「やあ。ルシフェル」
軽い口調で声を掛けてきたのは天司長補佐官のベリアルだった。
「音の原因はわかったかい?」
「残念ながら。まだ立ち入りは禁じられている」
そのためルシフェルも、爆発のような音が聞こえたあたり――所長が入り浸っている研究所の周辺で立ち尽くす他なかった。音の出所として考えられるのはルシファーの所業以外にないのだが、実際に本人が釈明に出てくるわけでもなく、音がしてから駆けつけて以降、あたかも何事もなかったがどうかしたか、とでも振舞うように、静まり返っていた。
「君すら寄せ付けないなら、俺なんかじゃどうしようもないね。もう三日にもなるっていうのに。所長を首ったけにしているのはいったい何だろうね? そう考えると妬けるじゃないか?」
「これほど長く、姿を見せないということは今までなかったな」
ルシフェルは細く息を吐き出す。「これから一人でやることがある。誰も近寄らせるな」と短く最低限の指示だけ残して、ルシファーは研究所の扉をきっちり閉めてしまった。緊急事態……本人の生命活動に支障が出るような事故が起こった際には、この命令を無視してでも踏み入る必要があるだろう。
「しかし勝手に判断して踏み入って、大事な実験過程がおじゃんになる、なんて愚行は侵したくないしね。向こうから出てくるまで、待機を続行するとしようか」
「ああ……。そうか」
ベリアルの言葉を聞いて、閃くものがあった。
ルシフェルは研究所の扉を見ていた瞳を、まるでその中を見透かしたいというように絞る。長い睫毛が落とした影が、虹彩の青に深みを与えていた。
「私は、待っているのだろう。きっと」
音の原因を調べる必要がないことは、硬く閉ざされている扉から明らかだった。もしルシファーが助けを必要とするなら、その扉が必ず開かれる。窓すらも隙間なく閉ざされていることを確認した今、ルシフェルはただちに中断した仕事に戻るだけでいいはずだった。
しかし、その理性とは裏腹に、足はその場にとどまったまま、動き出す気配を見せなかった。その理由が、外的要因によって知れるというのも、不可解ではある。
自身の行動の意味が、自身の思考のみから理解できるとは限らない。
それが与えられたコマンドと矛盾しているように見受けられるものである場合は特に。
「何を?」
それが所長以外のことを指していることを読み取って、ベリアルは怪訝に片眉を上げる。
「程なくわかるだろう」
ルシフェルは答えながらも、視線は扉から外さなかった。ベリアルが身体の向きを変えたのを、風の動く気配によって感じた。
「そうかい。じゃ、ま、所長がお出ましになったら呼んでくれ。喉が渇いているかもしれないから、ワインでも用意しておこう」
「わかった」
ほどなくしてベリアルの足音が聞こえなくなった。
何を待っているのだろうかと、自問する。
仕事を中断し、近づくなと言われたぎりぎりのアウトラインで立ち尽くすほどの、何をか。
待ち焦がれている。
研究所で発せられた音は爆発によるものではない。術で羽を引きちぎった音だった。
生まれたばかりの柔らかな肢体を力なく開かれた繭の中に横たえ、息も絶え絶えに大きく肩を上下させているそれの背には、付け根に残された羽が初めて与えられた痛みという刺激に怯え、震えている。
どこで設計を間違えたのか。
いいや、間違いはない。正しく設計通りだ。
だからこそ忌々しい、とルシファーは舌打ちをする。
「あの女はいつまで俺を……」
逆だ、と理性が即座に否定する。
大昔に世界の果てへ飛び去って行った女の影が、いつまでも心の中に落ちていたことを、否が応でも認識させられた。完璧に作り上げたものに、物足りなさを覚えた段階ではまだはっきりとは気づいていなかった。足りないピースがなんであったか、繭がほどけ、裂け目から白い四肢が伸びをして、ニ対の羽が高々と、天井付近まで伸ばされたとき、痛感した。
自分を置き去りにした女の影を、よくもこれほど忠実に再現したものだ。
即座にその羽を切断し、遠くへは飛べないように封じる。それは彼女に与えた仕事には必要のないものだ。だから。
違う、とまた理性があざ笑う。
それはお前があの女にしたくてしたくてたまらなかった復讐のひとつではないのか――
ルシファーは切断した羽を炭も残らないほどきれいに燃やした。
「まだ起きていないのか」
ベッドが人一人分、丸く盛り上がっているのを見てルシファーは諦めの溜息を吐く。朝方まで研究室の方でなにやら物音がしていたのは聞いていたから、昼近くまでは夢の中にいるつもりだろう。
ここで無理に布団をはがしても望む結果が得られないことは、過去の経験から理解している。ルシファーは音の出ないようドアをゆっくりと閉め、一人分の朝食を腹に収めた後、自身の書斎に籠る。
彼女が軍属になってから、もうずいぶん長いこと実家に帰ってくることはなかった。よりいい設備を与えられ、潤沢な資金を持って研究に勤しめたことだろう。それが前触れもなく帰ってきたと思ったら、ろくに理由も話さず研究室に数日籠ったあと、ようやく出てきたらあろうことか湯を張ったバスタブで寝ていた。気付いたときにはベッドに連れて行くようにしていたが、本人が望まないので放っておくことにした。死にたいならどうぞご勝手にだ。今日はベッドで寝ている分、まだいい方だ。
ふいに、廊下を走るヒールの音が近づいてきて、ルシファーは書物から顔を上げた。背後にある窓から差し込む光は高く、短く濃くなった影が昼時であることを教えてくれる。
「ルシファー! できたぞ」
「何がだ」
うるさい、ノックをしろ、順を追って話せ、という痛切なる願いを何度訴えてもどこ吹く風なので、こちらもとっくの昔に諦めている。どうも姉というものはそういうものらしい。弟を自分の一部のように扱う。
「獣の核を体内に埋め込むんだ」
「何?」
さすがにこれは看過できなかった。ルシファーは本を閉じ、立ち上がる。
「そんなことを研究していたのか」
兵士たちを強化すべく、獣の力を移植する。その発想はすでにあり、あとは実証すればいいだけだが、当の本人が握りつぶした。私の獣を混じり物にするつもりはないと。
「いまさら、どうした。殺戮に狂って脳が腐ったか」
戦いに明け暮れ、血を得るためだけに頭脳を絞る労働のなんと愚かしいことか。
そのような唾棄すべき行いに自ら飛び込んでいっただけでも理解の範疇外だというのに、さらにわけのわからないことを言う。
「これだけの強度があれば空を超えられる」
「空を……? 未開の空の民など」
「違う違う、空の果てだ」
姉はまっすぐに頭上を指さした。乱れた生活習慣により肌はあれ、目は落ちくぼんだ上に充血している。その瞳に宿る光は狂気をはらんでいるようにしか見えない。
「この狭い空を打ち破るぞ」
両手を広げ、甲高い笑い声をあげる。つんざくようなそれに頭痛がしてくる。まったく何を言っているのか――考えているのか、理解できなかった。
「何を……飽き性が過ぎて、狂人に堕したか」
永遠とも呼べるほどの生を持て余し、冴えわたる知性が窮屈さを感じ、今いる場所に耐えがたくなったなら――星のすべてを巡りつくし、あらゆる書物を読みつくし、隅々まで三度も回りつくしそれでもなお退屈しか待っていない生が続いていくことが嫌というほどわかりきっているというのなら。
あとはもう、理性を殴りつけて馬鹿になるほかない。
「空の先に何かが待っているものか。あるのは果てしない果てだけだ。そこを飛び続けようというのか」
「これだけの強度があればその先へ行けるさ。創造神の元へ」
いよいよルシファーは言葉を失った。
創造神。馬鹿になったうえ、愚者の真似事までするというのか。
「ふ……ははは。ははははははは!」
この上肩を揺らして笑う以外にどんなリアクションが取れただろう。傍から見て、狂人だったのは果たしてどちらなのか。
「それで、行ってどうする。殺してくれと懇願でもするか」
「開かせるんだよ。この星を」
姉は憐れむような眼でルシファーに手を伸ばしてくる。ルシファーは笑うのを止め、姉を睨んだ。憐れまれる覚えはない。可哀想なのは息苦しさに藻掻いている姉の方だ。そのはずだ。
「待っていてくれよ。うまく交渉して、帰って来よう。この家に」
「……本気か」
「そのために、最後の段階にお前の力が必要なんだ。協力してくれるか?」
「ばかばかしい絵空事のために、その身を穢そうというのか」
その手伝いを俺にしろというのか!
姉はただ微笑む。無理にとは言わない、という態度。
こんなときにだけ、理想通りに振舞うのだから狡猾というより他ない。
そのような顔をされて、それだけはできないと断れると思っているのだろうか。
「ありがとう」
いままで一度たりとも聞いたことのない言葉、そしてこれからも二度と聞くことはないだろう言葉を別れに代えて、姉は飛び立っていった。
「立て」
まだ痛みのショックを引きずっている獣に、命令する。獣は崩れた繭の中からそろそろと足を延ばし、つま先をひんやりとした石造りの床に下ろす。
そうやって両足をそろえ、恐る恐る体重をかける。両手と残された羽でバランスを取り、獣はすらりとした身体を伸ばして見せた。
「状態を報告しろ」
「いい気分よ」
「情報は正確に話せ」
「五感、正常に稼働。心拍、正常値。問題ありません、ルシファー」
「いいだろう。数値も安定している。……では、お前に名を授ける」
ルシファーが手をかざすと、獣は目を伏せ、軽く片膝を折った。
研究所の扉が開いたと思ったら、そこから飛び出してきたのはルシファーではなく、見知らぬ獣――生まれたばかりの天司だった。
彼女はルシフェルを見つけると、ぱっと笑みを浮かべて駆け寄ってきた。ルシフェルもこのときを待ち焦がれていた足が弾けるように動いて、彼女のいる方向へひた走った。
二人は中間地点で手を取り合い、勢いのまま抱き合った。
「待たせたわね!」
「いや、そうでもないよ」
彼女は楽し気にルシフェルの背中をぽんぽんと叩いたあと、浮かれていた足を地面につけて、ルシフェルの顔を覗き込んだ。
「私の弟。名前を教えて?」
「ルシフェル。あなたは?」
「ハナエル! うふふ、あなたのお姉ちゃんよ」
「うん。知っている」
そう、ルシフェルは彼女の存在を知っていた。おそらく彼女が生まれる前から。彼女という存在がいる必要があることを、知っていた。
研究所の戸口に立ち、こちらを見ていたルシファーが立ち去ったのに気づき、ベリアルを呼ぼうか考える。
「ねえ、ここを案内してちょうだい。この足を動かして、たくさん歩きたくてわくわくしてるの!」
ハナエルが催促してくるので、ルシフェルは考え直した。ルシファーの方から必要であれば声を掛けてくるだろう。もしくは、辺りを歩いている途中でベリアルに会えば、伝えればいい。
ハナエルは待ちきれない様子でルシフェルの手を取り、歩き出した。
彼女が生まれたのは、ルシフェルとベリアルが星の民ルシファーの手により生まれた後、四大天司が作られる、少し前のことである。