もない少女をこの速度で放り出せばどうなるか。
 ふと霊質が背後で高まったのを感じる。火の矢が俺を追い越して、蔦を燃やし、ちぎった。俺は新たな蔦を伸ばし、慣性で前へ吹き飛ばされた身体を止めるクッション代わりにした。
「お嬢さんを離せ!」
 火の矢をつがえながら、執行人が俺を追い詰める。火属性。相性が悪い。つくづく、運がない。
 この少女を人質に取ってみたところで、たいした時間稼ぎにもなるまい。
「きゃーっ!」
 火の矢が放たれる。身を庇うため蔦を伸ばす。少女が悲鳴を上げる。
 それらのことが瞬きの間に起こり、目を開いたときには景色が変わっていた。
「……は?」
 一面の青空の下に、俺はいた。
 妙に息苦しいので見てみれば、少女があらん限りの力で首にしがみついている。その腕を叩いて、気を引く。
「おい、おい。力を緩めろ。苦しいだろ」
「死ぬ死ぬ死ぬ殺さないで殺さないで……えっ!? あ!」
 ぶつぶつ言っていた少女ははっと顔を上げると、辺りを見渡して、ぱっと腕から力を抜いた。
 そのまま遥か地上へと落下しそうになるので、蔦を伸ばして捕まえる。
「きゃああ!? 何ここ!?」
 少女は蔦にしがみついて絶叫した。
「俺が聞きたい」
 いったい何が起こったのか。
 さっきまで、俺たちは街の一角に追い詰められていたはずだった。
 今は、高い塔のてっぺんにいた。
 おそらく、あの街ですらない。あそこにこんな背の高い建物はなかったはずだ。もっと都会の、どこか。
「転送術か……」
 あの執行人の仕業とは考えにくかった。となれば、他に想像できる理由はこれしかない。
 蔦を引っ張り上げて、少女を目の前まで持ち上げる。
 少女は涙目で俺を見上げた。
「……お前、人間だよな?」
 念のため、確かめる。少女はきょとんとして瞬きをした。その目を覗き込むと、意外なことがわかった。
「転送術だけじゃない。……木属性か」
「え……と……?」
 人間の中にも霊質を扱えるものがいることは知っている。しかし、この娘がそうだとは。
 振り返ってみれば、登場の仕方からして変わっていた。あのとき、俺の上には空しかなかったはずだ。いったい、どこからどう落っこちてきたのか。
「執行人じゃあ、ないよな」
 彼女には敵意がないし、若すぎる。見た目を変化させている気配もない。制服を着ているところからすると、学生だろうか。
「あのう……よくわからないんですけど……」
 少女は震えた声で、おどおどと聞き返す。
「下ろしてもらえませんか……? 私……高いとこ……だめなんです……」
「は?」
 それはこちらの台詞だった。高いところは平気だが、転送術でむちゃくちゃなところに飛ばされたのはこちらの方だ。まだ力をうまく扱えないのだろうか。
 俺は蔦を握り締める彼女の手の上に自分の手を添えた。力が入って白くなり、震えている。小さい手だ。
「まず、落ち着け。ここにいるのは、お前が俺たちをここに飛ばしたからだ。とにかく安全な場所を、と念じたんだろう。今度は、地面の上の安全な場所を念じるんだ。その場所に立ちたいと」
「念じる……?」
 少女は目をぱちぱちさせて涙を散らし、じっと俺の目を見つめる。俺はそれを見つめ返した。彼女の中で、ゆっくりと霊質が渦を巻き始める。
「安全な……場所に……」
 彼女が目を閉じた瞬間、ぐいっと全身が引っ張られるような感覚があった。そして、気付いた時にはどこかの道路のど真ん中に出た。
 いくつものブレーキ音とクラクションと怒号。
 俺は急いで少女を担ぎ上げると、道路の脇の道に身を隠した。
「はぁ……っもう少しましな場所に飛べないのか」
「すみませ……」
 答えようとする彼女の口を咄嗟に手でふさぎ、周囲を探る。また目立ってしまったから、執行人に見つかるとも限らない。しかし、今度は大丈夫そうだった。安堵して手を離すと、少女が身を乗り出してきた。
「今の! 私がやったんですか!? 瞬間移動!? どうなってるの!?」
「静かにしろ、騒ぐな」
 どちらにしろ、目立たないに越したことはない。人気のない路地裏で若い女に大声を出されたらそれはそれで問題だ。
「えーっすごい! すごいすごい、どうなってるんだろう……どうやったんだろう!?」
 案の定、まだ術を使えるようになったばかりらしい。
 しかし俺としては、地上に降りて、執行人もまけたとなれば、もうここにとどまる理由はない。
「その術があれば、どこからだろうと帰れるだろう。俺は行く。じゃあな」
「えっ、あの!」
 立ち去ろうとする俺の服の裾を、少女は慌てて掴んだ。
「どうやって帰ればいいんですか!? さっきの、まだどうやったのかわからなくて……!」
 ……はぁ。
 溜息を吐くくらいは許されていいはずだ。しかし、迷子のような彼女をこのまま一人置いていってまったく気にならないというほど薄情にはなれない。俺は彼女を落ち着かせるため、肩にそっと手を置いた。
「いいか。お前は一瞬でどこにでも移動できる。知っている場所になら、スムーズにいくだろう。その力を持ってるんだ。さっき示したようにな。それはわかったか?」
「うー、うーん、はい」
 彼女は首を捻り眉を顰めながら頷く。あまり飲み込めてないようだ。
「目を閉じて、お前の中にある力を探れ。どう扱ったらいいか、耳を傾けるんだ」
「はい……」
 少女はおとなしく目を閉じる。
「力を抜け」
 眉間から皺がなくなった。少女は唸り、術を発動しようとする。
「どうだっ!?」
 ぱっと目を開いて笑って見せた少女は、まだ変わらず俺の前にいた。
「……あれぇ?」
 俺を見上げた少女の表情には自信のかけらもなかった。
「できない……」
 これには俺も困った。この流れでいくと、少女がどこかへ移動するのを見届けなければこの場を去ることができなそうだ。
「……場所を変えるか」
 薄暗い路地裏から表通りに降り注ぐ日差しに目を向けて、俺は呟いた。

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