08:Escape from darkness

「今夜、隊長代理は宴会をします」
 しばらくどこかに行っていた騎士――ヒースは、もう一人の見張りを伴ってセシリアの牢屋の前に戻ってくると、押し殺した声で口火を切った。
「名目は隊長代理就任祝いですが……、騎士団長閣下、隊長殿を送った後ですから、気を抜きたいのです」
「でも、全員ってわけじゃないでしょ」
「同志以外は参加するよう仕向けます」
「仲間は何人?」
「6人」
 ヒースはセシリアが何か言うのを待つように間を空けたが、ふたたび口を開いた。
「作戦はこうです。今日、魔導器を運んできた馬車が空になるので、そこに夜中、人を乗せるのです」
「曇りだから逃亡にはうってつけね。向かう宛てはあるの?」
「そこであなたに聞きたいのです」
 ヒースは言葉を切って、射抜くような目でセシリアを見つめた。セシリアはヒースが口を開く前に、彼が求めているものを悟った。
「……ダングレストまでは、馬車で西にまっすぐ向かって二日というところね」
「旅支度はあまりできません。何せ時間がありませんから」
「私の荷物があるでしょ。そこに簡易結界が入ってるから。魔物はなんとかなるわ」
「ダングレストは、私たちを受け入れてくれるだろうか」
 ずっと黙っていたもう一人の騎士が、そう訊ねた。上手く隠しているが、一抹の不安、荒くれ者たちへの不信感が感じ取れた。
「ドン・ホワイトホースに頼りなさい。気の短い連中が剣を向けても無視して。そんな奴らでも、避難民たちを結界の外に追い出すなんてことはしないから」
「……では、その通りに」
 二人は固い面持ちでただセシリアの言葉を信じ、頷いた。
「決行は今夜。夕飯の時刻に戸を開ける」
「わかった」
 騎士たちは素早く持ち場に戻った。セシリアは長く息を吐きながら扉を離れ、ベッドに横になると目を閉じた。


夜になっても雲は晴れなかった。分厚い雲に隠れて、今頃東の空に浮かんでいるはずの満月の位置すらわからない。
濃い暗闇は、狩人の眼から武器を持たない弱きものを覆い隠してくれる。
逃亡に、うってつけの夜だった。

その暗闇の中を、さらに黒い塊が、息を殺して連なっていた。
影は互いに押し合い、支え合いながら、馬車の荷台へと飲み込まれるように消えていった。
監視の目は普段の半分に減っている。兵士宿舎からは時折ご機嫌な笑い声が聞こえてきた。新任の副隊長が、隊長も騎士団長も送り出してしまって、緊張が切れた後の弛緩した気分で、宴会に興じているのだ。
 馬車はどこからともなく掻き集められた魔核を下ろしたばかりで、空である。過酷な労働に疲れ切った人々は、一度は裏切られた活路を今度こそ手に入れようと、息を押し殺し、できる限り迅速に、馬車へ乗り込んでいった。
「押さないで。こっちはもう一杯よ。あっちの馬車に」
 誰とも分からない影を押しやりながら、セシリアは馬車から離れた。もう八割方収容できた。ここまでは順調だ。異変はないかと、見張りに立っているヒースの方を見上げる。上司がつまらないジョークでも披露したのか、兵舎から爆発するような笑い声が聞こえた。
もう少し。もう少し馬鹿騒ぎをしていて欲しい。ずっと、大口を開けて笑っていればいい。その間に、飼っていた羊が巡らせた柵の隙間から逃げているなど夢にも思わずに。
 そのとき、ヒースが小さな炎を点した。炎はすぐに消える。
 ばれた。
「……急いで!」
 セシリアは血相を変えて人々を急きたてた。まだ十何人かがもたついている。それをもどかしく押し上げ、馬車が軋むのも構わずに次々と押し込んでいく。
「セシリア! 急げ、もう来るぞ!」
「あなたが最後!」
 ヒースが駆けつけると同時に最後の男が荷台に手を掛けたのを見ると、セシリアは御者たちに出発の合図をした。馬車は一斉に暗闇へ駆け出した。鼓動を逸らせながら、セシリアは労働キャンプに向き直った。伽藍堂になったそこを、宴会に参加できなかった兵士たちが松明を掲げて走ってくる。先頭に立つのは顔を真っ赤にした隊長代理だった。
「今だ!」
 兵士たちを迎え撃とうと構えていたヒースが叫ぶ。突然、左手から爆発音がし、高く組まれていた櫓が音を立てて崩れ落ちた。櫓は兵士たちの頭上へ降り注ぎ、何人かの絶叫が漏れた。
 松明の火が燃え移り、周囲を照らした。燃える丸太が兵士を二分した。こちら側に分断された兵士たちは舞い上がった埃や煙に咳き込みながら、裏切り者の姿を探していた。
「くそっ、お前たち、一体これは何事だぁ!」
「ドートル副隊長、もう遅い! 我々の計画はすでに成った!」
 目を擦りながら剣を抜き払ったドートルに向かって、ヒースは高らかに言い放つ。
「なんだとぉ!」
「囚われていた人々は全て解放した! このような間違いは、正されなければならない!」
「何が間違いかぁ!」
 全員解放されたと聞かされて、ドートルは青褪めながら叫んだ。
 燃え盛る炎の音に掻き消されて、馬車の行方も聞こえない。
「なんたることだ……、こ、これではキュモール隊長が戻ってきたときに何を言われるか……っ! ようやく隊長相当の地位になったというのに……」
 ドートルは広場の惨事を目の当たりにして絶望的な声を上げた。そして、敢然と立ちはだかる部下に丸く剥いた目を向けた。
「た、隊長の命令に背き同胞を裏切った卑劣な行い、到底許せるもんではない! 下賎の輩めが、その身を持って償うのだ!」
 ドートルは泡を吹いて剣を振り回す。セシリアとヒースは剣を構えた。ヒースの近くにいた二人の騎士が、一斉にヒースに襲い掛かる。そちらに気を取られたセシリアに、ドートルが切りかかってきた。
「だあっ!」
 自らの失態によるあまりにも大きな損失に動揺しているためか、大振りな一撃は容易に回避できた。たとえ万全のときだとしても、アレクセイの十分の一、いや、それ以下にも満たないだろう。
 乱暴に振り回されるだけの剣をいなしながら、セシリアは徐々にドートルを炎の方へと追い詰めていく。ドートルは項に熱を感じ離れようとするが、前にはセシリアがいて動けない。
「はあっ」
「ひいっ」
 セシリアが気合を入れて剣を振り翳すと、ドートルは諸手を上げて身を屈め、左手に転げるように逃げた。
「熱い、熱い!」
 マントの端に火が燃え移ったのに気づいて、ドートルは慌ててマントを掴み、振ったり叩いたりしてようやく鎮火した。
「う、うわっ」
 炎に煌いた白刃に気づいて、ドートルは後ろへ引っくり返るようにそれを避け、放り出していた剣を拾うと、剣先をセシリアに向けながら立ち上がった。セシリアは剣を右手に持ち、切っ先を地面に向けたまま一歩、ドートルに近づく。ドートルは牽制しながら、一歩退いた。
「……帝国に楯突く不埒な小娘め! このようなことをしてどうなるか、身を持って知るがいいわっ!」
「その言葉、そのまま返してやる!」
 自らを鼓舞するように声を上げると、ドートルはセシリアに向けて剣を突き出した。渾身の一撃を、セシリアは見切っていた。右足を引き、身体を僅かにずらす事で突きの軌道から外れ、下方から右腕を伸ばす。炎の赤を弾いて閃く刃の突端は、真っ直ぐに心臓を差していた。
「セシリア!」
 鼓膜を震わせたのはヒースの声だった。だが、そこにセシリアはもう一つの声が重なっているのを聞いた。剣を握る右手に重ねられた温もり。かの手が力強くセシリアの手を押し、攻撃の軌道をずらす。
「く、ああっ」
 地面に落とされた剣が派手な音を立てた。鋼の刀身が震えて耳障りに喚く。
「手を!」
 すぐ側まで蹄の音が迫り、セシリアは剣を引き抜くと暗闇に手を伸ばした。ヒースはそれをしっかり掴み、馬上に引き上げると手綱を引き締め、夜の闇へ駆け抜けていった。
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