その島は、砂を湛える器だった。平らな縁から、さらさらと、絶えず真っ白い砂が空の底へと零れ落ちていく。風に吹かれるためか、その流れは止まることなく、落ち続ける。
何枚も折り重なった皿のようなその島の上で、天司たちは防衛線を張っていた。
それまで晴れていた空が、にわかに灰色の雲に覆われはじめ、その奥で雷鳴が響き始める。稲光が見えるほど近づいてきたかと思うと、突風と共に雲が割れ、不気味な艇の群れが滑り落ちてきた。それはよく見れば艇ではなく、動いている。水棲の魔物にも似た巨体に、歪は翼を持ち、その背に悪しきものを乗せ、一直線に天司たちに向かって降りてくる。
一列目に整然と並んだ天使たちは、彼らに向かい、弓を引く。ただの弓ではない。そこから放たれた矢は光の尾を引き、風を切り裂き、まっすぐに敵ののどぶえを貫いた。
急所を打たれた敵は声も上げず、霧のように散っていく。主を失った艇は、それを知ってか知らずか、進路を変えずに、仲間と共に天司たちへと迫ってくる。
二度目の矢が放たれる。敵の速度は落ちることなく、彼らは一斉に槍を構え、投擲してきた。
呪いを込めたその刃が天司たちの羽を貫く。何体もの天司が島へと落ちていく。
ナキの眼前にも槍が迫っていた。しかし槍の目標はわずかにそれ、隣の天司へと刺さった。
天司は短く声を上げ、目を見開いたまま落ちていく。ナキは咄嗟に手を伸ばした。
「ナキ!」
別の天司が彼の名を呼ぶ。
「列を離れるな!」
しかしナキは振り返らなかった。
落ちていく天司が力尽きようとしているのがはっきりとわかった。天司に死はない。ただコアに戻り、眠りにつくだけだ。彼もまた、眠ろうとしている。白亜の砂の流れに落ちて。
ナキの羽を槍がかすめる。ナキはバランスを崩して、彼を見失った。空の蒼が見えなくなった。
「……はぁ」
宿舎から少し離れた庭には、心地よい日差しが降り注いでいた。柔らかな下生えは木漏れ日を受けて、朝集めた露をきらきらときらめかせている。
しかし、俯いてため息をついているカルの目には、その鮮やかさも映っていない。周りで起こることに注意を払っていなかったので、目の前に人がいることにもすぐには気付かなかった。
「大きなため息ね」
「……はぁ……まあ……」
重い口を動かして、唸るように答えてから、カルはその声が女性のものであり、さらにはこの場所で聞くはずのないものであることに思い至る。
「えっ、あっ、ハナエル様!?」
思わず飛び上がり、直立の姿勢をとる。カルに合わせてしゃがんでいたハナエルは、くすくすと笑いながら立ち上がり、微笑んだ。
「こんにちは、カルくん」
「あっ、あの、こんにちは」
しどろもどろになりながらなんとか挨拶を返すカルに、ハナエルは手に持っていた袋を開いて見せる。なんとも甘い匂いが立ち上ってきた。
「お腹空いてるんじゃない?」
「えっ、いえ?! そんな、滅相もない!」
「そういうときって、悲しくなっちゃうわよね」
だから、はい、と、取り出したのは2枚のクッキーだった。
「お友達と食べて!」
「ええっ!? 俺、そんな、いただくような資格は……!」
「いつも頑張ってるもの。報告書、ちゃんと読んでるのよ」
「あああ、ありがたいことです……!!」
「だからね、美味しいものをいっぱい食べて、英気を養ってね」
カルは受け取ったクッキーを手のひらに乗せたまま、軽やかに去っていくハナエルを呆然として見送った。
「ハナエル様にクッキーいただいてしまった……」
ほんのりと暖かいそれを改めて見る。どうやら夢ではないようだ。
それに、報告書も読んでくれていると言った。この前の戦いについても、きっと読んでくれている。
「……ナキ」
カルはクッキーを落とさないように気を付けながら、宿舎に戻っていった。
「よ、ナキ!」
薄暗い部屋の中には、小さな息遣いだけがあった。
羽を小さく畳んだ後ろ姿を見ると、どうしても気後れしてしまう。カルは強いて声を励まし、ナキの前に回り込んだ。
「じゃーん! これ、なんだと思う!?」
ナキはゆっくりと、目だけを動かし、鼻の先に突き出されたものに焦点を合わせようとした。
「……近すぎて、見えない」
「匂いでわかるだろ? クッキーだよ、クッキー! でも、ただのクッキーじゃないんだぜ」
「そうなの?」
ナキは小首をかしげる。カルは胸を張って、もったいぶって答えた。
「ハナエル様にいただいたご褒美だ!」
「ハナエル様に?」
「友達と分けてって。はぁ……素敵な笑顔だった……」
カルは今さらになって、後悔する。思いがけない邂逅に驚くばかりで、彼女のことをよく見ることができなかった。ただ、可憐に咲く花のように美しかったという印象だけが心を温かくする。
「友達と……」
しかし、ナキは再び打ち沈んでしまった。
カルもそれを見てしまってはもう笑顔を保てず、眉を下げ、唇を尖らせる。
「……まだ、やるつもりなのか」
瞬きすらせず、黙り込むナキの表情には何も浮かんではおらず、彼の思考が今どうなっているのか、辿る手掛かりを見出すことも難しい。
「そりゃあ、俺だって、なんとかならないかって思ってるけど……でも……師団長だって無理だって言ってただろ」
申し訳なさそうに声を絞り出すカルに、ナキは反応もしない。ただ引き結ばれた口元を見つめるのが辛くなり、カルはその手にクッキーを握らせると、背を向けた。
「それ食べて、ちょっとは外に出ろよ。……飛び方、忘れるぞ」
「ファーくん。今いいかしら」
「遅い。早くしろ」
「みんなにクッキー配ってたから! あ、でも全部あげてきちゃって残ってないの。ごめんなさい。また焼いてくるわね」
「必要ない。手短に報告しろと言っているのが理解できなかったか?」
急かすルシファーに、ハナエルは丸めて持っていた羊皮紙を開きながら天司たちの様子を伝える。彼の造ったものたちのすべての状況を把握し、彼に伝えるのが彼女に課せられた役割だった。
「それでね、気になる子がいたんだけど……。この前、砂の島上空で戦いがあったでしょう」
「問題なく撃退したと聞いているが」
「負傷者32名、不明者4名、よ。負傷者のうちの1名は、攻撃を受けて墜落し、流砂に巻き込まれていたところを発見されたの」
「それで」
「無事に戻ってはきたんだけれど、それ以来、飛べなくなってしまったんですって」
「どこか機能に問題が? 多少砂にまみれたところで、飛行機能に支障が出ることはないはずだが」
「そうね。問題はないわ。ないんだけれど……飛べないんですって」
ハナエルは作業を続けるルシファーの背中に向かって話しながら、頬に手を当て、考え込むように天井を見上げた。
「検査をしても、どこも異常はないの。そういうことって、あるのかしら」
「ありえないな」
ルシファーは淡々と断言した。
「飛行能力を有しているのだ。突き落せばいやでも飛ぶだろう」
「もう……。乱暴だわ。でも……そうね。いやなのかしら。飛ぶのが」
「もし、仕事に差しさわりがあるようなら」
「あ、そうじゃないわ! そうじゃないの、大丈夫よ」
ハナエルは慌ててルシファーの言葉を遮りながら、ただね、と続ける。
「砂の島に落ちた子たちを、助けてあげられないかしらと思って」
「たった4個のコアのために捜索隊を出して、あの砂海を探し回れと言うのか。割に合わんな」
「でも……いずれあの流れは空の底に落ちてしまうのよ」
「話は終わりだ。これ以上俺を生産性のない感傷じみた戯れにつき合わせるな」
それで相談は終わりだった。
彼がやらないと判断したことを覆すなど、ハナエルにできることではなかった。
「で、こういう役目は俺の出番ってわけね」
独り言ちて影から出てきた男は、宿舎に入り、その部屋のドアを軽くノックした。返事はないが、男はためらいなくドアを開ける。
「やあ、ナキ。実は君に異動命令が出てね。直々にお迎えに上がったというわけさ。君、飛べないんだろ? いや、飛びたくないのかな? まあ、どっちでもいいんだが。……大量の砂に押し流されるってのは、どういう気持ちだった? 掴んでも、もがいても、手ごたえのない砂……沈んでいく身体……穴という穴すべてに、極小の滑らかな粒が入り込んで、君をいっぱいにしたんだろう。太陽に温められたさらさらの砂が、君の全身を愛撫し、君の内側を蹂躙した……ああ、それってどれくらい快感だった? 想像するだけでゾクゾクくるね。君を検査したやつは驚いただろうね。こんなに小さな体に、これほど詰め込むことができるのかって。……ん、おや、震えているのかい? いやなことを思い出させちゃったかな? フフ、いい表情だよ……。そう、君が経験した恐怖……それをね、ぜひ教えてほしいんだ。飛べない君は、この師団にはいられなくなる。大丈夫、悪いようにはしないさ。ようこそ、俺たちの研究所へ……」